~第85章 出国の日3-弱い男たちの本音-~
偶然にも、夏緒里さんが彼女の友人に呼ばれ立ち去ってから、僕と一之瀬さんは、彼女の前では話すことができない弱い男の本音を語り合った。
彼女が僕以外の男に頭を撫でられ微笑む。
それは、いくら自分が心を許すことができる男であろうと、やはり気分の良いものではなかった。
「桐谷くん・・・彼女は本当に可愛いね」
周りは相変わらず、ざわざわと騒々しかった。
けれど、彼の言葉ははっきりと僕の耳に入り、まるで僕と彼との空間だけが周囲から切り取られ、風の音すらしない静寂の世界に放り出されたようだった。
ただ、彼にはどう聞こえているのか知らない。
だから、僕は普段と変わらない声で話した。
「そうですね。夏緒里さんは、本当に可愛らしい女性です」
特に聞こえていない風でもない。
彼も僕と同じように聞こえているのだろうか。
「冬真くん・・・って、まだ言い慣れない感じだったけど、名前で呼ばれる程、深い仲になれたんだね。なんだか、ちょっと嫉妬しちゃったなあ」
彼は、僕たちがここを訪れるまで腰かけていたベンチに再び腰かけると、僕にも座るよう促し、ははっ、と軽く笑った。僕は、言われるまま彼の隣に腰かけると、遠くで友達と話している彼女を見つめた。
「深い、かどうかはわかりませんよ。名前も僕が、そう呼ばせているんですし。僕よりもあなたの名前の方が、彼女の口からはすんなりと出てきますので」
僕がそう話すと、彼は一瞬黙った。
僕の言葉に驚き、固まったようだった。
「彼女は・・・君のことが本当に好きだから、君の名前を呼ぶのが照れくさいんじゃないかな。僕は上司だから、きっと命令に逆らえないだけだよ」
上司だから。
それだけで片付かないことは、僕も彼もわかっていることだった。それをあえてここで出してしまったのは、彼が明らかに動揺した証拠だった。
「僕は、彼女に断られた身だ。それでも彼女と過ごした1日は本当に幸せだったよ。まあ・・・帰りは、悲しみが強すぎて、そのまま事故で消えてしまいたくなったけどね」
彼は静かに微笑すると、彼もまた彼女を見つめた。
「僕も同じようなことを考えましたよ。あなたと彼女をふたりきりで会わせたくなくてね」
僕は、本音を言った。
せっかく与えられた、彼女を愛する者との貴重な時間。彼はもうすぐ日本を離れるというのに、僕は話したいことが沢山あった。
「・・・僕のせいで、すまない・・・。君には本当に感謝しているよ。お互い、死んでしまっては、もう二度と彼女に会うことができないからね」
彼にも話したいことはあるようで、彼女を見つめるのをやめると、僕の方を向き頭を下げた。
「謝らなければならないのは、僕の方です」
「え?」
「彼女の体に刻まれたあなたの印・・・でも、あなたは彼女にそれ以上のことは何もしなかったと聞きました。・・・僕は、旅立つ前に少しでも、あなたに彼女との幸せな時間を過ごしてほしかった。でも・・・愛しい彼女を前に自分の気持ちを抑えたあなたのことを思うと・・・僕は、なんて酷なことをしてしまったんだと・・・謝罪してもし足りない。・・・本当に・・・本当に申し訳ありません」
驚く彼を目の前に、僕も彼女から目を離すと、彼女が初めて僕の部屋を訪れた時に抱いた、自身の感情を話した。そして、彼と同様、僕も彼に頭を下げ謝罪した。
「・・・桐谷くん・・・。君は本当に変わった男だね。彼女が僕に奪われてもいい、と言っているようなものだ」
「ふふ、そうですね・・・彼女のことは、もちろん独占したいし、この命よりも大切に思っています。でも、あなたは夏緒里さんのことだけでなく、こんな僕のことも大事にしてくれている。僕は、初めて彼女や幼なじみ以外の他人であるあなたに心を開くことができたんです。だから、僕は、一之瀬さんのこと・・・こう見えて、大切な人だと思っているんですよ」
僕は、確かに変な男かもしれない。
夏緒里さんが一之瀬さんに笑顔を向けただけで嫌だというのに、彼にも幸せになってほしいと思うなんて。
「・・・ふふ、大切な人・・・か。君のその寛大な心に、僕は負けたのかな・・・。僕はね、今も彼女のことが愛しくて愛しくてたまらないよ。無理矢理にでも自分のものにしたいと思う程にね。でも・・・彼女の中の君の存在は、僕が考えていたより遥かに大きい・・・。君たちの絆の深さには負けたよ。正直、少しくらいは、僕と幸せになる未来も考えてくれるかと思っていたんだがね」
彼は、ふぅっと軽く息を吐くと柔らかく微笑んだ。
「夏緒里さんの中のあなたの存在は、消えませんよ。恐らく、一生、ね。一時でも、僕よりあなたのことを愛したでしょうから・・・そう、今でも・・・本当に愛されているのはあなたの方ではないか、それを知っているのに、あなたは身を引いたのではないか・・・とさえ思ってしまいます・・・」
僕がそう思うのは、先程の彼女の嬉しそうな笑顔を見たからだろうか。彼女のことを信じることができないからなのだろうか。それとも、僕自身が弱いから?
