羞恥心とミステリー(事件編)2/2
春心が籍を置いている一年七組の教室には、鳴瀬と木田という二人の男子生徒が残っていた。
彼らは部活動が盛んなこの学校では珍しい帰宅部で、いまはどうやら取り留めのない雑談をしているようだった。
この二人と春心は特に仲がいいわけではない。かと言って険悪な仲でもなく、同じ教室に通ってはいるけれど、そういえばあまり喋ったことないなぁ、くらいの間柄だった。
そういうわけだから、春心は教室に入るときになにも言わなかったし、彼らもそれを気にする様子はなかった。
教室内は冷房が効いていて、窓も扉も閉めきられていた。
今シーズンの檸文高校のエアコンが解禁されたのは一昨日からだ。この学校が部活動に力を入れているという背景があるからか、設定温度はあまり低くできないものの、放課後も割と太っ腹にエアコンを使わせてもらえる。
とは言え、帰宅部が教室でだべるのに使うのはどうかと思うが、外でゴミ拾いをしてきた春心からすれば、涼しいのは正直ありがたかった。
春心は窓際から二列目、教室最後方にある自分の席につき、机の中に手を入れる。
あった。日直日誌。
もう一人の日直が午前中に半分ほど欄を埋めてくれていたので、春心は残り半分を埋めればいいだけだ。さっそくペンを握る。
まずは午後に行った授業についての項目。今日の午後は数学Aと、現代社会――ここはすぐに書けた。
そして“今日の感想・反省”という項目。ここは日直が自由に書けるコメント欄のようなものだ。なにを書こうか、少しだけ考える。
そのあいだにも鳴瀬と木田は、春心の正面、四つ前の席で喋り続けていた。
教室には三人しかいないため、彼らの声そのものは普通に聞こえてくるのだが、あまり盗み聞きみたいになってはいけないので、なるべく内容を聞かないようにしておく。
“今日の感想・反省”に書くコメントがなんとなく頭の中でまとまったところで、春心は再びペンを走らせた。
春心のクラスの日誌は堅苦しい文章を書くような雰囲気ではない。それほど気負わず、ささっと書き進めていく。
ぷう~。
突然、ガスの抜けるような音が春心の耳に飛び込んできた。
もっとはっきりと言っていいのなら、おならの音だった。聞き間違いではないと思う。
たぶん、鳴瀬か木田のどちらかがしたのだろう。
春心はそれを聞かなかったことにして、顔も上げずに黙々と日誌を書き続けた。おならを冗談にできるほどの仲じゃないからだ。
途端に、鳴瀬と木田がバカ笑いを始めた。
「くっせぇ」「お前ふざけんなよ」「いや、お前がやったんだろ」「早くトイレ行ってこいよ」と、おどけながらどつきあう音が聞こえてくる。
ところが、ここからが不思議だった。
あるタイミングで、バカ笑いぴたりと止んだのだ。
春心はさすがに変に思って顔を上げる。すると、鳴瀬と木田が気まずそうにこちらを見ていた。
「…………?」
なになに、どうしたんだろう?
どうしてこっちを見ているんだろう?
春心が首を傾げると、鳴瀬がなにかを言いかけて、しかし慌てたように顔を背けてしまった。木田も同様に、気まずそうに視線を逸らす。完全に挙動不審だ。
「…………?」
本当にわけがわからなかった。
どうして二人ともこっちを見ているのだろう。私、なにか変なことしたかなと、春心は不安になってきた。
「な、なぁ、舞込さんって、時々アレだよな。まぁ、なんて言うか、ドンマイ!」
唐突に、鳴瀬がそう言った。
続けて木田が言う。
「あー、なんつーか、こういう日もあるよ」
二人は動揺を見せながらも、なぜか励ますような口調だった。
つまりそれはどういうことなのかと春心は尋ねようとしたのだが、二人は焦ったように荷物をまとめ、足早に教室の出入口に向かってしまう。
去り際に、鳴瀬が振り返って言った。やはりちょっと気まずそうに。
「俺らさ、気づかなかったことにしとくからさ、だから、誰も来ないうちに早くトイレに行ってきたほういいぜ、うん。それじゃ」
「えっと、ちょっと待っ――」
春心が呼び止めようとするのも聞かずに、二人は逃げるように帰ってしまった。
「…………どういうことなの?」
結局、いまのくだりはなんだったのか。鳴瀬も木田も、春心の知らないところで勝手に納得して勝手に帰っていったみたいだったが。
なんだか気になるので、春心は一度、教室で起こった出来事を振り返ってみた。
たしか、教室でおならのような音が聞こえて。
そしたらなぜか鳴瀬と木田が気まずそうにこちらを見ていて。
それから気まずそうに励ましてきた。「気づかなかったことにしとくから」「早くトイレに行ったほうがいい」……。
そこまで考えた瞬間、春心はある考えに思い至った。とても嫌な考えに。
もしかして、もしかして……
「私がおならしたって思われてる?」
一度そこに思い至ると、そうだとしか思えなくなってきた。
「え、え、え……? うそぉ!?」
春心は慌てて走り出し、廊下に顔を出して叫ぶ。
「ちょ、ちょっと! 私じゃないっ!」
だが、既に鳴瀬と木田の姿はなかった。
どどど、どうしよう!
