物語なんていらない 2/?
かつて瀬名伊織は、荒月沙杏にとって特別な人間だった。
沙杏が作者にボツにされ、この世界にやってきたとき、彼女の保護者となったのは、協会のとある女性職員だった。
しかしその職員は表向きには保護者の役割を演じつつも、裏で沙杏を虐待した。慈愛に満ちた笑みを浮かべ、沙杏の名前を愛おしそうに呼びながら、彼女の背中と心に、無数の消えない傷を残した。
作者に捨てられた時点で人間不信になりかけていたというのに、やっと出会えたと思った味方にまで酷い仕打ちを受けたことで、沙杏の情緒と思考は完全に歪んでしまった。
逃げようにも、逃げかたがわからない。
ボツになったキャラクターは基本的に天涯孤独だ。頼れる人がいない。
いや、正確に言えば、頼れる人は世の中にいくらでもいるのだろう。
だが当時の沙杏には、頼っていい人と悪い人の区別がつかなくなっていた。全員が敵に見えた。
仮に誰かに助けを求めたとして、それでなにも解決しなかったら。誰かに助けを求めたことを咎められ、もっと酷く殴られるんじゃないかと思うと、行動に移せなかった。
日に日に、抵抗する気が失せていった。暴力が過ぎ去るのをじっと待つのが、結局は一番楽な方法だと感じた。
そんな地獄の日々から沙杏を救ったのが、瀬名伊織だった。
虐待が始まって一年ほど経ったころ、瀬名がどこからともなく現れ、そしていつの間にか女性職員は消えていた。
その後、瀬名があとを引き継いで、沙杏の保護者となった。
瀬名は沙杏の傷ついた心を癒し、彼女に様々なことを教えた。
家は安心していい場所なのだということ。
料理は誰かと一緒に食べると、何倍も美味しくなるということ。
いつもよりお風呂掃除が上手くいくと、その日一日のすべてが上手くいったような、満たされた気持ちになるということ。
冷蔵庫の余り物で充実した夕飯が作れたときの達成感は、なかなか癖になるということ。
赤信号に一度も引っ掛からない日は、ちょっとだけ笑顔の回数が増えるということ。
休日の二度寝ほど幸せな時間はそうそうないということ。
孤独じゃない夜がどれだけ美しいのかということ。
自分を認めてくれる人がいるだけで、生きる力が湧いてくるということ。
そして、この世がいかに醜くて、存在するに値しない世界かということ。
沙杏はどうして、作者に捨てられなければならなかったのか。どうして、虐待を受けなくてはならなかったのか。どうして、行く先々で理不尽な目に遭わなければならなかったのか。
それは世界が間違っているからだと、瀬名は言った。そして沙杏に、世界に復讐するための武器と計画を与えた。
沙杏にとって、瀬名伊織は親であり、恩人であり、師であり、兄であり、憧れであり、初恋であり、未来であり、幸福であり、神だった。
「沙杏ちゃん。こんな世界、壊しちゃおうよ」
神の言葉は、歪んでしまった沙杏の心の新たな芯となり、彼女を立ち上がらせた。
おかしいとは思わなかった。
疑うという発想すらなかった。
心酔していた。
瀬名伊織の存在そのものが人生だった。
だから、沙杏は――
でも、いまとなっては、どうして瀬名があれほど絶対的な存在に見えていたのかがわからない。
考えてみれば、変な話だった。
沙杏が復讐をするとしたら、“作者”や、虐待をしてきたあの女性職員であって、それ以外の人間は無関係だ。東京の人たちを殺すことにどういう意味があるのだろうか。
しかし当時は、その当たり前の判断ができなかった。
逆に言えば、どうしていまは当たり前の判断ができているのか。
どこで自分の思考が正常に戻ったのか、きっかけはなんだったのか――ということを考えたとき、沙杏には思い当たることがひとつだけある。
あの銀髪の少女と戦ったときだ。
いや、厳密には、彼女が召喚した正体不明の精霊に斬られた直後だろう。
あれを境に、頭にかかっていた靄が晴れ、自分の思いを素直に口にできるようになったような、そんな気がする。
もちろん、気がするだけだ。本当のことはわからない。
あの精霊はなんだったのか。あの精霊が斬ったものはなんだったのか。
いつかまた、銀髪の少女と話せる日が来るのなら、訊いてみたい。
※
沙杏は瀬名からの手紙を受け取ってすぐ、刑務官に独房の外へ連れ出された。
自分が刑務所内のどこを歩いているのか、沙杏にはまるで見当がつかなかった。この雁道刑務所は一定時間で通路や部屋の配置が変わるため、見慣れた景色というものが存在しない。
二人の刑務官に挟まれながら、昨日歩いたようにも、今日初めて歩いたようにも見える通路を進んでいく。
やがて沙杏が連れてこられたのは、長机とパイプ椅子が並んでいるだけの、殺風景な会議室だった。
部屋で待ち受けていたのは、二十代くらいの若い男が二人と、白髪交じりの初老の男が一人。いずれもスーツ姿だ。若いほうの二人は姿勢よく起立しているが、初老の男は椅子の背もたれに大きく寄りかかり、だらしない格好で座っている。
(なんだろ、いつものやつかな……?)
