表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

鈍色

作者: 小野チカ

 彼は強いのだろうか。

 確かに強いのだろう。彼の肖像画には、身体に無数の傷跡があり、襟にはもう納まりきらない程のピンが刺さっている。栄誉の証である青色のマントを風に靡かせ、どんな敵にも向かう彼は――――


 本当は、強いのだろうか。







 ドーナツ状に存在するこの世界の頂点に立つ男。そう呼ばれている彼の名を知らない人はモグリだと言う。ほぼ円に近い形をしている大陸は全部で大小十五の国に分かれていて、それぞれの国にそれぞれの騎士団がある。その中でも小国ながら負けを知らない国。一番北にある月白げっぱくに彼は居た。その名の通り、一年の殆どを真っ白な景色で終える雪国だ。小国ながらも息が長いのは、この雪のお陰だと言われている。雪に不慣れな南の者には到底足を踏み入れることができず、一番武力のある筈の西の者も、発明の国と呼ばれる東の者にも、やはり雪がしんしんと降る季節には月白の城に足跡すら残せない。高くそびえる山々と、厚い氷と薄氷が入り混じる長い川は、絵画のように美しい。しかし、攻め入る敵には容赦なかった。


 うららかな季節に雪解けがはじまり、人々の肌の露出が高くなるころ、月白にはようやくどの国の者にも等しくその門を開ける。軟弱と呼ばれ歴史の片隅に記された民族が、実のところとんでもない力を持った武力の国だったと知られるようになったのは最近だ。噂によると雪と戦って、共に生きた民族というのは基本的に力が強いらしい。それほどまでに、北国の厳しさは人を強くした。


 彼の名を広く知らしめたのは第四次世界大戦のことだ。今から数年前に終結したそれは、十五ある国のうち主要三カ国と呼ばれている大国同士の小競り合いが飛び火したものだった。最初は三カ国で睨み合い、ちょっと手を出す範囲だったのが、たまりかねた国はどの国だったのか。火がつけば、それはあっという間に周りの国をも巻き込んで、多くの死者と多くの犠牲と、少しの国土やすぐ揺らぐ名声を残した。まだ雪に覆われていたこともあり、当時ただ静観していた月白だったものの、三年という月日はじわじわとその真っ白な雪にいくつかの足跡をつけた。月白の国王が重い腰を上げるには遅すぎもせず、早すぎもしない時期だった。月白にとっては。世界はそのころ、絶望と希望がないまぜになった、どんよりとした空気にほとんど浸っていた。息苦しくてもがくほど。


「月白の大地に無断で足を踏み入れし者は、例外なく斬る」


 そう宣言したのが彼だったのか、国王だったのか、尾びれ背びれのついた噂話ではどれが真実かわからない。ただ、月白はその言葉通り、例外なく斬った。一人のうら若き青年を先頭に。迷うことなく。大小合わせて五国もの騎士団の団長の首が飛んだのは、その宣言から三月も経たなかった頃だと思う。体力には自信のあった南の者も、戦う術には長けていると思っていた西の者も、兵器という名の知恵を惜しみなく出した東の者も、誰一人彼らの首を切ることはできなかった。その半年後、主要三カ国がそれぞれ終結宣言をした。平和を望んだ世界の民は、月白の英雄を称えた。“月白の騎士様”は瞬く間に子供達の憧れへ、乙女達のときめきへ、大人たちの安心へと変わった。


 誰もが思った。

 これで、平和になれると。

 けれども人は、どこまでも貪欲だった。


 月白の騎士様が平和の象徴だったのはいつまでだっただろうか。ぽつりぽつりと呟かれ始めたのは、皆の平和の象徴を一国が抱えるのはいかがなものか、ということだった。しかもあんな小国に。それは大国の王達が口にはしなかったが、王の誰もが思っていることだった。小国に置いておくには勿体ない、大衆の憧れの存在。平和の象徴。その彼が自国に居てくれたならば、と思う王は決して少なくはなかった。特に主要三国の王は、地に落ちた信頼を取り戻すために躍起になっていたので、徐々にその態度を強くした。月白の騎士様をわが国へ。しかしそれに、月白の王も月白の騎士も是とは言わなかった。どれだけのお金を積まれても、どれだけの美女を差し出しても、どれだけの知恵を分け与えても、どれだけの食料を献上しようとも、彼等の首が縦に振られることはなかった。そして小さな小さな北国へ大国の騎士が攻め込み、無残に散った。町ではそこかしこに月白の騎士と名乗る者が現れ、その名を語り、悪事を働く者も居た。平和の象徴だったはずの月白の騎士様は、いつからか口に出すことすら躊躇われるようになった。


