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物語なんていらない 1/?

 湯煙が漂う、けして広いとは言えないバスルームで、一人の少女が髪を洗っている。


 そしてその無防備な姿を、堂々と背後から眺めている人物がいた。中華風の青い武道着を着た、細身ながらも筋肉質な体つきをしている男だ。


 正確に言えば、男らしき者――いや、人間らしき者だが。


 それは一見して、人間の姿かたちをしている。しかし肝心の顔が、黒く潰れていた。まるで影が立体化したかのように、目も鼻も口も闇の奥に飲み込まれていて、その一切を視認することができない。


 一方、髪を洗っている少女は、背後の化物および変質者の存在には気づいてはいる。そのうえで、放置している。


 もちろん、彼女はこの状況を好んで受け入れているわけではない。背後の化物は恋人でもなんでもないし、少女には他人に裸を見られて喜ぶ趣味はない。


 また、少女の背中には無数の傷痕がある。それを見られるのは、単に裸を見られることとはまた別の意味で、非常に屈辱的なことだった。


「ねえ、お風呂のときくらい一人にしてくれない?」


 少女は鏡越しに背後の男に言った。


「できぬ」


 考える素振りも見せない即答だった。


 まあ、そうだろうなと少女は思う。


 この問答は、今日に至るまで何十回と繰り返してきたやり取りだ。そしてその度に断られ続けてきた。いまさら「いいよ」と言ってもらえるとは思っていない。ただいちおう、訊いてみただけだ。


「これも仕事だ。我の任務は貴様の監視と護衛。風呂、睡眠、食事――人が無防備になる時間帯こそ、もっとも警戒すべきなのだ。理解せよ」


「はいはい」


 繰り返しになるが、少女はこの状況を好んで受け入れているわけではない。しかし逆を言えば、渋々ながらも、拒否はしていないということでもある。


 なぜ強いて拒否しようとしないのかと言えば、自分の立場がわかっているからだ。


 少女はいま、監視下に置かれている。


 そうされるだけのことはした。自覚はある。


 だから、いい。風呂のあいだも監視されることに関しては受け入れる。これも自分に必要な罰なのだから。


 だが、納得いかないことも一部ある。


「ねえ、わざわざ男の格好で監視する必要はないでしょ?」


「そうなのか……?」


 あまりピンと来ていないふうの声だったけれど、少女が鏡越しに背後を確認すると、武道着の男は、ウェディングドレスを着た女の姿に変わっていた。相変わらず顔は黒く潰れているが。


「わからんな。我は男でも女でも、人間でもない。なにを恥じることがある。我のことは犬や猫だとでも思っておけばよい」


「気持ちの問題なの。どう見ても男の格好をした人にお風呂を覗かれるのって、あんまり気分がよくないんだって。何回も言ってるじゃん」


 これも、今日に至るまで何度も繰り返してきたやり取りだ。


 背後にいる彼(彼女?)は、外見を変えることができる。男にも女にもなれるのに、わざわざ男のほうで風呂場に入ってこなくてもいいじゃないかというのが少女の言い分だった。


 しかし人間ではない彼には、人間の気持ちはわからないようで、何度言っても少女の感覚は理解してもらえない。


「犬や猫だと思えって言うなら、いっそ本当に犬になっといてよ」


 少女が投げやりに言うと、数度瞬きをする一瞬のあいだに、鏡越しに映っていた彼の姿が消えてしまった。


 不思議に思って背後を振り返ると、浴室の床に小さなトイプードルがちょこんと座っていた。


 ……本当に犬になってる。


 しかしそれは愛らしい見た目とは裏腹に、先ほどまでとまったく同じ、妙に芝居がかった口調で言うのだった。


「ところで、消灯時刻まで残り七分と十七秒しかないぞ。無駄話をしている場合ではないのではないか?」


「うわ、もうそれしかないの?」


 檻の内側と外側とでは、規律や時間の重みがまるで違う。たかが入浴時間だと鼻で笑うことはできない。


 獄中の少女――荒月こうづき沙杏さなんは、慌ててシャンプーを洗い流した。





 もしも特異な力を持つ者が罪を犯し、自由刑が執行された場合、その人物をどこに拘束しておくのか、という問題がある。


 彼らに対して、普通の檻や鍵はなんの意味も持たない。


 魔法で解錠する。超能力で檻を曲げる。妖術で看守を操る。身体を液体に変え、排水溝から脱出する。常識外れの腕力で壁を壊す。檻の内側から、遠い異国の地へ瞬間移動する。


 脱獄の手段ならいくらでもある。


 異能を持つ囚人を檻の内側に押し留めておくには、専用の設備を有する施設が必要だ。


 雁道がんどう刑務所。日本で唯一、異能力者を収容することに特化した監獄だ。


 魔法使いにして、ファンタジーの記号ツリーツェである荒月沙杏もまた、ここに収容されている。彼女はかつて、魔法生物研究所から魔法生物を脱走させ、また、未遂に終わったものの、その魔法生物を利用した大規模テロを実行しようとしたのだった。


(でも、想像していた獄中生活となんか違うのよね……)

 

 世間の大多数の人々と同様、沙杏は刑務所に対して良いイメージを持っていなかった。社会から隔絶された、渇いた空気の、色の無い孤島。獄中とはそういう雰囲気だと思っていた。


 しかし実際に彼女にあてがわれた独房は、檻の中というよりはむしろビジネスホテルだった。テレビはあるし、ベッドはあるし、トイレはもちろん浴室もある。ないのは窓とネット環境くらい。


 壁や床は薄いベージュを基調とした温かみのある彩りで、監獄という単語から連想される冷たいイメージとは正反対の雰囲気を醸し出している。


 そしてなにより、そもそも出入口が檻で塞がれていない。覗き窓が付いている以外は普通の扉だ。出ようと思えば外に出られるし、なんなら内側から鍵をかけることだってできる。


 なんだろう、この甘い待遇は――と、沙杏は自分の置かれた状況を、時折不審に思う。


 でも、どうだろう。刑務所って、こんなものなのかな? それとも私が未成年だから甘いのかな?