沙杏は入所してから毎日、捜査員から瀬名伊織についての質問をされ、それに答えるという日々を過ごしてきた。
その瀬名から送られてきた手紙。彼の消息を追うための大きな手がかりとなるに違いない。
沙杏がこの部屋に呼ばれたのは、手紙についてあれこれ質問を受けるためで――つまり、いつもの捜査協力の一環なのだろうと思った。
けれど、ちょっと違和感がある。
消灯時刻を過ぎてから呼び出されるなんてことはこれまで一度もなかったし、そもそも、いま目の前にいる男たちの雰囲気が、普段対応してくれる捜査員たちとまったく違うのだ。
具体的に言えば、目つきが違う。敵意と不信と侮蔑を隠そうともしない、陰惨な目。
それでも、若いほうの二人はまだましだ。しかし初老の男は、その陰惨な目つきに加えて、表情全体が不快だった。
たとえば、狭い歩道で横に広がってのろのろと歩く学生に道を塞がれた人のような――
たとえば、一切分別されていないゴミ袋を見つけたときのゴミ収集員のような――
たとえば、わがままな人ほど楽な仕事を割り振られていることに気づいた若手社員のような――
たとえば、映画の上映中に、いい歳をした大人たちが隣の席でひそひそと話し続けるせいで、楽しみにしていた映画を台無しにされた人のような――
たとえば、自販機に小銭を入れても商品が買えず、小銭も戻ってこず、おまけにサポートセンターに逆ギレされた人のような――
そんな、世界中の苛立っている人間の顔を集計してAIにモンタージュさせたら、こういう顔つきになるんじゃないかという、やけに生活感のある歪んだ表情をしている。
「来たか、犯罪者。おせぇんだよ」
初老の男は、陰惨な目つきのまま、口元に下品な笑みを浮かべた。
ああ、この人は生理的に無理かもと、沙杏は思う。
「この前スーパーでなァ、クソガキがポケットにチョコレートを入れる瞬間を見てよ、ムカついたから助走をつけてそのクソガキを後ろから蹴っ飛ばしてやったんだよ。そしたらそのガキ、バカみてえな勢いで棚に頭突っ込んでよォ……で、こっからがおもしれえんだが、そのガキ、勢いがよすぎて、棚に頭をぶつけたあと、衝撃でそのまま後ろに跳ね返って、床にビターンッって倒れ込んだんだよ。わかるか? わかるか? え? 時計の振り子みてぇな動きだよ! それかあれだ、車のワイパーみてえな。……ワイパー! ワイパーって例えはウケるな! 人間ワイパーだ! とにかくよォ、人間が普通に生きてたらそんな動きしねえだろっていう動きで、ありゃ爆笑だったなァ! 何回思い出してもケッサクだ!」
「…………」
沙杏は眉をひそめた。いったいこの人はなんの話をしているのだろう。
「あーそうそう、あと先週な、禁煙だっつってんのに、公園の隅でタバコを吸ってるババアがいたから、残り少ねえ髪の毛を引っ掴んで、顔面を道路に叩きつけてやったんだよ。そしたらババアのやつ、めちゃくちゃ出血すんだよな(笑)。あれは笑ったな。こんな死にかけみてえなババアから、こんなに血が出んのかよって! ハハッ! ヤバいだろ! こういうのあれだろ、いまギャップ萌えって言うんだろ、ギャップ萌え! ほんとによー、ガキだろうがババアだろうが関係ねえんだよ。犯罪者に生きてる価値はねえんだよ。見つけた傍からボコボコにしてやんねえとな! なあ!? え? そうだろ!? なあ!? ハハハッ! ギャップ萌えって!」
初老の男は狂ったように笑う。しかし沙杏が笑っていないことに気づいた瞬間、突然真顔になった。