 こんなはずではなかったのに。

 それは、誰しもが思っていたことなのに。


 知の国と呼ばれる東の者が発明した武器は、なぜ作られたのか。それは果たして幸せのための武器だったのか。見たこともない武器を前に月白はあっけなく敗れた。傷ついた人が国民の三分の一にも至る戦だった。いや、戦と呼んでいいのかわからないほど一方的で圧倒的な力の行使だった。空から降るいくつもの黒い点が、雨だと思った者もいると言う。黒い刃は、ただ雪解けを喜んでいた民を殺した。そこには彼の戦友も、親も、兄弟も居たと言う。


 月白の王は彼を手放した。それが降伏の印だった。みんなの“騎士様”になった彼は、それから一度も表舞台に出てくることはなかった。どこの国にも属さない、どこの国にも帰る場所のない騎士様は、平和の象徴として語り継がれる。彼がいるならばこの世界は大丈夫だ、と。知の国の者が作った黒き雨に当たっても死ななかった不死身の勇者。


 ――――そんな人は存在しないと、誰にでもわかることなのに。






 ***





 ――――汚いおっさんがいる。


 ドーナツ状の大陸の東の端、そこにある大国、だいだいは豊かな国だ。よく作物が育ち、水が綺麗で空気が澄んでいる。大きな海と山をいくつも持ち、鉱山からは希少な石が取れる。そんな豊かな国には、他の国と違って野良の犬や猫すらいない。貧困の差は多少あるものの、知の国と呼ばれる誇りがあった。みな真面目で律儀な国民性を持っている。そんな国に、汚い大柄の男が道端に寝転がっていたら、それはまあ目立つ。悪い意味で、だ。


 だから、深緋こきひが男を視界の端におさめたのは、大通りで人の往来が盛んにも関わらず、男の周りだけ空間が空いていたからだ。今は絶賛行方不明の月白の騎士の銅像のすぐ下で、ボロ布に身を包んだ、髪がぼさぼさで、ヒゲが伸び放題で、ちょっと小バエがたかっている、明らかに汚らしく匂いそうな男は目立った。


 ちらりちらりと男を見る人が多い中、深緋は立ち止まってそれはもうマジマジと見ていた。理由はただ珍しかったからだ。橙は他のどの国に比べても文明が進んでいる。先進国という名の旗を掲げて未来を歩く国だ。だからこそ、身汚い男が大通りで転がっていることに驚いたし、興味を引いた。この大通りを二本奥に進んだところは酒場で、朝の早い時間には酔っ払ってぐだぐだの男や女がいることもあるけれど、男よりもっと立派な服を着ているし、男より余程清潔だ。間違っても小バエはたかっていない。それに太陽が真上に昇る頃には、みな二日酔いになりながらも仕事をする。それが橙の国民性だからだ。真面目で律儀で融通の利かない頑固なところもある橙の国民ではなさそうな男は、深緋の足を止める程には衝撃的だったし、あまりにも男の纏う空気に生きる力が感じられなかった。


「もうすぐしたら巡回だし、騎士団が連れてってくれるだろうさ。放っておきな」


 からからと笑いながらパン売りのおばさんに背中を押される。大通りで立ち止まられては商売の邪魔なのだろう。橙の国民は合理的な行動を好み、物事が計画通りに進まないことに苛立つ。とはいえ人とは型にはまらないもの。そうでない人もいるのだろうけれど、深緋が今までこの地で出会った人というのは、大抵真面目で律儀で少し頑固で合理的な人たちだった。


「おばさん、パンをひとつ頂ける?」

「まいど」


 香ばしいかおりを漂わせる腕ほど長い硬いパンを買う。これに鶏の卵と牛の乳に甘味料を混ぜたものを浸して焼いて食べるのが深緋の好物だった。まだ家にあるのに買った理由は、もう少し男を見たかったから。それほどまでに、深緋の日常は汚い男というものには無縁だった。


 それから幾日が過ぎ――


「あ」


 気分転換に、と入った森の小川の近くでまた男と出会った。以前見かけた時は、月白の騎士様の銅像の足もとにだらしなく背を預けて、かろうじて座っている程度だったけれど、今回も割と衝撃的な姿勢で男はそこに居た。


「お……溺れたのかな」


 そう、小川に足を流したまま、打ち上げられた魚のような格好で川縁に上半身を預けている。特別急な川でもないので、そのままでもいいのだろうが、深緋は男が流されまいかとひやひやした。きっと体温も奪われるだろう。橙は年中穏やかな気候だけれど、たまに豪雨に見舞われる。そんな時は、どんなに日ごろ穏やかな川でも、男一人の足くらい簡単に引っつかんで流れていくものだ。


