~第71章 彼の怒りを受け入れて~
「夏緒里さん・・・一之瀬さんのところに行かなくていいんですか?」
「え?」
少し落ち着きを取り戻した桐谷くんは、私から離れ立ち上がると、太陽の光が降り注ぐ窓辺から空を見上げ、静かにそう尋ねた。
「彼は、もうすぐ日本を離れるんでしょう?本当に、僕でいいんですか?」
「・・・」
彼の言葉に、私は再び京也さんが遠くに行ってしまうという現実をつきつけられ、心沈んでいく。しかし、それ以上に、桐谷くんを悲しませ、こうやって気を遣わせていることに私は鬱々とした。
「愛する気持ちはどうにもならない。僕を好きになって、と、無理矢理にあなたを引き留めても変わるものではありません」
そう話す彼の横顔は、どこか落ち着いた、静かな微笑みを湛えている。
そして、暫く沈黙した後、彼はゆっくりとこちらを振り返ると、その瞳を伏せこう言った。
「どうやら、僕の考えは甘かったようです」
「・・・え?・・・」
やっと声を発した私に瞳を開けた彼は、その綺麗な瞳で私を見据えると、ひどく寂しげな表情で自身の気持ちを話した。
「あなたの心は、まだ戻ってきていない。それどころか、あなたを見ていると、一之瀬さんのことだけを考えているみたいで・・・苦しくなってしまいます・・・」
「・・・え?・・・私・・・そんなこと・・・」
彼の言葉に私は、自分が彼にどういう態度をとっていいのかわからなくなり、否定する言葉すらはっきり言うことができない。
私は、確かに京也さんのことが好き・・・でも、私は・・・
「僕なら・・・ひとりでも大丈夫です。あなたに出会うまで、ずっとそうだったのだから。だから、僕はあなたに出会わなかったのだと、あなたと過ごした日々は、全て・・・僕の見た夢だったのだと・・・そう考えれば・・・何の・・・何の問題もなく・・・あなたは幸せに・・・なれ・・・る・・・」
「桐谷くん」
私は、桐谷くんが好き。
そう思った瞬間、今にも泣き出しそうな声で話し、無理に笑おうとする彼を、私は力強く抱きしめていた。
小さく震える彼の体。
その体は、一瞬私を抱き返そうとしたものの、すぐにその腕で私の体を押し返す。そして、すぐに私に背を向け、未だ震える体で俯きながら、こう言った。
「・・・すみません・・・。僕・・・そろそろ、勉強・・・するので、帰ってもらえます・・・か・・・?」
それは、もしかしたら彼の本音だったのかもしれない。でも、私にはそれが、彼の精一杯ついた嘘、としか思えず、そっと彼の手を握った。
「桐谷くん、ごめん・・・。ごめん・・・もう、いいよ・・・私の為に勉強なんて・・・。私のせいで・・・。私・・・桐谷くんがこんなに頑張ってるのに、自分だけ幸せになんて、なれないよ・・・」
「・・・夏緒里さん・・・もう、僕のことは、放っておいて。大丈夫だから・・・。大丈夫・・・僕は、あなたの中には存在しなかったと・・・思えばいいから・・・」
俯いたまま静かにそう呟く彼の表情は見ることができないが、彼のその悲しみは、繋いだ手からひしひしと伝わってくる。
「ごめんね・・・それは・・・できない。私・・・桐谷くんをひとりにしないって約束した。京也さんのことは、好き。でも、桐谷くんのことは、もっと好き。桐谷くんと過ごした日々が全てなくなるなんて、桐谷くんが存在しなかったなんて、そんなの・・・私も居ないのと同じだよ・・・。桐谷くんが居ない世界で生きるなんて、私には考えられないよ」
何度も彼の気持ちを裏切って、もう、信じてもらえないかもしれない。でも、私の本当の気持ちは、桐谷くんにちゃんと知ってほしい。
それは、わがままな私の、彼に対する最後のわがままだった。
「・・・夏緒里・・・さん・・・」
「はい・・・・っんっっ!!」
「夏緒里さん・・・」
「・・・桐・・・谷・・・くん・・・?」
