~第89章 これが私の本心です~
次の日。
冬真くんは、今日も私の自宅に来てくれている。
昨日、私が、同じカフェにいたことなんて知るはずもない。言わない方が彼の為。そう思い、私は彼との休日を過ごしていた。
参考書を広げている彼の隣で、まるで読んでいるかのようにテーブルに広げた雑誌。勿論、私は読むどころか見ることすらしていない。改めて良く見てみると、彼もまた、以前のように集中しておらず、私のことを気にかけてくれているようだった。
「夏緒里さん、何か飲み物でも淹れましょうか?」
彼は、相変わらず優しい笑顔で私に尋ねた。
「ミルクティーがいいな・・・」
私は、彼のその美しい笑顔に見とれていた。なぜだか、彼の顔をちゃんと見るのは、とても久し振りな気がした。私は、彼の問いかけにすぐさま答えると、彼は少し驚いた様子で私を見つめた。
「冬真くん・・・?あ!ごめんね!私が淹れるよ!冬真くんにさせるなんて、何してるんだろうね、私」
私は、彼が驚いている理由が明確にはわからなかった。が、しかし、自分の名を呼ばれた彼は、はっ、と我に返ると嬉しそうに微笑みながらこう言った。
「あ・・・すみません。僕の呼びかけにすぐに答えてくれたの、久し振りだったから・・・」
私は、彼のその言葉と笑顔に、胸が苦しくなった。今まで私は、冬真くんが話しかけてもすぐに返事すらしていなかったのか。彼とふたりで過ごす中で、彼を傷つけるようなことを、私は他にもしたのだろうか。この三ヶ月、彼とは何度もこうして過ごしているはずなのに、自分がどういう態度をとってきたのか殆どと言っていいほど記憶になかった。彼よりも長く生きているのに、彼を傷つけてばかりいる自分に吐き気がした。
「冬真くん・・・ごめんね。私、どうかしてた。冬真くんは、ずっと私のそばに居てくれてるのにね。それが当たり前になってた。いい歳して、冬真くんに甘えて、傷つけてばかり。こんな私・・・もう捨ててくれていいんだよ・・・こんなバカな私・・・」
私がそこまで言った時、私は彼に強く抱き締められていた。続きを話すことができないくらい強く強く。
「夏緒里さん、それは本心?もう・・・僕は・・・要らない?」
「・・・冬真く・・・苦し・・・」
小刻みに震え、低く静かな声で呟く彼。その言動からは想像もできない力強い抱擁。私は、呼吸をするのもままならなくなり、彼に呼びかけた。
「あ・・・すみません!!」
彼が慌てて私を抱き締める腕を解くと、私は思いきり息を吸い込んでから咳き込んだ。
「ごめんなさい、夏緒里さん。わざとじゃないんです。僕・・・」
しゅん、と頭を下げる彼に私は、そっと彼の頭を撫でた。
「わかっ・・・てる・・・。わざとこんなことする人じゃないでしょう?・・・私の方こそ、ごめんね。冬真くんの苦しさは、こんなものじゃなかったよね。本当にごめん」
私が今までしてきたことは、こんな一瞬の苦しさではない。少なくともこの三ヶ月、ずっと苦しめてきたのだから。
「夏緒里さん・・・僕のこと、もう・・・必要ないですか?もし、僕があなたに言われた通り、あなたを捨てたとしたら・・・あなたは一之瀬さんと幸せになってくれますか?」
「え・・・?」
「夏緒里さんが、僕のこと要らなくなったのなら・・・僕は、今すぐにでもあなたの前から消えます。その代わり、あなたには幸せになってほしい。一之瀬さんとも約束したんです。あなたを幸せにする、と。でも、僕にそれができなくなったなら、あなたは誰にも遠慮することなく、一之瀬さんと幸せになってくれますか?」
彼が何を言っているのか一瞬わからなかった。
自分は要らない存在なのだと悲しむのではなく、約束の為、私の幸せの為に身を引こうとするなんて。
「・・・どうして?・・・」
「え・・・?」
「どうして、冬真くんも部長も、私の幸せばかり考えるの?自分の気持ちを押し通さないの?私なんて自分のことばかり考えてる。本当は、こんな私に選ぶ権利なんてない。だって、本当にどうしようもない人間なんだから!」
私は、ふたりの一途で清らかな思いとはまるで正反対である自分に、ほとほと愛想が尽きた。それと同時に、何故彼らはこんな自己中心的で優柔不断な私の幸せを願えるのか、何故愛するのが、私、なのかそんな考えが脳内を駆け巡り、次いで頭が真っ白になった。
「自分のことばかり考えているのなら、名前も知らない人間から借りたマフラーなんて返そうと思わない」
冷静さを失っている私に、彼は静かに呟いた。
「え・・・?」
「自分のことばかり考えているのなら、僕が両親と仲が悪くても気にしないし、誕生日に何かしてあげようなんてことも考えない。それに・・・こんな風に、落ち込んでいる人間の頭を撫でたりなんてしない・・・。あなたは、彼や僕のことを思っているからこそ、悩んで苦しんで、そして愛することができるんです。人を愛し、信じること。それは、夏緒里さんが僕に教えてくれた大切なことでしょう?」
彼は私を見つめると、優しく、でもどこか儚い笑顔を見せた。
「あなたの幸せを願うのは、あなたを本当に愛しているから。自分の気持ちを押し通さないのは、あなたを困らせて壊したくないから。僕は、あなたを大切にしたいんです。夏緒里さんは・・・僕が初めて心から愛することのできた人だから。僕自身を愛してくれた、初めての人だから」
彼は、微笑んでいた。
淋しそうな笑顔ではなく、幸せに満ちた、きらきらと眩しい笑顔で。
「冬真くん・・・私、部長の所には行かない」
「え・・・?」
「だって・・・冬真くんのこと、必要ないなんて思ったこと、一度だってないんだもの」
この気持ちは何だろう。
手から零れる砂が大地に落ち、まっさらになっていくように、私の中のもやもやとした霧も晴れ、彼の中の澄みきった気持ちと重なっていくようだ。それは、彼の後悔の念をひとつも感じさせることのない、輝く笑顔の効果なのだろうか。それとも・・・
「私は、冬真くんが好き!私には、あなたが必要なの。これからもずっと一緒に居たい。それなのに、いつも不安にさせて、傷つけてごめんなさい!」
私は、出会った頃とはまるで変わってしまった私を、冬真くんが受け入れてくれるのか不安になった。彼の答えが返ってくるのが怖くて、ぎゅっと目をつぶった。
「夏緒里さん・・・それはもう、何度も聞きましたよ。・・・それが、あなたの本心だと・・・受け止めていいんですね?」
彼は、先程の太陽のような笑顔とはまるっきり違う、冷静すぎて冷ややかさを感じる口調で私に問いかけた。
「・・・はい。これが私の本心です」
私は、彼の口調に益々不安を感じながらも、精一杯、彼の瞳を見つめた。
「わかりました」
彼は、一言だけ答えると、私の手をとった。そして、その甲に軽く口づける。
「では、僕が、あなたを世界一幸せにしてみせましょう」
そう言って彼は、にっこりと微笑んだ。それは、私だけでなく、見る人全ての心を掴んで離さない。希望に満ちた、優しくも美しい天使のような笑顔であった。