「あの!」


 声をかけてみても、男から返事はない。向こう岸にいるうつ伏せの男の目が開いていることが見えるくらいの距離なのにも関わらず、だ。


「あの、ご存知かもしれませんが、足、川に入ってますよ!」


 自分でも何を言っているのだと思うのだけれど、深緋はこれ以外にどう男に声をかけていいかわからない。かと言って近付く勇気などなく、立ち去るきっかけもつかめずに居た。


「知ってるよ」


 返答などないだろうと思っていたけれど、存外若い、はりのある声が返ってきた。一瞬、男からではなく空耳かと思ってしまった程だ。


「川の水、冷たくないですか」

「ぬるいな」

「そうですか……」


 じゃあお好きにどうぞ、とは言えず深緋は無難な返事を返す。深緋の生まれはこの東の国ではないけれど、この川の水は冷たいと思っていた。ぬるいと言われて少なからず驚いたけれど、長い時間水に浸かっていると感覚がおかしくなる。そういう意味での「ぬるい」なのかなとすぐさま思った。


「あんたさ――」


 そのまま去ろうとしていた深緋に男は姿勢を変えず、目だけをこちらに向けて口を開いた。その瞳はボサボサの髪とぼうぼうのヒゲからは想像もつかない程、強く、鋭い光を携えている。


「この前、俺のことを見ていただろう」


 どきりとした。

 この男は、あの日、たった数分見ていた自分のことを覚えているのか、と。


「えっと――ナルシストですか」

「馬鹿言え。あんなにじっくり見られたら、誰だって気付くだろう。普通」


 明らかに普通の枠組みから外れた男が普通を語ったことにも驚いたけれど、そんなにも自分の視線は不躾だったかと、恥じらいの方が上回った。


「すいません」

「いや。誰だって、こんな汚いおっさんが転がってたら不思議だろうよ」

「あ、自覚あったんですね」

「言うね。あんた」


 くつくつと笑って男は目を瞑る。そのゆったりとした動作に、この男は死んでしまいそうだと深緋は思った。あんな目をしておきながら、この男は今にも死にそうだ。不思議と生きろと願う。


 死ぬべきは、あなたではないはずだ――――と。


「おじさん」

「なんだ」

「私、今からお昼ご飯食べようと思うんですけど、おじさんも一緒にどうですか」


 にっこり笑った深緋を男が見たかどうかはわからない。目を閉じたまま、いらんと言うと男はそのままの姿勢のまま、何度話しかけても答えなかった。


 それが、二度目の出会い。


 それから、町の片隅で、小川の側で、橙の全てが見渡せると言われる塔のふもとで、またはその展望台で、男の姿を何度か深緋は見た。一番多く見かけたのは月白の騎士の像の近くだった。総じて汚く、どこか遠くを見ているか、目を瞑っているかのどちらかで、相変わらず彼の側はぽかりと空いている。話しかける日もあれば、そうでない日もある。男も、気まぐれで返事をするが、大抵は話しかけても無言のままだった。


 そんなある日、ちょっとした頼まれ事を済ました深緋は、いつもの大通りを通って帰る途中だった。


「この薄汚い男め!」

「罰当たりな奴だ」


 遠目から見てもぽかりと空いた空間があったことで、あぁ、男がいるのかな、と深緋は思っていた。しかし徐々に月白の騎士の像に近付けば野蛮な声が聞こえてきた。薄汚いという言葉に男しか思い浮かばなかった自分の脳もほとほとやられていると思ったけれど、深緋は考えるより早く、人ごみを分け、声のする方へと急いだ。


「やめなさいよ、あんたたち。いくらなんでもやりすぎよ」

「誰か、騎士団を呼んできて!」


 そんなパン売りのおばさんの声を聞きながら走った深緋の前に現れたのは、腕っ節のよさそうな男が三人がかりで男を足蹴りにしている光景だった。それでなくても男のボロ布は本当に必要最低限しか肌を隠していなかったのに、今はもう布切れですらない。引き裂かれた箇所からは血が滲み、男はただ地面を転がっていた。


「何をしているの! やめて!!」


 持っていたバスケットを、笑いながら男を踏んづけていた筋肉達磨のような男へ投げつける。駆け寄ったボロ布よりもボロボロな男はきちんと息をしていて、深緋は安堵の息を吐いた。


「なんだ貴様。この男の女か」


 人を人とも思わない達磨のような男の冷めた目つきに吐き気がしそうだった。何故こんなにもこの薄汚い男のことが気になるのか、生きろと願うのか、深緋にはわからない。本当なら厄介事に首を突っ込むことすら好きではない。自由気ままな暮らしをただ毎日続けるだけの日々が、深緋の少し前までの日常だった。


