~第91章 番外編1 一之瀬 京也という男~パリ編
フランス、パリ。
「C'est tout pour aujourd'hui.(今日は、これでおしまいにしよう)Bon week-end!(良い週末を)」
このオフィスに来て半年が経った11月。僕は、そういつものように挨拶をすると、ミーティングを終えた。ここは日本とは違い、皆、残業は殆どしない。ここに居ると、日本人は働きすぎだというのをひしひしと感じる。
「さてと・・・僕も帰るとしようかな・・・」
皆が後にした誰も居ないオフィスで、僕はひとり溜め息混じりの日本語でそう呟いた。
椅子から立ち上がり、ジャケットより少し長めのコートを羽織った時、後ろから僕の名を呼ぶ声が聞こえた。
「Ichinose!」
その声に振り返ると、帰り支度をしたひとりの女性が立っていた。
「Mireille.」
彼女は、僕の顔を見るとにっこりと微笑み、こう言った。
「Tu veux aller boire un coup?(軽く飲んでいかない?)」
「Oui, je veux bien.(そうだね、喜んで)」
この女性の名は、Mireille。
フランス支社のトップ、いわば社長だ。しかし、偉ぶるわけでもなく、気さくで部下思い。仕事一筋の芯の強い女性だ。彼女のそんな姿を、僕は尊敬している。年齢は、僕より3つほど上。そんなに離れてはいないが、僕がここへ来た時からまるで自分の息子のように、とても可愛がってくれている。日本ではあまり例を見ないが、ここでは上司も部下も大きな差はなく、まるで仲の良い友人同士のような親しみやすさなのだ。
彼女は、僕の答えが嬉しかったのか、Allons-y!(行きましょう!)と、元気よく答えると、薄茶色のふんわりとした長い髪を揺らしながら僕の少し前を歩いた。
外に出ると、一瞬にして冷たい風が身を包む。11月のパリは、東京での12月の気温に匹敵する。時刻は18時15分。日が落ちている為、より一層寒さを感じる。
ただ、この街の夜景は想像していた以上に美しい。
君と一緒に見たかったよ・・・葉月さん・・・。
外に出て僕の隣を歩き出したミレーユは、楽しそうに話をしながら彼女のよく行く店へと案内してくれた。
今、こうして一緒に歩いているのが葉月さんなら、どんなに嬉しいだろう。僕は、ミレーユにそんな失礼なことを考えながら歩いていた。
店に入ると、彼女は、赤ワインを注文した。僕たちが座るカウンター席の前には、様々なワインがズラリと並んでいる。かしこまらずに食事ができる、バーといったところだ。
「Il est bon,ce vin.(このワイン、美味しいね)」
「本当。美味しいわね」
僕はワインを一口だけ飲むと、当然のことながらフランス語で美味しいと伝えた。すると、彼女からは日本語で答えが返ってくる。僕は、久し振りに聞くその言葉に、ここが日本ではないことを一瞬忘れてしまい、可笑しくなって笑みがこぼれた。
「・・・ふふ」
「一之瀬は、フランス語もなんの問題なく話せるけど、仕事ではないんだから、日本語でいいわよ。その方があなたもリラックスできるでしょうし、私も勉強になるわ」
「ありがとうミレーユ。あなたの日本語もとても上手だ」
彼女は、日本に興味があるようで、このフランス支社で唯一日本語を流暢に話すことができる。この職場を希望し、フランス語が飛び交う中で仕事をしていても、やはり母国語を聞くと、ほっとする。僕の父も同じように、異国の地で故郷を懐かしんでいたのだろうか。
「一之瀬、ここのところ元気がないようだけど、この国に居るのがつらくなってきたのかしら?大丈夫?」
ミレーユは、その美しい萌木色の瞳で心配そうに僕を見つめた。
「大丈夫だよ。この国が居づらいと思ったことはないし、職場のみんなもよくしてくれるしね」
「・・・そう。それならいいんだけど。何か不都合があれば、遠慮なく言ってね」
僕の答えを聞いたミレーユは、明るくウインクしてみせると、すぐさま次の話題に移る。この明るさは、確かに今の僕にはない。彼女も勘づいていることだろう。
「それにしても、一之瀬は容姿端麗で、仕事もできるし、優しくてみんなにも好かれてるのに、どうして彼女つくらないの?この間もクロエのこと断ったって・・・」
僕にとって、今一番つらい話題に入ったと思った。どう答えるべきか、頭の中で模索した。その様子を察したのか、ミレーユは少し慌てた様子でこう言った。
「ごめんなさい、聞いてはいけないことだったかしら?」
そんな素直で優しい彼女に、僕は考えることをやめ、素直な気持ちを話すことにした。
「・・・作らないんじゃなくて、作れない・・・のかな」
「作れない?」
「そう・・・日本に居る彼女のことが、愛しすぎてね」
ミレーユは、あからさまに驚き、目を丸くした。日本人と話すより、相手の感情がわかりやすく、少し気が楽だ。
「っっっ!!!なんだ、ちゃんと彼女居るのね!?」
「ふふ、彼女ではないよ。彼女は、他の人と結婚する。僕がふたりの邪魔をしただけだからね。でも・・・今の僕には、彼女以外愛することができない。恐らく・・・世界中のどこに行ってもね・・・」
ミレーユは、こんな答えを望んではいないだろう。彼女がいるかいないか、それだけわかればいいのかもしれない。そうだとしたら、僕の答えは実に中途半端だ。だが、事実なのだから仕方ない。
それに・・・少し話しすぎた。
