~第79章 彼色に染まって~
あれから暫く玄関にしゃがみこんだまま、ただ、ぼうっと玄関ドアを眺めていた私。
京也さんが戻ってくるかも。そんなことすら考えていた。自分で断ったんだ。そんなことはあるはずもないのに。
このままではいけない。
何かしなくては、と、リビングに戻っても、片付ける気すら起きなかった。
1ホール作った為、まだ残っているケーキ。
・・・彼が美味しいと言ってくれたケーキ。
京也さんが、確かに私のそばに居てくれたという証を、簡単に消してしまいたくはなかった。
「はぁ・・・私・・・本当に何してるんだろ・・・」
私は、溜め息混じりに力なく床に座りこんだ。
さっきまで、京也さんと手を繋ぎ座っていた、その場所に。
京也さんは、私のこの気持ちは、恋だと言った。でも、ドキドキしてばかりではない、京也さんと居ることで安らぎを得ることだってあった。彼と離れたくないという気持ちすらある。
これは、本当にただの恋なのだろうか・・・。
もし、これが恋ではなく、本当に京也さんを愛しているとしたら?彼はそのことを知っているのにも関わらず、桐谷くんのことを思って、身を引いたのだとしたら?
そうだとしたら・・・私は・・・
「・・・って・・・こんなのただの憶測・・・。それに、京也さんのこと、疑ってるみたいじゃない。・・・だいたい、私には桐谷くんが・・・それも、もう叶わないのかもしれないけど・・・」
私は、ひとりきりになった部屋で、大きな溜め息をついた。
桐谷くん・・・今、何してるんだろう・・・会いたいよ・・・。って、嫌われたんだから・・・会ってくれないよね・・・。
「・・・とにかく、片付け・・・しないと・・・」
未だに気乗りしない私がそう呟き、重い腰をあげた時、突然インターホンが鳴り響いた。
京也さんが戻ってきたのかもしれない。
私は、急いで玄関のドアを開けた。
「京也さ・・・」
そう呼ぼうとした私は、最後まで名前を呼べずに口ごもった。
だって、そこに居たのは・・・
「こんばんわ・・・夏緒里さん」
切なそうに微笑む、桐谷くんだったから。
突然のことに、私の頭と気持ちの整理がつかないまま、桐谷くんを玄関から中へと通す。
そして、リビングまで来た時、私の心臓はドキリと大きな音を立て、一気に全身から冷や汗が出た。
テーブルの上の食べかけのケーキ。
二人分の食器。
それに、先程までぼんやりしていた為か気付くことが出来なかった、テーブルの隅に置いてある、高そうな紳士物の時計。
それらは、先程までこの部屋に誰かが居た、という明らかな証拠だった。
「夏緒里さん・・・」
彼は、ぼそっと私の名前を口にした。
この状況を見た誰もが、すぐに気付くだろう。
ましてや、頭のいい彼なら尚更だ。
私は、また彼を傷つけたという思いと、もう彼に嫌われること以外の選択肢はないのだという思いで事情を説明しようとする。
「あ、これは・・・その・・・京也さんの・・・あ、えっと、部長の・・・」
が、激しく動揺していた私は、体も声も震え、うまく言葉にならない。
「あ、だから・・・今日は・・・あの・・・」
それでも、本当のことを伝えようとする私の体を、彼は後ろからぎゅっと抱きしめた。
「・・・もう、いいですよ・・・夏緒里さん。一之瀬さんのこと、言い直さなくても・・・。それに、突然、訪ねてきた僕が悪いんですから」
「・・・え?・・・」
あんなにも京也さん、と呼ぶのを嫌がっていたのに、急に何故許すの?部長と二人で居たことを咎めるでもなく、何故桐谷くんが謝るの?
そして・・・何故、私を抱きしめてくれるの?
聞きたいことは沢山あった。
「夏緒里さん、不安にさせてごめんなさい。・・・僕は、今日ここに、きちんと別れに来たんです」
「・・・そっか・・・」
最後だから抱きしめてくれるんだね。
だから、部長とのこと、責めないんだね。
言葉にしたいのは山々なのに、こうも単刀直入に別れを切り出されると、苦しくて尚更声にならなかった。
「それは、けじめをつける為・・・だと言えば格好はつく。でも、僕はただ、夏緒里さんの答えを聞くのが、怖かっただけなんです」
そうして、彼は落ち着いた声でこう続ける。
「下で、一之瀬さんに会いました」
「え?京也さんに?」
私は、その名前が出たことに驚き、思わずまた京也さん、と呼んでしまう。
だが、彼は、さほど動揺した様子も感じさせないまま、私をその腕から開放した。
「はい。彼は、あなたの幸せを一番に願っている。・・・僕は、こんな僕で本当にあなたを幸せにすることができるのか、ずっと不安だった。僕だけを愛してほしいと思っていた。でも・・・たとえ、あなたの中に彼の存在が残っていたとしても、僕はもう構わない」
私が彼の方に向きなおると、彼は、少し俯きながら話していた。その表情は、玄関で見た時同様、やりきれない切なさを含んでいた。
「僕のことを、少しでも必要だと思ってくれているのなら、僕はあなたを離さない。一之瀬さんの思いも、あなたが彼を思う気持ちも、全て僕が受け止めます。だから、夏緒里さん・・・、僕は、今ここで誓う」
彼は、今まで心に秘めていた思いを、全て吐き出したようだった。一心に私を見つめる彼からは、それほど強い思いを感じた。先程までの俯き切なげな彼は消えていた。
彼は、私の手をとると、そのまま手の甲へそっと口付ける。
「桐谷くん・・・?」
「僕と結婚してください」
それは、まだ彼と付き合って間もない頃見た、夢の台詞と同じだった。
こんな風に、桐谷くんからプロポーズを受けることなんて夢のまた夢だと思っていたあの頃。でも、彼は、私と出会った時からずっと私を愛し続けてくれた。
過ちを犯したのは私。
本当に自分だけを心から愛してくれるだろうか、私と同じその不安を彼に与え、散々に傷つけてきた。それでも、こんな私を受け入れてくれる彼の真っ直ぐな思いに、私は今度こそ彼を裏切らないと心に誓った。
一心に見つめる真剣なまなざし、そっと握られた温かな優しい手。それらは、桐谷くんと過ごした日々を思い出させ、彼を愛し、彼に愛された一瞬一瞬が、私の中から溢れてきた。
「桐谷くん・・・ごめんなさい。私、あなたをたくさん傷つけた。絶対にもう、嫌われたんだと思ってた。だから・・・今、凄く嬉しい」
「夏緒里さん・・・」
「だから、私もここで誓います。もう、二度とあなたを裏切らない。桐谷くん・・・私を、桐谷くんの奥さんにしてください」
私は、人生で初めてプロポーズをした。
それは、別れを告げられても、ずっと心の奥で思い続けていた桐谷くんに向けたものだった。
そんな私の気持ちを聞き終えた瞬間、彼は私を強く抱きしめ、深く口付ける。そして、私の頬に手を添え、その微かに潤んだ綺麗な瞳で私を見据えると、一言だけ私に囁き、再び口付けた。
「もちろん、喜んで」
それは、私の全てが彼色に染まった瞬間だった。
「桐谷くん・・・大好き」
「僕も、愛しています」
そうして、私たちは、まるでずっと長いこと離れていた恋人同士のように愛を囁き合い、何度も何度も口付けた。
互いの存在を、確かめ合うかのように。




