月光の妖精
「今日はここまでか」
アーネスト・ロウ大佐は独りごちた。
(初日から無理をする必要はない)
なにせ、彼はここの領主となったのだ。
館や土地。
フェルハースト村の人々と仲良くなる時間は、たっぷりと有る。
(少なくとも、敵国と和平条約が保たれている間は)
彼が自分の寝室としてくつろいでいたのは、行儀悪くも厨房だった。
(場所も屋敷の中央に位置している。門扉からさほど遠くないし、どんな事態があっても動きやすい)
大佐は長らく従軍しているうちに、"寝起きする場所は、雨風をしのげるのならば何処でも問題ない”という大らかな考えに至っていた。
(ここは雨露も風雪も通さないし、比較的ほこりも少ないし)
他の部屋は、厨房よりも大分埃が積っていたし、かつ、かび臭かった。
(明日は館内を探検しがてら、風を通す為に館中の窓を開けていくか)
そもそも彼は、見栄と実用のどちらを選ぶかと問われれば、戦地で見栄を優先する人ではなかった。
(これが本国に帰って己のタウンハウスに戻れば、絹の柔らかさや寝床の温かさに慣れてしまうのだろうが)
彼の身体はそういった優しさを忘れ果て、寝床といえば野営したこととか堅い木で出来たベッドしか、思い出せなかった。
ゆえに大佐が『新領主用寝台』として徴用したのは、使用人たちが調理や作業するのに使っていたのだろう、大判なテーブルだった。
これをざっと拭いて野営用の敷物を敷けば、仮の寝床としては申し分ない。
(こんな所で、ご婦人に愛を語るには失礼だろうが)
何処かの宿場町で商売女を抱いたとしても、この館で暫く愛を囁くつもりのなかった大佐は、当分この部屋で寝起きする気満々だった。
厨房内には井戸も掘られていた事も、利点の一つだ。
(煮炊きするにも、行水をするにも都合がいい。一箇所で済む)
念の為に釣瓶を落として、汲み上げた水の匂いを嗅いだ。試しに舐めてみたが、浚う必要はないようだった。
(水については戦場で大分、鍛えられたからな)
水が手に入らず、飲めるものが酒しかなかったこともあるし、沼や川の水を飲まざるを得なかった時もあった。彼の腹は、雨水程度なら飲んでも壊れる程ヤワではなかった。
それから大佐は、釣瓶の中に火を点けた蝋燭を入れて井戸の中に降ろしてみたが、蝋燭の光は綺麗に瞬いていた。
(悪いものなども溜っていないようだな)
最大の理由が。
(厨房なら、大勢の客に料理を供する為のかまどやら暖炉やらがあって、居心地がいい)
母国もそうだが、この国でも石造りの部屋は、夏以外は暖炉に火が不可欠だ。幸い、厨房の裏手の薪小屋に、十分に枯らし切った薪がたっぷりと積んであった。何束か持ち込んで火を焚き付けると、周囲は温かく明るくなった。
宿屋の親父から持たせて貰った葡萄酒と、干し肉とパンとチーズ。
火かき棒にパンを刺して、ナイフで削った干し肉とチーズをその上に乗せて炙れば、素敵な夕飯の出来上がりだ。
葡萄酒をテーブルに置いて、ディナーを刺したままの火かき棒を持ったまま、大佐は具合よく、椅子の一つにとぐろを巻いた。誰も見ていないことを良い事に、壜にじかに口を付けて、ラッパ飲みをする。
(宿屋の少年……トネルが雇われたがっていたようだったから、彼を暫く馬丁兼雑用係として使ってやってもいいな)
少年は馬の世話も慣れていたようだし、しゃきしゃきした話し方からも利発さが窺えた。
(なんだったら、ここの家令として躾けてみるか)
使い途は多そうだ。
腹がくちくなり。葡萄酒が程よく回ってきて、仮の寝台に転がろうとした時。
ふと、何かが、大佐の耳を捉えた。
(……ピアノの音?)
こちらでは『ハンマークラヴィーア』とでも、言うのだったか。
大佐は短銃を握りしめながら、そろそろと音のする方向へと向かっていた。周囲に気を配りながらも楽器が何処に在ったか、昼間の記憶を手繰っていた。
(確か……、それらしきモノは広間に置いてあった筈だ)
布を掛けられていたし、広間は比較的埃が薄かったので、特に足跡など気にも留めていなかったが。
(誰かが侵入して、弾いているということか)
楽器を弾ける訓練あるいは教育を受けている者。……少なくとも知識階級以上のものか、もしくは音楽家だ。
(ひょっとしたら、音楽家が勝手に住み着いていて。それで角笛を吹き鳴らしているのかもしれないな)
だとしたら。残念ながらその人物には、音楽的な才能が全く備わっていない。
(不法侵入者の音楽家君。音楽で身を立てたいと思っているなら、夢は捨てたほうが無難だろうね)
大佐はくすり、と笑った。
ところが。
所々拙い箇所はありはするものの、弾き手はなかなかのものだ。
(角笛を拭いていた人物と、同じとは思えないな)
同一人物であったならば、口に不自由でもあるのだろうか。
(戦争で、口元に怪我でも負った傷痍軍人か?)
友軍の兵士ならば見つけ次第、ヨルク公に託して本国に帰してやろう。
しかし。
(敵軍ならば)
大佐は短銃を改めて握り締めた。
と。
弾き手は満足したのか、演奏を止めてしまった。大佐は気配を殺しながらも、脚を早めた。
(!)
あと少しでホールの扉に着くという時に。月光で照らされた通路に、ありえないものが棲息していた。
銀に見える髪。
白い肌の女性がそこには居た。
月の光で作られたかのように思える美女だった。
「……」
大佐が身動きした瞬間、女性は気配を感じたのか。ふわ、と髪を靡かせて消えてしまった。
(妖精……?)
現実主義の男がそう思う程の、儚げな姿だった。
暫し呆けて、はっと我に帰り。
駆け寄って見たが、何もない。大佐は己の事を、幽霊だの幻だのを見るような男だと、考えたこともない。
(隠し扉でもあるのか?)
仔細に検分すると、女性が消えた辺りにアルコーブがあった。
(ここか)
大きな窪みだった。丁度、牛が一頭入る位の。
(”牛”。……『怪物』が牛くらいの大きさだと言っていたな、そういえば)
トネル少年も、その父親もそして司祭まで。
(これは、単なる偶然か?)
ぱっと見た限りであったが、女性は肩から手まで剥き出し、脚も膝から露出しているような衣服だった。
(ここらの農家の女は、あんな短い下着は付けない。あんなに露出する破廉恥な下着を身に着けているのは、せいぜい商売女だけだ)
しかし、商売女ならば。
こんな人の居ない処に居ては商売にならないだろう。
(何か、やむにやまれぬ事情があって、娼館から逃げてきた女なのか?)
ならば、保護してしかるべき施設に預けてやらねば。
だが。
ふわ、と何処となく甘く薫ってきた芳香に。大佐は知らず、心踊る冒険の薫りを嗅ぎ取っていた。
アルコーブ……部屋や廊下などの壁面の凹所。