僕自身がダメな人間だということは、今に始まったことではない。人を信じることができないのもそうだ。それでも、僕は夏緒里さんと出会い、少しずつ信じる心を知っていった。そして、何があろうと夏緒里さんのことを信じる、ありのままの彼女を受け入れると決めた。それなのに、僕よりも一之瀬さんの方が愛されているのだと思うのは、きっと彼女の中の彼の存在が、僕にとって大きすぎるからだ。彼を思って震える手も、彼に一生懸命伝えようとする言葉も、幸せそうに微笑みかける彼女の笑顔も、彼に対する彼女の気持ちの表現全てが、僕のことなど愛していない、と僕を拒絶しているかのようで怖かった。彼女が、僕をひとり置いて居なくなる時が来るのではないか。それが怖くて怖くて仕方がない。ただ、それだけだ。
もう何も恐れない、と心に決めたはずなのに。
「・・・桐谷くん・・・」
「はい」
僕はどれだけ酷い顔をしていたのだろう。
僕を見つめるその瞳は、ひどく不安そうな、そして、哀しい目をしていた。その目は、いつも余裕のある彼からは想像もできない程に深い色をしていて、それを見た僕の心は、彼の世界へ吸い込まれていくようだった。夏緒里さんが、彼のことで頭を一杯にするのもわかる気がした。
「本当に愛されているのは・・・君だよ。彼女のこと、信じてあげてくれないか?そして・・・必ず彼女を幸せにする、と約束してくれ」
彼は、憂いを帯びた、でも芯の強さを感じさせる眼差しを真っ直ぐに僕へ向けた。
最後まで彼女の幸せを願う彼。
最後まで独りになることを恐れる僕。
僕が夏緒里さんなら、迷うことなく一之瀬さんを選ぶだろう。彼は、それほど真っ直ぐで男気のある良い男だった。そんな一之瀬さんの願いを、こんな情けない僕なんかが引き受けていいのだろうか。僕の手で、本当に彼女を幸せにできるのだろうか。僕の頭は恐怖と不安でいっぱいになり、"責任"という二文字に押し潰されてしまいそうだった。それでも、夏緒里さんを幸せにしたい、彼女と共にこの限られた人生を歩んでいきたい、そう思う気持ちは決して変わらなかった。
「一之瀬さん・・・当然です。この命に代えても、彼女を幸せにしてみせますよ。もちろん、あなたの分までね」
「ふふ、最後まで君に心配されるとはね・・・君とは永く付き合えそうだよ」
「ふふ、本当に。不思議な縁で結ばれたものです。たまには遊びにきてください」
一之瀬さんの分まで彼女を幸せにする。
自分でも驚いた。
大きなことを言ったと思った。
しかし、言葉にし、彼に誓いをたてることで、先程までの弱く情けない僕は、不思議と跡形もなく消えていた。
僕の心の底にある孤独への恐怖。
それは、またいつか必ず顔を出すだろう。
だが、信じることさえできれば、その恐怖は安らぎへと変わる。僕の大切な夏緒里さん、そして、一之瀬さんを信じている、今のこの瞬間のように。