 なんて、考えたところで答えが出るはずもないけれど。


 しかしまさか、本当に独房の外へ自由に出られるようになっているわけではない。檻がないということは、檻が必要ないということでもある。


 出入口の扉から通路に出ることはできるにはできるが、刑務官の付き添いなしに外に出た場合、延々と通路がループし続けて、どこへも行けないようになっているらしい。


 とは言え、そんな仕掛けがなくとも、沙杏には強力な監視が付いているので勝手な行動は取れないのだが――。


 沙杏の影の中から、中華風の武道着を着た、顔が黒く潰れた男がぬうっと現れる。


「消灯時刻まで残り五十三秒だ。わかっているだろうな」


 沙杏は(わかってるって!)と目で返事をした。現在、歯を磨いているせいで声が出せないのだ。


 今日はうっかり時間の計算を間違えたせいで、お風呂も歯磨きもずいぶん慌ただしくなってしまった。


 先ほど浴室で急かされたあと、大急ぎで入浴を終えて髪の毛を乾かした。ろくに手入れができていないので、髪が若干きしんでいるものの……まあ、自分はそんなことを気にしていいような立場ではない。毎日お風呂に入れるだけ恵まれている。


 ちなみに、獄中で髪を染められる手段はないのだが、沙杏の茶髪はまったく色落ちしていない。彼女は茶髪のキャラクターとして生まれてきたので、最初から地毛が茶色なのだ。


 入所の際、肩口まで伸びていた髪の毛をバッサリ切ってショートカットにしたので、髪を乾かすのは以前よりだいぶ楽になった。単に乾かすだけならば、数分あれば事足りる。


 それから急いで歯磨きを開始し、いまに至る。


「消灯時刻まで、残り十秒……」


 無慈悲にも秒読みが開始される。沙杏は慌てて口をゆすぎ、ベッドに飛び込んだ。


「セーフ! ……だよね?」


 武道着の男の顔色を伺う。しかし彼には、文字通り、表情が存在しないことを思い出した。怒っているのかどうなのか、全然わからない。


「…………うむ。明日からは余裕を持って行動するように」


 よかった。許された。


「それでは、消灯する」


 男がそう言うと同時に、室内の電気が消えた。完全に暗くはならず、蛍光灯のぼんやりとした明かりが、漂う煙のように独房内を包む。


「おやすみ、角端かくたん


 と、沙杏は語りかけるが、返事はなかった。見れば、男の姿はすでに消えていた。部屋の闇に溶け込んだか、あるいは沙杏の影の中に戻っていったのだろう。


 ――角端かくたん


 言葉の響きだけを見れば少しかわいらしい、荒月沙杏の監視役だ。


 自在に姿を変える、人間ではない謎の生物。沙杏が刑務所に入所した日から彼女の影に取り憑き、片時も離れることはない。


 この檻のない独房において、角端の存在そのものが事実上の檻だった。


 薄暗くなった部屋で、沙杏は目をつむる。けれど眠気はやってこず、一向に意識が沈む気配はない。


 沙杏は一日の大半を捜査協力に費やしていた。


 彼女は魔法生物を使って東京を襲撃しようとした。しかしそれを計画した人物も、必要な道具を準備した人物も、また別にいる。


 どうやら警察は、その人物たちの情報を欲しているようだった。


 沙杏は捜査員に知っていることのすべてを話した。他人の記憶を覗けるという超能力者に、自分の記憶を見せもした。


 軽々しく仲間の情報を売る、移り身の早いやつだと受け取られたかもしれない。でも、それでもいい。できることはすべてする。そうしなければ、すでに顔向けできなくなっているあの銀髪の少女のことを、そっと思うことさえ許されなくなるような気がした。


 閉じたまぶたが、自然に上がってくる。


 眠れない。


 捜査協力と言っても、特別なことはしない。テーブル越しに捜査員の質問に答えるだけだ。それを一日中続けるため、精神的に昂ることはあっても、身体が疲れることはない。夜になったからと言って、すぐに眠れないのも仕方がない話だった。


 体勢を変えれば眠れるような気がして、寝返りをうってみる。…………だめだ。眠れるような気がしただけだった。


 ドンドン、とノックの音が響く。


「起きろ、緊急事態だ」


 抑揚のない刑務官の声。扉の小窓から、冷たい視線が注がれるのを感じる。

 

 なにがあったんだろうと、沙杏はベッドから出て扉を開けた。


 すると「手紙だ」と、刑務官がぶっきらぼうに、すでに封の開いた手紙を差し出してきた。


「……?」

 

 二重の意味で困惑した。

 

 まず、手紙が届くことのどこが緊急事態なのか、ということ。

 

 そして、誰が送ってきたのか、ということ。

 

 沙杏には知り合いがほとんどいない。手紙を送ってくるような人物にまるで心当たりがないのだ。


 まさか――。

 

 脳裏に、あの銀髪の少女の姿がよぎる。

 

 しかし沙杏の予想と希望は、大きく外れることとなった。

 

 手紙には、「会って話がしたい」という旨の内容が、簡潔に記されていた。

 

 差出人の名前は、瀬名せな 伊織いおり

 

 沙杏に魔法生物を使った東京襲撃の計画を伝え、実行を仕向けた男の名だ。

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