「この人が、あなたたちに何かしたの?」


 こんなにも無残な姿になるまでのことを、この男はしたのだろうか。


「こいつはな、騎士様の像を壊そうとした。こうなって当然の罪を犯していたのを、我々が正しく成敗してやっているだけだ。平和の象徴を壊す者は悪だろう」


 さも正義とばかりに主張する男に、深緋は目の前が真っ赤に染まる。


 何が正しさだ。

 何が当然の罪だ。


「なにが――――」


 平和の象徴だ。

 なぜ対話で解決しようとしないのか。


 だから、

 だから――――私は私でいられなくなったというのに。


 ぐっと握った深緋の拳を包んだのは、血の滲んだ男の手だった。はっとして男を見ると、こんなにもぼろぼろで惨めな姿をしているのに、瞳はただまっすぐ深緋を見ている。強く、鋭く、まるで諭すように。


「あんた今日も、俺のことを見てたのか」

「……こんな時になんですけど、やっぱりナルシストじゃないですか」


 一瞬で馬鹿馬鹿しくなった深緋が立ち上がるより早く、騎士団の重い甲冑の音が響く。事情を聞かれた筋肉達磨の男達は、ここでも余すことなく自分の正義を振りかざし、騎士団の騎士たちは饒舌な男達と、ボロ布のような男を交互に見ながら、調書に何かを几帳面に書いている。


「そちらの男性とはお知り合いで?」

「――――――兄です。ご迷惑おかけして、すいませんでした」


 騎士団の一人に怪我の手当てをしてもらっていた男の方は見ずに、深緋は答えた。兄のような人だとは一度も思ったことはない。汚いおっさんだと思ったことなら多々あるが、こうでも答えないと、男を解放してはもらえないということくらいは、深緋も知っていた。この男のことだ。身寄りもないと答え、ただ遠くを見つめ、気まぐれにしか返事をしないだろう。


 厳重注意を受け、身元引受人のサインをして、自分の職業や、住所を記載する。男の視線を時折背中に感じながら、深緋はいつもより素早く書いて、騎士に紙を差し出した。うやうやしく敬礼をしている騎士は何かを言いたげだったけれど、深緋は素早く騎士たちに背を向けるて、騎士像に背を預ける男に手を差し出した。


「帰ろうか、にいさん」

「――――えらく顔の似ていない兄妹だな」


 よいしょ、と言って腰を上げた男の身なりは、深緋が見てきた中で一番ひどかった。上着など、ほとんど着ていないも同じだ。均等の取れた体つきをしていたのは意外だったけれど、男は弱かった。されるがまま、甘んじて歪んだ正義という名の暴力を受けていた。


「あんたいくつだ?」


 珍しく、男の方から問いかける。礼でもなく、怒りでもなく、どうでもいい疑問だったところは深緋にとってこの男らしいな、と思うところだった。


「今年、19になった。おじさんは?」

「いくつだったかな。25を越えてから、年を数えるのが面倒になったから覚えていない」

「…………無頓着の極みね」

「ごもっともだ」


 その日、深緋が自宅へと男を招いてからというもの、男は深緋が一人暮らしなのをいいことに居座った。しかし男のすることといえば、遠くを見つめているか、目を瞑っているかで、時々町のそこかしこで見ていた男の姿と何一つ変わったことなどなかった。


 男は変わらなかったけれど、深緋の生活は変わった。少しずつ買い足した男のための衣服や皿ががらんどうだった部屋に生活感を漂わせた。単純に家事は二倍に増えたし、掃除は男も一緒に箒で掃かなければ事が進まなかった。ただ、食事は一人で食べなくてもよくなったし、男と二人、雨がしとしとと窓を濡らす中、各々が好きなことを好きなだけする時間は嫌いではなかった。そんな生活がぐるりと周り、二人の関係が相変わらず「あんた」と「おじさん」のまま二年経った頃、町では不穏な空気が流れ出した。第四次世界大戦終結から十年を迎えようとしていたその時、今度は小国同士の小競り合いが勃発した。大国の属国になった国が、重すぎる税収に耐えかねて反旗を翻したのが事の始まりだった。南の国から火がつき、徐々に西へ移動して、雪に覆われた北を通り過ぎ、東の橙にもじわりじわりと火の粉が飛び出してきた。