「おい、笑えよ。初対面だっつーんだから、気を遣って面白い話をしてやったんだろうがよ、犯罪者が。ここは笑うとこなんだよ。人の気持ちがわかんねえのか? あ、そうか、人の気持ちがわかんねえから犯罪者になったんだよな~? ハハッ!」
男は再び口元に下品な笑みを浮かべ、沙杏の全身を舐めるように見回す。
「よく見りゃてめえ、殴り甲斐のありそうな顔面とオッパイしてんなァ……。てめえの影の中にわけのわかんねえ護衛がついていなければ、いますぐぶん殴ってやんだけどな~」
男の視線が沙杏の影に、そしてその影の奥に潜む角端に注がれる。
「なんでいっちょまえに犯罪者ごときに護衛なんかついてんだ? 意味わかんねえ意味わかんねえ。めちゃくちゃ苦しんでから死ねばいいのに」
「…………」
「お、なんだその反抗的な目は?」
どうやら無意識のうちに、沙杏は嫌悪感を表情に出してしまっていたらしい。
ガン! と、男が眉間に皺を寄せながら、目の前の長机を蹴り倒した。
「立場を弁えろクソボケがァ! 勘違いしてんじゃねえッ! てめぇはなにをしようとした? 魔法生物を使って、大量殺人をしようとしてたんじゃねえのか!? どう考えたって俺よりてめぇのほうが極悪人だろうが! いい子ぶってんじゃねえ! 常識人のふりしやがってよォ! てめぇに俺を蔑む道理があるわけねえだろ! ムカつくんだよなァ! 犯罪者のくせに!」
理不尽にも聞こえる台詞だったが、しかしそれは沙杏の負い目を的確に突いてきた。
確かに沙杏には、目の前の初老の男を蔑む気持ちがあった。子供やお年寄りに暴力を振るうさまを嬉々として語る彼を見て、気持ち悪い、関わりたくない、こんな大人にはなりたくないとさえ思った。
だけど、自らのおこないを振り返ってみればどうだ。
彼の言う通り、沙杏がしようとしたことは大量殺人だ。当時のことを素直に打ち明けるのなら、「みんな死ねばいい」と思っていた時期だってある。
――極悪人は、あたしじゃんか。
他人を蔑む資格なんて、自分にあるわけがない。
沙杏は一言も言い返せなかった。ただ俯いて唇を噛むことしかできない自分自身が、情けなくて、悔しかった。
「お? しおらしい態度も取れるんじゃねえか。やっぱ犯罪者はそうじゃなきゃなァ。肩を縮めて、過去の自分がしでかしたバカなおこないを後悔しながら惨めに歳を取っていくのが、犯罪者の義務ってもんだろう? そうだろうが、おお? だいたいよぉ、悪人を痛めつけてなにが悪いってんだ。たとえば目の前に縄で縛られた殺人鬼がいてよ、金属バットが側に置いてあって、そんで役場から『ご自由にお殴りください!』って電話がかかってきたら、国民の八割は殴るだろ。選挙の投票率より高いんじゃねえのか? 本当はみんな犯罪者は死ねばいいと思ってるくせに、どいつもこいつもいい子ちゃんぶりやがって。いつまで道徳の授業をやってんだっつーんだよ。道徳の時間。俺は嫌いだったな~。ケツを拭いたトイレットペーパーより価値がねえ時間だった。早く廃止されろよ」
初老の男は愉快そうに語ると、いかにも高価そうな腕時計を見て、わざとらしく舌打ちをした。
「おーい、クソが。てめぇが反抗的な態度なんて取ってるから、時間が押してるじゃねえか。善良な一般市民の時間を奪ってんじゃねえよ。ちゃんとあとで反省しとけな、反省。……まあいい、さっさと本題に入るぞ。てめぇ、エミール……いや、瀬名伊織から、会いに来いっつう手紙をもらったよな?」
言い返したらだめだと自分に言い聞かせ、沙杏は大人しく頷いた。
「……はい」