突然、繋いでいた手を引っ張られ口付けられたかと思うと、彼はそのまま私をベッドへと押し倒した。
そして、そっと私の首筋にキスをする。
「夏緒里さん・・・それは、本当・・・?」
「っんっ・・・うん・・・」
真剣な眼差しで私を見つめながら問う彼。
その問いを肯定する私。
「じゃあ、僕にこのまま体を奪われても・・・平気・・・?」
「ぅ・・・ん・・・」
彼の問いかけに驚いた私だったが、桐谷くんなら大丈夫。そう思った。
私のその返事に、再び私のブラウスのボタンを外した彼は、一之瀬部長が残したキスマークに触れながら冷ややかに微笑する。
「彼を受け入れたから、次は僕の番、ってことか・・・」
「違う、それは・・・んっっ!!」
彼の誤解を解きたい。
そう思っていた時、胸と胸の間辺りに、経験した痛みが走り、私は思わず声を詰まらせる。
そんな私の反応に、彼は再度、くすっ、と微笑したかと思うと、次の瞬間柔らかな笑みを浮かべ、色気に満ちた声でこう囁いた。
「違う?何が違うの?彼のものだっていう印をつけているのに。違うなら、こんなものつけたまま、僕に会いにきたりしないでしょう?・・・ほら、見える?・・・これで、ふたりの男のものになったね・・・。もう、何も悩む必要・・・ないよ」
「桐谷・・・くん・・・」
ああ、彼は、怒っているんだ。
こんなどうしようもない私に怒っているんだ。
私のことが憎くてたまらない。
そう思っているはずなのに、どうしてこんなにも切ない笑顔で私を見るの?
私は、あなたの怒りを全て受け入れて当然なのに。
「・・・何故・・・」
「・・・え?・・・」
「何故、抵抗しないの?本当に僕のことが好きだから?自分のしたことへの罪悪感?僕への同情?それとも、一之瀬さんにも、こうやってあっさり体を許したの?僕は、あなたのこと・・・ずっと・・・大事にしてきたのに・・・あなたが許すその時まで、と、ずっと・・・」
私から顔を背け、悔しそうに唇を噛みしめる彼に、私は伝えたかった全てのことを話した。
「桐谷くん・・・ごめん。そう、全部、私が悪いんだよ。私は、桐谷くんのことが本当に好きだし、桐谷くんのことが全て。だから、同情なんかじゃないし、桐谷くんに抵抗なんてしないよ。京也さんには、抵抗しようとしたけど、手が出せなくて、そのまま何も考えられなくなって・・・彼の印がついた。でも、彼は、いけない、と、思いとどまってくれた。だから・・・私は、彼に全てを許していないし、彼を受け入れてもいないんだよ」
私の話を聞いた彼は、未だ顔を背けたまま、私にこう尋ねる。
「・・・一之瀬さんのことが好きなのに、何故・・・抵抗しようとしたんですか?」
「・・・わからない。でも、桐谷くんじゃないと・・・嫌だったの・・・」
私にもわからない。
京也さんが好きだった。
優しくて前向きで、私を包み込んでくれるような大きな心を持った京也さんが。
でも、彼と居ても、桐谷くんのことは忘れられなかった。それどころか、桐谷くんに会いたいとさえ思った。桐谷くんじゃないと、嫌だった。
「私・・・桐谷くんが好きだよ」
そう言った私の瞳からは、涙が零れ落ちていた。
気づくと彼は、力強く私を抱きしめていた。
そして、彼もまた、泣いていた。
「夏緒里さん・・・夏緒里さん・・・」
「桐谷くん・・・」
「・・・夏緒里さん・・・本当は、ずっと・・・ずっと会いたかった・・・。こんな僕のところへ戻ってきてくれて、ありがとう。試すようなことして、ごめん・・・。夏緒里さん・・・僕は、あなたに出会った瞬間からずっとずっとあなたのことが好きです。そして、これからもずっと・・・あなただけを・・・」
愛を綴る言葉、彼の本当の気持ち。
優しくも強い彼からの口付け。
「夏緒里さん・・・僕は、あなたを愛しています」