 町からは距離があり、森の入り口付近にぽつんと建つ家が深緋と男の住む家だった。そこにも、風の噂は通る。


「戦争になるのか」


 いつも無表情の男が、いつもに増して遠くに視線を置きながらぽつりと零す。深緋は、そうだろうね、と返した。戦争になれば深緋だって、いつまでもこの家にはいられない。


「忙しくなると思うから、私がいなくても、おじさんはちゃんと逃げてね」

「あんたは逃げないのか」

「うん。私は仕事をしなきゃいけないから」

「死ぬかもしれないのに、仕事をするんだな」

「そうね。死ぬかもしれない」


 そろそろ潮時だ、と深緋は思う。今まで、誰にも頼れずに生きてきた。本当は、小さい頃の記憶と同じように温かな家族と共に移り行く年月を過ごしたかった。本当は寂しくて、胸が張り裂けそうな夜だってあった。激しい葛藤にのたうち回って、何が正しいのかを探っているうちに、気がついたら男を拾っていた。何もしないし、何もできないし、放っておけば汚くなっていくままの男を世話することは、深緋にとって生きがいだった。結局のところヒゲも剃らしてはもらえなかったし、髪もボサボサのままだけれど、用意すれば風呂には入ってくれたので、あの頃と違って小バエは飛んでいない。肌つやも、幾分マシになった。もう潮時だ。


「ねぇ、おじさん」

「なんだ」

「私の名前、深緋こきひって言うの」

「何を今更」

「似ているでしょう。血と」


 深い緋色。鮮血は正に真っ赤だけれど、時間が経つごとにそれは徐々に色濃くなる。最後には濃茶色になってこべりつく人の血の色は、深緋の名の由来だった。本当の名前は、もう思い出せない。


 ――深緋、よくやった。

 ――深緋、月白の騎士は生かせ。

 ――深緋、これは我々の正義だ。これが片付けば皆平和になれる。


 深緋にとって、それは正義だと思っていたことだった。十年前。幼かったからという理由は、通じないことを今の深緋は知っている。深緋を孤児院から引き取った人が悪かったのか。月白に攻め入る作戦を立てた人が悪かったのか。もっと遡って、橙の希少な石に特別な力があることを見つけた人が悪かったのか。


「随分と自虐的だな」

「そうかな」

「俺は、あんたが怒ると目が真っ赤になるから、それが理由かと思った」


 深緋は一度だけ、男にそれを見られたことがある。男がここに住むことになった、あの月白の騎士像を壊そうとした時だ。男が深緋を止めていなければ、深緋はあの大通りで暴れていただろう。


「生きろよ。あんたは正しい人間ではないかもしれないけど、悪者ではない」

「それはそっくりそのまま、私がおじさんに言いたい言葉よ」


 いつも儚げで、触れたら壊してしまいそうな程なのに、いつも瞳は力強い。どうにかしてあげなくちゃと深緋を奮い立たせるのに、結局男のためにできることなど、何もなかった。男が何を思い、何を感じ、何をしようとしているのかすら、この二年間、深緋は一度だって分かることがなかった。月白の騎士を正義だと、平和の象徴だと崇める人々を見たことはあったけれど、壊そうとした人を見たことはない。


「悪者が必要なら、それは俺の役目だ。あんたじゃない」


 笑って済ますつもりだった。男に生きてと願っていたのは深緋だ。騎士像は壊そうとするし、川に足を突っ込みながら物思いにふけるような、正しさを求めるには不思議な言動が目立つ人だけれど、悪い人でないのは確かだ。少なくとも深緋はそう思っている。いや、そう思いたいだけなのかもしれない。深緋が男を生かしてあげたいと思うことで、深緋の心の底にけむる罪悪感に蓋をしようとしている。人を守るという正しいことを、最後にしたいという深緋の我侭から来る勘違いなのかもしれない。


 だから、男の言い分に、深緋は到底理解ができなかった。


「え……」

「俺は知ってる」


 やめて、と深緋の心が叫ぶ。


「七年前――」


 それは正しいと思っていた、昔の傲慢な自分を引き出さないで、と。


「雨だと思った黒い点がさ、だんだん近付いてきて、地面に落ちた時にはもうそれが雨じゃないことくらい誰にでもわかってた。真っ赤な目だけが見える変な帽子を被った明らかに頭おかしそうな子供がさ、笑いながら走ってくるんだ」

「…………」

「怖かったよ。この世の終わりだと思った」


 寒くもないのに歯がカチカチと当たって開いた口を閉められない。男は見ていたのだ。あのときの深緋たちを。それを正義だと信じて疑わず、月白の人たちを死に至らしめて喜んでいた子供を。