僕は、なんとも言えないやるせなさを感じ、グラスに残っていたワインを一気に飲み干した。
「・・・一之瀬・・・」
「ミレーユ、すまない。こんな答えしか返せなくて・・・」
グラス一杯で酔いが回ったのだろうか。どうにも情緒が不安定だ。上司相手に何を言っている。冷静になるんだ。
「謝るのは私の方。あなたが一番話したくないこと聞いたわね。その話だと、元気がないのも無理ないわよ」
「ミレーユ・・・」
「じゃあ、切ない一之瀬の為に、今日は私がおごるわ!軽くとは言ったけど、本格的に飲みましょう!」
ミレーユは、さらに元気の良い声を出した。だが、周りも賑やかな為、さほど違和感はない。
「ふふ、ありがとう」
「一之瀬・・・本当に大切なのね。彼女も、その相手の子も」
「ええ」
「ふふ、やっぱり、一之瀬はいい男だわ・・・私と結婚してほしいくらい」
「ミレーユ・・・」
彼女の優しさは、葉月さんに似ている。僕の心の奥にある気持ちを理解してくれている。全てを包み込むような包容力のある女性。僕は、そういう女性にどうやら弱いようだ。
「って、冗談よ冗談!そんな色っぽい瞳で見つめないで!しかし、あなたが相手だと、彼女もだいぶ揺れたでしょうねぇ」
彼女の冗談はいつも、本気を隠すための照れ隠し。素直な人だ。僕のことをそういう風に思ってくれているとは意外だった。だが、彼女の気持ちに答えることはできない。ミレーユは、葉月さんに似ているが、葉月さんではない。僕の愛する女性は、ただひとり。葉月さん、君だけだから。
「ふふ・・・どうだろうね・・・」
出国の日、見送りに来てくれた君は、どこか寂しそうな顔をしていた。照れくさそうに僕を見つめる澄んだ瞳、僕が囁く度に顔を赤らめ俯く姿。そんな君の愛らしい姿は、いつも僕の胸を高鳴らせ、僕の心を掴んで離さない。
最後に君の頬に口付けたその温もりが、今でも忘れられない。
僕は、よく完璧な人間だと言われるが、それは間違いだ。なぜならば、誰にも自分の弱さを見せることができないのだから。仕事も語学も人間関係も、やる気さえあればどうにでもなる。だが、自分の感情を相手にさらけ出すのは難しい。それは、愛しい君にでさえ同じ。完璧だと思われている人間が、弱さを見せることで完璧でなくなる。その瞬間に、相手が幻滅し今まで築き上げてきた心の繋がりまでもが崩壊してしまいそうで怖い。
君が僕に対して胸を高鳴らせる理由は、愛ではなく恋だからなのだと僕は言った。だが、それは本当は違うんだ。君も気づいていただろうが、君が桐谷くんよりも僕の方に気持ちが傾いていることに気付いた僕は、突如ひどい罪悪感に駆られた。彼と君との幸せな未来の邪魔をしているのは、確実に僕のせいだと。
始めは、愛する君を僕のものにしたい一心だった。君と共に同じ人生を歩みたい。今でもそれは、変わらない。だが、そんなことをすれば、彼は二度と立ち直れないだろう。彼も僕と同じ。人に弱みを見せずうまく生きていく人間だ。ただ、僕と違うのは、君と出会ったことで、自分の気持ちの全てをさらけ出せるようになったということ。それでもまだ、彼には知り得ていない部分がひとつだけある。それは、彼にとって君が全てであり、君が居なくなった世界では生きられないということ。それほどまでに彼の君への愛は深く、強い。
僕は、大切な人間を犠牲にしてまで自分の思いを貫くことはできなかった。そのことを後悔してはいない。
ただ、ひとつだけ後悔するとすれば、君に会うのは一度きりにしておくべきだった。会う度に君を好きになり、もう君から逃れられない。
もしかすると、彼よりも僕の方が、君が居ない世界では生きられないのかもしれないね・・・。君は始めから彼のもので、僕の伴侶になることなど、もうあるはずもないというのに・・・。
葉月さん・・・、こんな弱い僕を許してくれ。君の気持ちから逃げ、彼との関係まで壊しかけた僕を。一瞬でも、君の気持ちに気づかないふりをしたこの僕を。
葉月さん・・・僕のことは忘れて、桐谷くんと・・・幸せに・・・。僕は、いつも君の幸せを願っているよ。
番外編、やっとのことで更新です。
パリ編というタイトルから、華やかな物語かと思いきや、大変切ない話になってしまいました・・・。京也さん、夏緒里と幸せにしてあげなくてご免なさい!と心から思ってしまいます(オイ/笑)そして、彼が出てくるとやはりどこかアダルティ(笑)フランスでもモテモテの京也さんなのでした。
しかし、今回の不安点は、作者の語学力!
以前、本当にほんの少しだけ独学で学んだだけのフランス語。そして、フランス語のアルファベットの上についている点とか、普通のアルファベットにはない文字とかそういうところは携帯にないので、そういうのがない文を作らなきゃならない。こんなので大丈夫なんだろうかと何度も推敲しての本作になりました。違うところがあるだろうことは承知の上でございます(汗)
とりあえず、ミレーユは上司で、しかもみんな仲良し職場ということで、ほんとに友達みたいな軽い感じで飲みに誘ってます。そして、京也さんは、お父様の影響もあり語学力は桁外れ!すぐに習得できるというやはり完璧な男なのです!
最後に、番外編ひとつ書くとお話した割には、番外編1。1って、もしかして2もあるの?はい、その通りでございます。京也さんのパリでの姿を急遽書いていたら長くなり、当初予定していた明るいであろう番外編は次になってしまったのです。というわけで、次は番外編2でお会いいたしましょう!




