~第76章 京也さん来訪、そしてわかった気持ち~
ケーキ作りも一通り終わり、ほっと一息ついた20時過ぎ。玄関のチャイムが鳴る。
その音に、私の胸は一瞬にして跳ね上がった。
その胸の高鳴りを抑えきれないまま玄関のドアを開けると、そこには本当に京也さんの姿があった。
「突然ごめんね、葉月さん」
場の空気がすぐに、彼の甘く爽やかな雰囲気に包まれる。その雰囲気と、いつもと変わらない優しい笑顔に、私の鼓動はさらに速さを増していった。
「いえ、こちらこそお呼び立ていたしまして、すみません」
「ふふ、入っても平気?」
「は、はい!あ、えっと、狭い所ですがどうぞ」
「ありがとう。お邪魔するよ」
薄い茶色をした光沢のある高そうな革靴。
紺色とも黒色とも呼べるような皺ひとつないスーツ。そして、真っ白なシャツにネクタイ。
それは本当に、彼が仕事から帰り、すぐさまかけつけてくれたと思わせるには十分な姿だった。
「可愛い部屋だね。そういえば、中に入るの初めてだ。ふふ」
「あ、そうですよね!前は玄関で・・・」
私は、そう言いかけて、デートの日の朝に見た彼の色気のある首筋を思い出す。
当然、私の顔はみるみる熱くなり、それ以上話すことができない。そんな私を、京也さんはその綺麗な顔でじっと見つめている。
「あ、すみません。上着、おかけします!」
「・・・ありがとう」
焦って話を変えた私に、彼は着ていた上着を脱ぐと、お願いします、と手渡した。そして、そのまま左手で、きっちりと締めていたネクタイを緩める。
その仕草と、僅かに開かれた襟元に、私はまたもや色気を感じ、ドキドキがぶり返す。
「あの!私、お茶入れてきます!」
どうして、ひとつひとつがあんなに格好いいんだろう。何故、あんなに色気があるんだろう。
私は、彼の魅力に引き込まれる前に、その場から逃げるようにキッチンへと向かうのだった。
「どうぞ」
「ありがとう」
温かいお茶を淹れるという行為で少し落ち着きを取り戻した私は、リビングに残したままの彼の元へ戻り、そのローテーブルへお茶を置いた。
彼は、それを一口すすると、美味しい、と言って微笑んだ。
「で、彼と喧嘩したって?」
早速、本題に入る彼に、私は少し戸惑いながら答える。
「・・・喧嘩、じゃないんです」
「じゃあ・・・別れた?」
そう言って私の瞳をじっと見つめる彼。
私は、その彼の言葉にドキリと胸が高鳴り、彼から視線を逸らせない。そうしている間にも、どんどん私の鼓動は速くなっていく。
「あ・・・あの・・・」
堪えきれなくなった私は、何も答えられずに頼りない声を出した。
すると彼は、ふっ、と微笑み、私の頭をポンポンと撫でる。
「それは言いすぎ、かな?ふふ」
その優しく温かな手に、私は次第に落ち着き、桐谷くんに言われた言葉を部長へ伝えた。
「えっと・・・彼氏を辞退してもいいですか、と言われました」
「え!?それは何故だい?彼に好きって伝えたんじゃないのかい?」
「・・・はい。お互い好きだって、わかったんです。でも・・・桐谷くんよりも部長の方が、今すぐにでも私のことを幸せにできるから、って・・・」
「・・・そんなことを・・・」
はじめは驚いた様子の部長だったが、私の話を聞き終えると、真剣な表情で暫し沈黙した。
「それで私・・・何も言えずに、帰ってきてしまいました」
「そうか・・・。僕はね、彼がそう言うのには、訳があるんだと思うんだ。彼は、君のことが本当に好きだし、何よりも君の幸せを願っている男だ」
彼は、そう言うと、湯呑みに残った少し冷めてきたお茶を一気に飲み干した。そして、どこか寂しさを残した柔らかな笑顔で私を見つめる。
「君は僕と生きる道を断った。でも、もしかしたら・・・君はまだ、僕のことを考えているのかもしれないね」
「・・・え?」
「自分と居るのに心はどこか別のところにある。そういうのは、よく伝わるものなんだよ。その人のことを好きであればあるほど、ね」
「・・・」
彼の言うことは、全て当たっていた。
私は、桐谷くんと居ても京也さんのことを考えることがある。それに、京也さんと居るのに桐谷くんのことを考えることさえある。そんな私に、ふたりは気づいている、ということだ。
こんな状態の私を、受け入れてもらえると思っていた私がおかしいんだ。それどころか、私はふたりを確実に傷つけている。桐谷くんに断られたこと以上に、その事実の方が私に重くのし掛かった。
「君は・・・本当に、彼のことが好きなのかい?」
彼は、私の頬にそっと手をやると、真っ直ぐに私を見つめる。その濁りのない澄んだ瞳は、まるで私の心の奥底まで見透かすようだ。
「は、はい・・・」
そんな瞳に見つめられる中、私は必死に声を出した。すると、頬に添えられた彼の手は、微かに私の首もとに触れる位置まで降りる。
「じゃあ・・・どうして僕と居て、こんなにドキドキしているの?また何か期待、した?」
私の鼓動を確かめるように添えた手の親指で、私の唇をゆっくりとなぞると、彼は色気のある微笑みを浮かべ、そっと囁いた。
「あの・・・それは・・・」
いけないことはわかっているのに、彼の魅力に完全に引き込まれ、身動きすらできない。
桐谷くん!こんな弱い私でごめんなさい!
桐谷くんのことが頭に浮かんだ私が、心の中でそう叫んだ時、部長はその行動からは予想もできないことを口にした。
「それは・・・僕が君の一番ではないからだよ」
「え?」
「僕と居るとドキドキして落ち着かない。彼と居ると落ち着く。違うかい?」
「はい・・・」
「僕に抱いているのは、恋。彼に抱いているのは、愛。恋は長くは続かないけど、愛はそうじゃないよね」
そう言って京也さんは優しく微笑んだ。
「君は、その二つの間で悩んでいるけど、結果は目に見えている」
そうして、彼は軽く深呼吸をすると、優しくも切ない笑顔で静かに私に告げる。その綺麗な瞳に涙を浮かべたまま。
「君は・・・確かに、桐谷くんのことを愛しているんだよ」
「私は、桐谷くんを・・・」
京也さんのその言葉に私は涙が出た。
それは、私のこの気持ちが何かわかったからだけではない。京也さんの口から、桐谷くんのことを、自分以外の人を愛していると告げることがどんなに苦しいことなのかわかったからだ。完璧である京也さんの初めて見る涙。私は、それほどまでに彼を傷つけていた自分が許せなかった。
そして、こんな私でも受け入れようとしてくれていた桐谷くんのことを思うと、涙が止まらなかった。
「だから・・・もう僕のことを考えてはいけないよ。彼を、桐谷くんだけを見つめるんだ・・・」
彼の瞳からは、その浮かべた涙が零れ落ちた。
それでも、子どものように泣きじゃくる私の身体を、その優しくたくましい腕で、きつくきつく抱きしめた。