「俺のせいだ。たまたま運が良く生き残っただけだったのにさ。英雄に祭り上げられていい気になってた。ろくに剣すら振ってなかったくせに、自分は強いと思ってたんだよ。若さって恐ろしいだろ。目の前で斬られて行く人をただ見てるだけで、俺は何もできなかった。しかも、あの子供らさ、俺だけ殺さないんだ。何の拷問かと思ったね。そうでもされないと、俺は気付くことができなかったんだよ、自分が傲慢に振舞った結果が、この惨事だったなんてな」

「まさか――……」


 あの時、深緋たちが降り立った集落で、生き残した者は一人しかいない。月白の騎士は生かせ。そう言ったのは橙の国王だと偉い人たちが言っていた。だから残した。ただただやめろと叫んでいた青年には手を出さず、彼が膝から崩れ落ちた姿を見ても、何とも思わなかった。その彼が目の前の男と結びつかなかったのは、見た目のせいだったのだろうか。確かに男の瞳は、いつでも真実を見極めようと鋭かったはずなのに。


 人の噂は誇張される。良い事も悪い事も、大げさに伝えた方が面白さが増すからだ。当時二十五歳だった青年の腕は、確かに悪くはなかった。月白の騎士団でも筋がいい方だと言われていたし、戦で人を斬ったこともある。だがしかし、それだけだった。月白の騎士の物語にあるような、無敵の強さを誇っていたわけではなかった。先輩騎士に稽古をつけてもらい、団長にのされることも日常のことだったし、相変わらず母親には頭が上がらなかった。そんな普通の、どこにでもいる青年だった。月白を攻めるには、まず降り積もる雪を攻略しなければならない。それほどまでに雪に覆われた、ある意味孤独な国だった。だから青年が手を出さずとも、敵は雪に足を取られ、簡単に相手の陣を崩すことが出来た。雪国で生まれ育った青年にとって、雪は恐ろしくも頼もしい味方でしかない。確かに青年は先頭を切って戦をしたけれど、それは彼が誰よりも雪さばきが上手で接近戦を得意としていたからだ。何度か後援部隊にも回ったことがあるけれど、その時の青年は特に何もすることなく、戦を見守って終わった。それが本人の知らぬ間に英雄へと名前が駆け上り、月白の騎士様という、当時の青年には甘美な名誉がついた。終戦し、大国から来ないかという打診は、青年は王の望むままにと答えた。その頃の青年は甘美な名誉に酔いしれていたし、根拠のない自信に溢れていた。だから、どこの国へ属そうとも構わないと思っていた。首を縦に振らない国王には、自分を手放したくないのだ、という都合のいい解釈をして、それでも欲しいといってくれる大国の王の言葉に、青年は鼻を高くした。自分には、それだけの価値がある、と。それだけの正しいことをしたのだ、と。


 しかし真実、月白の国王は、青年を手放したくないから首を縦に振らなかったのではなかった。若い青年が戦争という精神の混乱を収めたいがために、民に祭り上げられた可愛そうな男だとよく知っていた。確かに彼の腕っぷしには成長を期待できるところはある。どの国に行ってもそれなりに功績を残すだろう。ただ、一人歩きした月白の騎士様のような大きな成果は見込めない。この国に留めておかなければ、戦争に疲れた民意が青年に傾き、引き取られた先の国で国力を二分する力になったとき、頼るもののいない青年の成れの果てなど、簡単に想像できた。だから、月白の国王は自国に留めておけるように取り計らった。


 その結果、他の国々から顰蹙を買い、知の国の素晴らしい知識が間違った方向に使われてしまった。橙で取れる希少な石には、力を増幅させる効果があった。それを人に与える場合、六歳から十二歳までの健康的な幼児に投与した場合の成長率が著しく、身体の成長と共に、その力も増幅した。孤児院から集められた、健康で、精神の衰弱のみられない子供に埋め込まれた石は、その子供の血となり肉となり、やがては目となり、耳となった。


「また、ゲームだと思ってた」

「ゲーム?」

「そう。私達は、毎日ゲームをすることが義務だったの。脳に直接信号を送るとかいう変なヘルメットを被らされて、必ず黒い服でしなきゃいけなかった」


 最初は嫌だと暴れる子供もいた。深緋もそんな周りの子供を見ると不安で仕方なかった。けれども、そのゲームが終わると、かならずご褒美がもらえた。最初は南の国でとれた甘いフルーツ。その次は西の国で流行している髪留め、男の子は深緋が見たこともないカッコイイ靴をもらっていた。その次も、その次も、ゲームで高得点を出せば出すほど、褒美は増えた。そのゲームの内容が、人をただひたすら殺していくものであっても、所詮ゲームだと、ヘルメットを外せば安心できた。自分は何も悪いことはしていない。ゲームでいい点数を出せば、大人が褒めてくれるし、褒美がもらえる。子供達にはそれで十分だった。そこで精神を壊す子供もいたけれど、それは深緋が気付くより早く、施設の中で出会わなくなっていた。その子供達がどうなったのか、今でも深緋は知らない。


