二分五十三秒
カチッ!
手にしたタイマーのスイッチを、俺は押した。
それと同時に、デジタル画面に表示される数字が、零から動き出す。
『これ』を計測するのは、俺の数少ない楽しみの一つでもある。
俺の視線の先には、一人の男が血溜まりの中で倒れている。
「ぐっ……何故だ! ああ……苦しい、痛い……」
男は顔を上げ、苦悶の表情で、哀れにも俺に訴えた。
全く――この男はこんな目に遭っても、まだ気づかないのか。
「そんな事、自分の胸に聞いてみることだ。まぁ、その胸からは今、血がドクドクと流れているけどな」
俺は冷たい目つきで、奴を見下す。
だが相変わらず男は、呻きながら蠢いている。
「はぁ……もう忘れたのか? それが原因で警察から逃げ回っていたと言うのに……」
どうやら、やっと気づいたようだ。震えた声で、男が言う。
「あの事は、お前に関係ないだろう?」
「三日前にアンタは、一人の老人を誘拐して、殺した。遺体は雑木林の中で見つかり、その様は……酷いものだったらしいな。それで俺は、犯人のアンタが指名手配されている事を聞いた。だから、次のターゲットに選んだ」
この説明を聞いた男は、手元のストップウォッチを見て、恐怖した。
「まさか! ……『タイマー』か!」
奴の言う通り、俺の事もテレビで有名だ。
逃亡中の凶悪犯罪者を狙う殺人鬼、それが俺だ。何故俺がこんな名前で呼ばれるか……それは簡単に察しがつく。
「ご名答。なら俺がどんな手口を使うか、知っているはずだな」
それを聞いた男はかろうじて上体を起こし、涙声で訴える。
「俺は…………俺はただ、カッとなっただけなんだよ……魔が差しただけなんだよ……。助けてくれ、早くしないと死んじまう……助けてくれよぅ……」
「手口を知っているなら、分かっているだろ? 俺は刺した傷は致命傷だって。いくら処置を施しても、救急車を今から呼んだとしても、アンタが助かる見込みは無い」
「助けて……助けて……」
理解していないのか、それとも理解したくないのか、なおも命乞いを続ける。
「それに、そんな事がよく言えたものだ。ニュースで見たよ、昔からアンタは、自己中心的な快楽主義者だったらしいな。楽しみの為の窃盗や放火、それに暴力行為。そんな事を他人にしても、自分さえ良ければ、人が苦しもうが何とも思わない。そしてついに、今度は人を殺したのか。
遺体の様子は酷くてね、執拗に痛めつけられた痕が無数にあったそうだ。やっぱりそれも、楽しむ為だろ? 人が苦しむのを? 一体、どんなに苦しんだか……、今のアンタみたいに、どれだけ命乞いしたか……。せいぜい同じように怯えながら、死んで行くといいさ」
もはや訴えが聞き入られないと、男は知った。
すると今度は、哀れな表情が怒りで次第に歪み、凶暴な声で俺に噛み付く。
「ふざけるなよ! こんな事して正義の味方気取りか? お前のやっている事だって、同じじゃないか。どうせ同じ穴の狢のくせして!」
……とことん哀れで、救いようが無い男だ。そして、本当に滑稽だ。
そう思うと、俺は笑わずにはいられなかった。
「クッ、ハハハッ! 何を勘違いしている、正義の味方だって? 違うな、ただ良い気分に浸りたいだけさ。同じ穴の狢で結構! 自分の身勝手な理由で人を傷つけるような奴を、その罰として苦しむ姿を見ると気分が良いからな! それに普段の俺は、虫一匹殺せないほど優しいんだ。アンタみたいに善良な人間をなぶり殺す真似は、決してしない。むしろそんな事をするアンタは……虫以下。そんな存在は、こうしているのがお似合いだ」
男は怒りの気力をなくし、また苦しみ、怯えはじめた。
「……あぁ、あぁ……死にたくない」
その声は、次第に弱まっている。それに……。
「なぁ気づいているか? アンタ、段々と目蓋が閉じ始めているぞ? そろそろ眠りにつく頃じゃないか? そう…………永遠にね」
嘲りを込めた俺の言葉を聞いた時、男の恐怖は最骨頂に達した。
さながら、消える寸前の蝋燭が強く輝く時に似ている。
男は目を見開き、奇声交じりの絶叫を上げる。
「嫌だ! 嫌だ! 死ぬのは嫌だ! 誰か助けてくれぇ……。ああぁ血が広がる……! 早く戻せ! 俺は死にたくない! 嫌だぁぁぁ!」
まるで狂ったかのように、広がった自分の血を、自分の体に戻そうと両手でかき集める。いや、本当に狂ったのだろう。その目は、こうすれば自分が助かると本気で信じている目だった。
正直、ここまでの生の執着を見るのは初めてだった。
自らのために平気で他人を苦しめ、死なせもしたと言うのに、いざ自分の番となると、何と言う様だ。最低でも、自分が同じ目に遭う覚悟もないとは、下劣にも程がある。
男は叫びながら必死に血をかき集めていたが、突如、ゼンマイの切れたかのように動きを止め、血溜まりの中に突っ伏した。
その顔は目を見開き、恐怖で歪んだ表情のまま、凍り付いていた。
俺は、そこでタイマーを止めた。
そして記録を確認すると、それを血溜まりに投げ捨てた。
画面に表示された時間は、『二分五十三秒』。短い時間だが、同時に永遠とも思える、長い時間にも感じた。
少なくとも――――自身の時間が永遠に止まった奴にとっては。