春心は頭を抱えた。
男子二人におならをしたと思われている状況が、思いのほかつらい。言いようもなく恥ずかしい。
いちおう、あの二人は春心のことをフォローするような言いかたをしていたから、他人に積極的に言いふらすとは考えにくい。
でも、もしもなにかの拍子に「あいつは平気で男の前でおならをする奴だ」という噂が広がったら?
終わりだ。もう学校には来れない。
春心がもう少し歳を重ねれば「そんなことで」と思えるようになるのかもしれない。
しかし年頃の、思春期の女子を生きるいまの彼女にとっては、重大な問題だった。
いまから鳴瀬と木田を追いかけて無実を訴えるべきだろうか。いや、必死すぎるとかえって誤解を深めてしまうかもしれない。
そもそも、あの音はなんだったのか。
鳴瀬でも木田でもなく、もちろん春心でもないのだとすれば、あのガスの抜けるような音はいったい……。
「う~」
教室の出入口で唸っている春心に、声をかける人物がいた。
「なにやってるんですか、春心」
あどけなさを色濃く残した女子生徒が廊下に立っていた。
なにも言わなければ、高校の校舎に小学生が迷い込んだと勘違いされそうなくらいの低身長と童顔。
長く伸ばした天然の金髪を片側に寄せて、右耳の後ろの辺りで結んでいる。
どこか拗ねた子供のような、迫力のないつり目をしているのだが、実際のところ、彼女はあまり怒りっぽいほうではない。
そしてその瞳の奥には、顔つき全体の幼さに反して、大人びた知性のある光が灯っていた。
彼女の名前は、メーベル・ベルナール・レオンハルト。
春心のクラスメイトだ。
「メーベルちゃん! た、助けて!」
春心はメーベルの姿に気づくなり、すがりつくように彼女のもとに駆け寄った。恥も外聞もない。
「いきなりなんですか。なにがあったんですか。……髪、乱れてますよ」
メーベルに冷静に指摘され、はっとなる。頭を抱えて考え込んでいたときに、無意識に髪の毛をいじってしまっていたのだろう。
春心は手櫛で乱れた髪を整えながら、メーベルに事情を話した。
「それがね、さっき――」
事情を聞き終えるなり、メーベルは言った。
「女だっておならくらいしますよ。夢見てるほうが悪いんです」
「ちょっと!?」
思ったより辛辣な答えが返ってきた。
「そりゃ人に聞かれて恥ずかしい気持ちはよくわかりますよ。でも、生きている以上、人前で鳴ってしまうときだってあるでしょう。そんなおなら一つで幻滅するような人たちに好かれる必要はありません」
「待って待って! その前に私、ほんとにやってないんだって!」
「ならなおさらですよ。勝手に誤解させておけばいいんです。やましいことがないなら堂々としていればいいんですよ。春心が心配するようなことじゃありません」
「それは……そうなんだけど……」
メーベルの言っていることは理解できる。こんなことで悩む必要はないとわかってはいる。頭では。
しかしどうにも説明しがたいモヤモヤが、春心の中に居座って離れなかった。
元気がなさそうな春心の顔を見て、メーベルは心配そうに表情を曇らせる。
彼女は少し理屈っぽいというだけで、なにも正論で春心をねじ伏せようだなんて思っていないのだろう。彼女は彼女なりに、春心を元気づけようとしたかっただけなのかもしれない。
「わかりました」
やがて、メーベルは先ほどよりも少しだけ優しい声で言った。
しかしそれは気の利いた言葉などではなく、あくまでも彼女らしい、理屈に沿った言葉だった。
「それでは、春心がおならをしていないことを証明すればいいんですね?」
「え? そんなこと、できるの?」
それができるのなら誤解も解けるだろう。
でも、おならをしていない証明――ひどい響きだ――なんて、できるのだろうか。
「まあ、直接証明するのは難しいでしょうね。しかし、春心の聞いた音の正体を探っていけば、なにかわかるかもしれません。やってみる価値はあるでしょう。諦めるのはいつでもできますから。大事なのは行動すること。そしてよく考えることです」
メーベルの瞳が鋭く光る。
この瞬間、春心はもうこの騒動の半分は解決したんじゃないかという気になった。
なぜなら、春心は知っているからだ。
メーベルが“名探偵”であることを。
彼女が一度考え始めさえすれば、どんな謎もたちどころに解決してしまうということを。
「さて、春心と男子二人のあいだで行き違いが起こった原因はなにか。春心が聞いた、ガスの抜けるような音とはなんだったのか」
考えてみましょう。
一年七組の教室を、メーベルはぐるりと見渡した。




