熱病
アーネスト・ロウ大佐は、自分の状況を”熱病に罹ったようだ”と思っていた。
厨房の食卓に横になっても、美女の残像が繰り返し蘇って寝付けない。
ヨルク公の憶えもめでたく、見目麗しく社交的。そんな事に加えて、軍人としても秀でており武功を誇る彼に、言い寄る貴婦人たちは多い。
三男であるから爵位は回ってはこないが、母方の祖母から莫大な財産を相続していて、婿がねとして狙われて居る。しかし、そういったやつばらには洗練した話術や態度で切り抜ける機知も備えて居る。
大佐とて商売女だけではなく、酸いも甘いもかみ分けたご婦人たちと束の間のひとときを重ねたことは、当然ある。
しかし、友人達が言う、『ある女性を観た途端、火酒で身裡を灼かれたような』、『彼女の微笑みを得る為なら、どんな苦労も惜しくはない』、『彼女の踏んだ地を伏し拝まんばかり』といった感情を、女性に持ったことは一度たりともなかった。
あの艶聞煌びやかなヨルク公とて、『恋はいいものだよ、アーニー。恋する女を思う時に自らの事を、守るべき姫君を見出した古の騎士のように思えるものさ』とも言っていたし、実際に忘れられぬ女性がいるのだという。
公からは『早くお前がそういう女性に出逢って、私に紹介して欲しいよ』と言われた事も数度ではない。
だが、恋を楽しんで浮かれている友人達を、大佐は醒めた眼で見ていた。
(くだらない)
……とまでは言い切るつもりはないが。
(所詮、我々の階級の結婚とは家格との釣り合いだ)
公やそのご一家である国王陛下を支える為に、貴族達の均衡を保つ契約。それが婚姻というものだと大佐は思っていた。
そこに信頼関係はありはすれども恋愛感情で結ばれているとは、大佐は考えてはいなかった。
--その、自分が。
垣間見ただけの女性に、これほどまでに心を奪われてしまうとは思ってもみなかった。
独りの女性をこれほどまでに我が物にしたいと思ったことも。
一瞬にして魂に刻印されることがあるものだとは、自分の身に起こって初めて実感したのだ。
悶々としながら、彼女を想う。
夜は何処で寝ているのか。
知性はトカゲの間は潜めているのか。
好きな食べ物、好きなドレスの色すら、彼女の好きな事は何一つわからない。
最悪、彼女が体調を崩しても、大佐には対処の仕方はわからない。
彼女の父親の研究資料を探そうと大佐は決心していた。
(何かの足しになるかもしれない)
人間である時の彼女の行動を見て居れば、火を恐れもしないし、暖を取ることもそして己の痕跡を隠すことも出来ることから、知性は残っているのだろうと思った。
……逆に、トカゲの時に知性が残っているのであれば、どれだけ己が姿をおぞましいと思っていることか。
(よく自死せずに)
居てくれた、と思う。
村人たちに追われ、人目に触れないように隠れて暮らし。人間としての尊厳を棄てさせられた境遇にも関わらず、よく生きていてくれた、と。
そして、彼女が此処に住み続ける訳を、哀しいと思った。
人間である時の記憶が、彼女のこの地に縛り付けてやまないのかもしれない。
(とっくに安住の地ではなくなっているのにだ……!)
だが、彼は彼女がこの地に留まってくれていた事に、天上の主であるとか運命といったものに、初めて感謝を捧げた。
(彼女と話したい……!いや、それだけでは、物足りない。彼女を、我が伴侶にしたい……!)