「……だから笑ってたのか」

「怖かった。ヘルメットを外した時に、それがいつもの真っ白な空間じゃなくて、現実だったことが今でも……たまに夢に見るの」


 月白の一つの集落を壊滅させた日。ヘルメットを取った後のその光景は、深緋ではなく、多くの子供達の精神を蝕んだ。悪夢にうなされ、自ら死を選んだ子供もいた。その場に居合わせた子供の精神が壊れ、そこかしこで、次から次へと、誰も何もしていないのに、子供が沢山死んだ。


 月白の騎士様がみんなのものになった日に、組織は解体された。その時にはもう、子供は深緋ともう一人だけになっていた。その子供もその数年後に亡くなったという。石を身体に入れた子供の発育は著しく、ずば抜けた身体能力を得る代わりに短命だった。その結果を王に報告した大人は、最後に深緋にこう言った。


「あなたは、適合反応が極めて薄かったの。それがよかったのかもしれないわね」


 だから深緋は今も生きている。あの惨事の中、確かに潰した骨もあった。ただ、深緋は高いところから飛び降りても折れない骨と、象を持ち上げられる程度の怪力しか得なかった。他の子供たちはもっと優れていた。狙いを定めた相手の急所に的確に矢を当てられる子や、地面に手をつくだけで全ての水分を吸い上げる子もいた。もっと始めの頃は、口から火を吐く子供も、泣き叫ぶ声で耳を破裂させることのできる子供もいた。


「口約束だけど、有事には国に力を貸すことが条件で、私はここに住んでる。」

「仕事って、それか」

「普段は違うよ。怪力しかないから、荷運びの仕事をしてる」

「だから、騎士団が最敬礼したのか」

「……え?」


 騎士団が敬礼することを普通のことだと思っていた深緋は、男の言葉に首をかしげる。


「騎士団は普段、一般人に最敬礼をすることはない。あれをするのは国王の前と、それに匹敵する力を持つ者の前だけだ。なのにあんたにするもんだから、俺はそん時、確信した。あんたがあのときの子供なんだろうってな」


 職業の欄に、荷運びと書いてすんなり返してくれるだろうかと考えた結果、深緋は口約束を交わした「大人」が勤めている場所を書いた。何か困ったことがあれば名を出しなさいとも言った彼女は今どうしているのだろうか。それは深緋の知るところではない。ただ、男の話を信じるのならば、彼女は今もまだ生きていて、今も国のために研究に勤しんでいるのだろう。


「だから、ついてきたの?」

「そうだな。どんな奴だろうと思った」


 月白では騎士の悲劇と言われ、世界ではみんなの騎士様になったあの日の出来事を、男は忘れていない。身内を殺され、人ならざる力を持った子供に恐れを抱き、己の傲慢さに気付かされた。憎かった。親や友人を殺した子供が心底憎いと思った。憎しみでどうにかなりそうだった夜は数えきれない。けれど、憎いと思う心はそう長く続かなかった。男はそもそも国に忠誠を誓った騎士だ。罪を憎んで人を憎まずと教えられてきた身で、憎しみを抱えながら長い年月を過ごすには、身体も心も疲弊してしまうことに早々に気がついた。そしてその後襲ってきたのは、激しい後悔だった。本当に男はあの時、ただ叫ぶだけしかできなかったのだろうか。剣を握り締め、せめて隣に居た友人は助けられたのではないか。自分を守ろうと盾になった母親を逃がしてやることくらいはできたのではないか。そもそも、自分が騎士になどなろうと思わなければ、この惨事にはならなかったのではないか。月白の騎士などいないと、大きな声で叫べばよかったのではないか。大国に来ないかといわれた時、自分の力量を見せておけばよかったのではないか。男が考え付く後悔は全て身に抱えて日々を過ごしていた。そして男は生きる意味がわからなくなった。全ての発端は己ではないかと辿り着く度に死にたくなった。


