崖を背にした館
アーネスト・ロウ大佐は司祭を振り返った。
司祭は青ざめており。がたがたと震えながら、護符の印を切っていた。
「おそらくっ、ホルン館ですっ……!」
「ここから館までの間に、誰か住んでいるか」
大佐が尋ねると司祭は、首がちぎれるかと思う位に激しく頭を振った。
「館に誰か出入りしているとか」
「ありえません。鉄製の柵がぐるっと館の周りを囲んでいるのです。唯一の出入り口は、男爵とエリカ嬢が行方不明になった日、私が門扉を錠で閉じました。その後、大雨が降って地盤が緩かったのか、柵の内側には急流が出来てしまっており、館の前を通って崖から流れ落ちているのです……!」
(天然の要害、という訳か)
そして大佐は司祭に礼を言うと、馬上の人になった。
ぶぽ、ばがごうほう
(随分下手くそな吹き手だ)
もう一度、先ほどと同じ感想を持ちながら、大佐は気が急いていた。
ぐ、と手綱を緩めれば、鞭を遣わずとも、長靴で腹を蹴らずとも、愛馬は脚を早めていく。
なんとしても、吹き手をみつけたかった。
しかし。
ホルン館の門扉が見えたあたりで、唐突に角笛の音は終わった。
「ち……!」
しかし、収穫はあった。
間違いなく、この館の方向から響いてきた。大佐は馬を駆りながらも、音のする場所を行き過ぎないように注意していたのだ。
(司祭のいう通りか)
カツカツ、馬を柵の周りにそって歩かせる。
すると、なだらかな丘のうえに館は立てられており。柵がぐるっと三方を取り囲んでいるのがわかった。
そして、ドドドド、という音に近づいてみれば。
(滝……!)
館の背面は切り立った崖となっており。柵の内側を流れていた流れはそのまま、館の背面近くで滝となっていた。
川の流れは2mあまり。
(アリオンの脚ならば、飛び越えられないこともない)
しかし、地盤が緩かったら馬は脚を滑らせて、川へ転落してしまう。
大佐は、愛馬ともども滝の高さを身をもって知るつもりは、毛頭なかった。
愛馬から降りると、仔細に地盤を確認する。
そして、門扉を開いた。
ぎ、いいいぃぃぃ……。
陰滅な音をして、鉄の門扉が左右に開かれた。
両手の幅いっぱいに開け、その幅で愛馬が問題なく走り抜けられるかどうか、確認した。
そして、愛馬にまたがると、彼の首筋を叩いてやった。
「さて、相棒。少し冒険してみようじゃないかね」
主人の呼びかけに応じて、アリオンはぶるる、と鼻を鳴らして首を高く掲げた。
愛馬が、カツカツ、と蹄で土をかいた。
ぐ、と。
大佐が手綱を掴むと愛馬は一声いななき、風神もかくやという素晴らしいスピードで川に向かって走り出し、黒い稲妻のように空を舞った。
玄関のドアは鍵はかかってない
(確かに、この状況では必要ないだろう)
大佐にしろ、司祭は門扉の錠こそ持っていたが、この館の鍵を預かっていた訳ではないから、施錠されていなくて、好都合であった。
(鍵を持っているとしたら……。家令見習いであった男だろうな)
ディーター・ベネケという男。
(いずれは探し出さねばならないだろう)
玄関ホールに入っても、館はしん、と静まり返っている。
埃とカビの匂い。
そして。
(生臭い……?)
池の匂いというか。
(魚、ではないが。……何かが棲んでいるのは確からしいな)
匂いの中に腐敗臭や血液の匂いがしないということは、不法滞在者は肉食ではないのかもしれない。
(お行儀いい輩で。ベッドの中でランチやディナーをしないだけかもしれないが)
大佐は、短銃の撃鉄を起こしながら、用心深く歩みを重ねた。
匂いが強くなる方へと進む。玄関を開けてホールがあり、さらに進めば広間。広間からホールの隣にある食堂まで回遊できるようになっている。食堂の窓から、おそらく図書室と裏手に温室が見えた。
「……」
大佐は、しばし、どちらを先にするか、迷った。
(ままよ)
どうせ地の利は不法滞在者にある。
温室へと歩みを進めた。
ば、と扉を開けると、むわ、と温かい空気が大佐の頬を打った。
むせかえるような緑の匂いと、そして香しい、果物の匂い。
(果樹園……?)
そう思えるほど、温室の中は果樹で溢れていたが、見たことのない植物ばかりだった。
(この地の植物ではないらしいな)
何年も旅行するのが趣味だった、と訊いていたから。
(その時に持ち帰った植物なのかもしれないな)
暖炉が設置されているが、長らく使われた様子はない。
ちょろちょろと細い水路が走っており、それがこの温室の緑を嗄らさずにいるのだろう。
(もしかすると、湧き水か井戸から取水していて。そこが破損して館の周りを川のようにしてしまったのかもしれないな)
館を一周したら取水口を確認して水流を止めてから、門扉から馬車寄せまでを修繕しよう、と大佐は考えた。
(日時計)
温室の真ん中に日時計があって。そこに角笛が引っ掛けてあった。
(ここで正午を村人たちに知らせているのか?)
しかし、ここは館の中でも一番奥まった場所で、ここからの音色が、村中に響き渡るとは考えられなかった。
植物と果物の芳香で、生臭さはそれ程ひどくない。
大佐は温室を出ると、図書室は後回しにすることにして、ホールまで戻ってくると反対側の建物へと進んだ。
館の表に面した宿泊客の為の翼。その裏手には主一家の翼という構成になっていた。
暖炉の上に、裕福で知的そうな男と、美しい女性の似姿が掲げられているそこは、男爵夫妻の部屋の居間であったろう。
寝室も、そして男爵の書斎も夫人の衣裳部屋も。
空気が動いた気配すらない。大佐が歩くと、埃の中に彼の足跡だけ浮かび、長いこと、誰も立ち入ってないことを感じさせた。
しゃ、と夫妻の居間の天鵞絨のカーテンを開けて、太陽光を取り入れた。
夫人の衣装室に小さなドアが二つ。
一方は育児室で、一方は年配の女性の小物が多くあったことから、そこが夫人の、そして令嬢の乳母の部屋であったと思われた。