「その誘いに乗れ」
「瀬名伊織に会いに行けってこと……? あたしが?」
「そう。そんで集合場所に現れたヤツを、今回臨時で召集された、俺たち特別チームで確保する――と、そういう作戦だ。ま、てめえに拒否権はねえけどな。這いつくばってでも現地に行ってもらう」
「わかった」
拒否権があったとしても、断る気はなかった。協力できることは、なんでもやる。それが沙杏にとっての償いだ。
それに、もしも瀬名に会えるのだとしたら、訊きたいことは山ほどある。
彼は、沙杏を地獄から救ってくれたヒーローだった。
しかし、警察の言っていたことを信用するのなら、沙杏を虐待した協会の元職員と、瀬名は裏で繋がっている可能性が高いらしい。
つまり、地獄を作り出したのもまた瀬名だということになる。
だとしたら、酷いマッチポンプだ。
まずはそれが真実なのかどうかを確かめたい。そしてそれが真実だった場合、瀬名がどうしてそんな回りくどいことをしてまで沙杏に取り入ろうとしたのかを知りたい。
本当に瀬名伊織に会えるのなら――だが。
「会って話したい」という手紙。言葉通りに受け取っていいものだろうか。
「ねえ、この手紙、なんかの罠って可能性はないの?」
「だから犯罪者のてめぇを最初に行かせるんじゃねえかよ~。てめぇは死んでもいい人間だからなァ、囮にはうってつけだろ? 罠だったらてめぇが痛い目を見て終いだ。ハハッ! いい気味だな~!」
「…………」
訊かなきゃよかった。
「まあ、しかし、罠でもともとだが、もしもヤツ自身が来るってんなら……こんな大チャンスはねえ。あのクソの中のクソをこの手で獄中にぶちこめる機会なんて、そうそうねえからなあ……!」
「なんであんたがそんなに瀬名を捕まえたがってるの?」
ただ何気なく尋ねただけのつもりだったのに、
「……ああ? 犯罪者が勝手に質問してくんじゃねェッ! つーか、さっきからタメ語で喋ってんじゃねえよ! 敬語を使え敬語をォ! 礼儀を知れボケがァ!」
なぜか怒鳴られた。どこに地雷があったのか、沙杏にはさっぱりわからない。
「……すいません」
「もっと頭を下げろッ!」
「すいませんッ!」
言い合うだけ無駄だ。じっと嵐が過ぎ去るのを待つ。悲しいことに、虐待されていた一年間で、耐えることには慣れてしまった。
どういう情緒なのか、沙杏が素直に謝罪を続けると、男は急に猫なで声で喋りだした。
「そうだそうだそうだ、それでいい。それでいいんだよ~。なあ? んで、なんだァ? ……ああ、どうして瀬名伊織を捕まえたいかってか。まったく、バカはなんも知らないんだな~。それとも誰も教えてくれないのかな~ッ? 哀れになってくるぜ、かわいそうに~。ふはっ、ふははッ! てめえなんかには一生教えてやんねえよ! ……と、言いたいとこだが、事の重大さを知らずに作戦に臨まれても困るからなァ、教えてやる」
感謝しろよ~? と、恩着せがましいことを言って、男は話を続けた。
「俺だけじゃねえ、世界中の警察がヤツを追ってるんだよォ。瀬名伊織ってのは偽名だ。本名はエミール・ヨアン・クザ。ルーマニア出身の犯罪者だ」
「エミール……? ルーマニア……?」
頭が混乱してくる。瀬名はそもそも日本人じゃなかったのか。
「有名なバケモンって色々いるだろ? フランケンシュタイン、魔女、狼男、ゾンビとかな。ヤツもその類だよォ。生まれながらの極悪人。世界中から恨まれているクソの中のクソ。ヤツは――」
初老の男は憎々しげに言った。
――ヤツは、ヴァンパイアの記号だ。