 それを救ったのもまた、月白の王だった。

 既にその頃からボロ布を纏い、ヒゲを伸ばし放題で、ボサボサの髪をしていた男を、王は見つけ出した。そして言った。君は生きなさい、と。何も悪いことはしていない、と。騎士として恥ずかしくない行動を取った結果、月白の騎士という名誉が降って沸いた。それは男が若くして期待されていた身でもあるし、先頭に立っていたからでもあるし、見てくれが他の騎士よりもよかったからだ。もしあの日、あの時に戻ったとしても、月白の騎士と呼ばれるのは、他の誰でもない、若く未来のある男であっただろうと、王は言う。あの時、全ての民は平和を願っていた。長く続く戦争に疲れ、平和の導き手を渇望していた。そこに現れた月白の騎士様は皆の希望だった。その希望があったことで、戦後の復興は早かった。騎士様がいるなら大丈夫。男の素顔がどうであれ、騎士様という象徴は確かにあの時必要だった。だからそれにつけこんで君を利用したのは誰でもない私だ。誰が悪いといわれれば、それは私だ、と王は男に言って、それからほどなく病に倒れそのまま儚くなった。


 その言葉に男は幾分か救われた。自分は悪くないと。あの時、確かに平和の象徴は必要だった。自分は正しいことをしたのだと思うことができた。けれども、その思い込みも長くは続かない。男はその後、激しい後悔をした後、王の言葉を思い出して希望にすがろうとすることを繰り返した。


「俺がしたことが良かったのか、悪かったのか、今でもわからない。あんたが憎いはずだったけど、小バエたかって誰も寄り付きもしないおっさんを拾って甲斐甲斐しく世話をしたかと思えば、俺を見て泣きそうになってる。すっげえ幸せに暮らしてたら心底憎んですっきりできる筈だったのに、あんたも苦しんでるなんて気付いたら、なんも言えないだろ」

「おじさん……」

「あんたも俺もさ、白黒付けようってするから苦しいし、死にたくなる。せめて最後は正しいと思うことをして自分を納得させようとする。ちょっと怪力の女と小バエたかってるおっさんを正義が悪かを裁く人間は、もういないんだよ。どうだっていい。月白はより小さい国になったし、大国も代償を支払った。月白の騎士様なんて呼んだって出てこないし、死せる黒い雨の正体を知る者もいない。口約束を律儀に守る必要はない。後ろ暗い過去を全部さらけ出しながら生きる必要なんてこれっぽっちもねぇんだよ」


 橙の真面目で律儀な国民性は、北の生まれの男にも、南西の小さな村で生まれた深緋にも、あいにく持ち合わせていない。正義と平和の代名詞だったはずの月白の騎士は、その口でとてもずるいことを言う。目の前の薄汚い男と、人と武器の中途半端な女の都合のいいずるい言葉を。


「ずるいことだよ、それは」

「知らないのか。おっさんにもなると、ずるいことも自分が正しいと思えば正しいんだよ」

「図々しいというか、自己中心的というか……」

「図々しくて、自己中心的な奴等に貴重な青春時代を捧げたんだぜ、俺。これくらいの我侭かわいいもんだろうよ」


 笑いたいはずだったのに、深緋の目からは涙がこぼれた。それが真っ赤な血の色をしていたのは何故だったのか。それは、誰も知らない。





 ***




「昔はこの大陸にある国全部繋がってたなんて、信じられないね」


 授業を終えた後、教科書を見ながら飲み物を頬張る少女の周りには、同年代の学生が何人か居る。


「でも確かに、パズルみたい。ほら、この国とこの国繋がってたんだよ。形がぴったり」

「戦争ばっかりしてるから、神様が怒ってぶった切ったんじゃなかったっけ」

「お話の上ではね。地殻変動が起こったのが原因らしいけど」

「あぁ、ほら。平和の像ってどの島にあるんだっけ」

「この北端じゃなかった? 雪すごくってさ、なかなか見にいけないらしいよ」

「なんでそんな辺鄙なところに作ったかなぁ。マジここの王様やっつけ仕事すぎ」

「美男美女なんでしょ。騎士っぽい人と美女の像じゃなかったっけ」

「え、そんな話だった? 私、頭も爆発してて無精ヒゲのおっさんと、赤い目の女がモチーフだって聞いたよ」

「えぇー、そんなの聞いたことないよ。騎士様だよ、騎士様。美形に決まってんじゃん」

「頭爆発してるおっさんとか加齢臭ただよう像にすんのやめてよ」

「っていうか、赤い目の女ってなにそれ。充血?」

「知らないよ。噂だしさ」

「噂なんてアテになんないよね。絶対盛ってるし」

「盛ってるっていうか、それ、どっちかっていうとこき下ろしてるけどね」

「いえてる」


 彼女たちのめくる教科書に、第五次戦争の文字も、黒い雨の文字もない。ただそこに写されているのは、北端の辺鄙な島にあるという、平和の像と、かつてこの大陸が陸続きになっていたことが書かれているだけだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