大佐はそこまで思いつめていた。
同時に、怒りが湧いてくるのも感じていた。
「どんな悪魔の知恵で、娘をトカゲにする薬を思いついたっ」
そして、それを実行した悪魔よりも昏い魂に。
(ミュラー!必ず探し出して、貴様の命と引き換えにしてでも解毒剤を作らせてやるっ)
そして、エリカ嬢(だと大佐は確信していた)がどんなに反対しようが、父親たるミュラー男爵をこの手で断罪してやる、とまで思っていた。
翌朝。
大佐はアリランの世話をやいて彼の為の運動をし終えると、早々に男爵の書斎に向かった。
人の出入りが暫くなかった事を物語る、埃臭くてカビ臭い匂い。
おそらくは、エリカ嬢の悲劇があってからカーテンは閉じられたことはなかったのだろう。入ってくる日光によって室内を見渡す事が出来た。
窓の外に在る木々の揺れ具合を確認して、窓を開けた。さあ、と爽やかな風が大佐の髪を撫で頰を擽って通り過ぎていく。
マントルピースの上に飾られていた、エリカ嬢の父親であろう金髪・金茶色の瞳の男性と、その夫人であろう美しい面輪の女性の似姿の絵を見て、”やはり昨晩の女性はエリカ嬢だったのだ”という確信を持つに至った。
書棚に収められている、背表紙を一つ一つ確認していく。
(何か、男爵の研究用手記でもあれば)
尤も科学者というものは、発表前の自分の研究を横取りされるのを警戒して、他人に見られたくないだろうから、どんなところに重要なヒントを残して居るか、知れたものではない。
大佐はざっと検分して、手記のようなものがわかるところには保存されていない事を見極めると、一つずつ書架をしらみつぶしに探していくことに決めた。
同時に。
(温室や廊下に仕掛けがあるのなら。他のところにも、ないとは言い切れない)
秘密の研究室に続く隠し扉がないかも、合わせて探し始めた。
あの女性の為に。というよりもあの女性に焦がれる己の為に。どんなに惨たらしいものを眼にしようとも、大佐は真実を見極めるつもりでいた。
昼近くになって大佐は、は、と顔を上げた。悔しいことに、歴代の男爵が集めたであろう書物の数々は大佐の知識欲を魅了した。
(くそっ、この書物と酒を片手に一生をこの部屋で過ごしても、悔いなどなさそうだ)
セイレーンよりも魅惑的に誘われた知識という名の大海に、大佐は暫し陶然としてしまった。闘いばかりで、ゆっくりと書物の世界に溺れる時間がとれていなかったことも、大きいのだろう。
(彼女の無事を確かめねば)
今から温室に向かうと、用心深い彼女を驚かせてしまうかもしれない。温室の影から、彼女が物見の塔に行くのを見守っていた。
トカゲがエリカ嬢だとすると、角笛を吹く意味合いが違ってくる、と大佐は思う。
(人目を忍んで居るようだから、自分を追い回した村人達に復讐のつもりで吹いて居るのではないだろう)
ならば。
答えは一つであるように思えた。
(自分の父親が、正午になると吹いていたから)
領主の義務と思って、吹き続けて居るのかもしれなかった。
大佐は彼女に対して、改めて慕情を募らせていた。
トネル達の言葉から、研究に夢中になりがちな父親に変わって彼女が領内の采配をしていたようだ。
(恐らくは慈悲深い女主人であったのだろう)
男爵のことを恐怖を込めて評する彼らも、エリカ嬢のことついては好意的だったのが、その証拠だ。
司祭などは、エリカ嬢のことを話すたびに頰を染めるのが忌々しかった。
(君に何がわかる!)
怪異に打ち震えて、天上人の慈悲を乞う姿を思い出して、腹たつ思いだった。
(彼女の窮地に手を差し伸べてやることもせず、村人達に同調するだけの愚か者!)
が。
彼がこの館に錠をさしたのだ。
ということは、”変事ありし時に、そう対処するように”と。男爵から指示を受けていたのだろうか?
だとしたら男爵は、惨劇を予見していたということだ。
(ミュラー!見下げ果てた卑劣漢め!)
一方で。
男爵の非業があったればこそ、彼女と自分は出会ったのだ、とも思う。
何事もなければ、エリカ嬢はそれこそ司祭夫人となっていたかもしれないし、大佐とて最初から人間のエリカ嬢と合間見えていたら恋情が芽生えていたかどうか。
(馬鹿馬鹿しい。私はトカゲだったからエリカ嬢に魅せられたとでもいうのか?)
しかし。
実際にトカゲの優美な姿に。
そして変容を遂げたエリカ嬢の可憐な姿に、心臓を撃ち抜かれたような心地になったのは確かであった。
(今日。エリカ嬢と話してみよう)
トカゲが温室のなかに引きこもる姿を追いながら、大佐は考えていた。
大佐はそわそわと厨房に戻ると、井戸から水を汲み、暖炉に湯を沸かした。
館の中から、主人たちの湯あみに使うであろう桶を探し出してきて、その中に湯を張り、久方ぶりに石鹸を体に泡立てた。布を固く絞ってからだを擦る。髪をゆすぎ、”ヨルク公の御前に伺候するまで、伸ばしておこう”と思っていた髭を、あっさりと剃った。
(我ながら初めての社交界デビューした時のようだな)
あの時は少しでも老成して見せようとして、かえって髭を伸ばしていたのだが父親に笑われて、慌てて剃ったのだった。
……別に剃らずともよいのだが、エリカ嬢に少しでも清潔そうな印象を残したかったのだ。……髭をあたりながら、少年のように頬を染めて、心臓を高鳴らせている己に苦笑を浮かべてしまう。
(こんなにときめいたのは、初めて女性と同衾した時以来だな)
そのときめきもいつしか、大佐の体の下を過ぎ行く女性達や、いつの間にか染み付いた人生の澱、硝煙と血にまみれて、何処かに無くしてしまっていた。
彼女と出会ってから、空気の爽やかさ。緑の眩さ。堅いパンの味わい。滴る肉汁にゴロゴロと喉を鳴らしそうな自分。突撃のラッパに起こされず、夢も見ないで眠り、朝日と共に起きる健やかさ。
そんなものを取り戻して初めて、”随分と自分は草臥れてしまっていたのだな”と思った。
(彼女と、なんと会話しようか)
意中の女性を、初めてのワルツに誘うような男の気持ちで大佐は思った。
(逃げられないようにしなければならない)
温室には噴水口以外に仕掛けがあるのだろうか。
(今の内に、仕掛けがないか、見ておくか)
大佐はそっと温室の扉を開いた。
ふすぅ、と可愛い鼾が聞こえてきたので、大佐は安心すると同時に、くすりと微笑んだ。
そして、昨日以上の用心深さを持って、温室の仕掛けを探して回る。
暖炉の中を確認する。
(あった)
そこには、昨日見つけた棒切れを斜めにさして時間稼ぎをした。
(噴水口と暖炉以外には仕掛けがないようだな)
惨劇の後、恐らく大佐との邂逅が、久しぶりの人間との再会であるだろう。見知らぬ男に怯えさせて、彼女の住まいであるこの館から逃亡させることだけは、避けねばならなかった。
ふと気がついて、温室から出て行き、男爵一家が居住していた翼へと向かう。そして、最初に探検した時に目していた、エリカ嬢の部屋であろう室内から女性用のマントを持って行った。
(妙齢の女性に、あんなボロ切れをまとわせているのは忍びない)
クローゼットの中にはドレスが沢山吊るされていたが、当時のエリカ嬢と現在の彼女の体型に差違があるかもしれない。昨晩垣間見たエリカ嬢はかなりほっそりしていたから、問題はないと思われた。しかし、以前の体型より肉が落ちていて肩がずり落ちてしまったりすれば、彼女の艶めかしい姿を前にして大佐は己の理性を保てるか自信がなかった。
なので、体型ごとすっぽりと隠せるマントを選んだのだ。
男爵の娘への愛情を示すように流行を追った色とりどりのドレス達を見て、大佐は改めて怒りを覚えたが、今はその時ではない、と思い直す。
不思議なのは、物見の塔と温室しかエリカ嬢が往復していない点だ。
秘密の通路から出入りしているのかもしれないが、クローゼットの中の衣服も、そしてエリカ嬢の部屋の床も埃が積もったままで、人間の足跡はおろか、トカゲが歩いたような形跡もみられなかった。
(何か理由があって立ち寄らないのかもしれない)
だとしたら、そんな所に置いてあった衣服ですら拒否されるかもしれない。そのうち、街に行って彼女の衣服を調えてこようと思った。
エリカ嬢への変態がいつ始まるかはわからない。大佐は慌てて温室へと戻るのだった。