~第70章 彼氏の部屋で~
「それは、一之瀬さんも後を追う結末になりそうですね」
悲しい夢を見たその日の午後、私は桐谷くんのお家に来ていた。
彼が生きているということを確かめたい。
一之瀬部長と過ごした日のこと、きっと聞かれるだろう。話せば嫌われるかもしれない。
それでも、早く彼に会いたかった。
「え・・・?どうして?」
「なぜって、自分を選んでくれたと思っていた彼女が、やはり自分ではない男の為に、死を選んだんですから。そんなにも愛してくれた一之瀬さんを裏切ってのあなたの死。それでは彼は、報われませんよ。もし、逆の立場でも、です」
久しぶりに会う桐谷くんは、変わらず美しく、柔らかな笑顔で私を迎え入れてくれた。
そして、何を尋ねるでもなく、落ち着いた様子で私の見た夢の話に耳を傾けてくれている。
「それで、その話からいくと、僕に死なれては困るという責任感から、僕の所へ来た・・・と、いうところでしょうか・・・?」
彼は、少し冷たさを感じる口調で、私にそう問いかけた。
「・・・違うよ」
私は、会いたかった人に突き放されたような感覚に、悲しさが込み上げ、正面に座る彼の後ろにまわると、そのまま彼をぎゅっと抱きしめた。
桐谷くんのにおい、桐谷くんの温もり。
彼は、いま確かに生きている。
久しぶりに感じる彼の存在。
それは、どこか懐かしく、不安であった私に大きな安心感を与えた。
「・・・・・・ところで・・・一之瀬さんには、何もされなかったでしょうね?」
暫く沈黙した彼は、身動きひとつせず、背後にいる私に尋ねた。
「う・・・うん・・・」
「もう一度聞きます。何かされましたよね?」
突然、一之瀬部長とのことを聞かれた私が、本当のことを言えずにいると、彼は先程とは異なる言い回しで再び私に問いかける。何かあったと、全てわかっているような彼の言葉に堪え兼ねた私は素直に謝った。
「・・・はい・・・すみません」
すると、彼は小さく溜め息をつき、やはり全て知っているのではないかと思わせるようなことを口にする。
「はぁ・・・やっぱり。大方キスでもされたんでしょう?」
「え!?・・・はい・・・三回・・・程・・・。でも、どうしてわかるの?やっぱりって、桐谷くんは最初からこうなること、わかっていたの?」
「ええ。好きな子とデートして、しかもその日限りなのに何もないわけないでしょう。特にあの人は、やることはやるタイプだ」
「じゃあ、どうして・・・」
彼の話をよく理解できないでいると、彼は微かにふっ、と笑い、こう続ける。
「この依頼に僕が反対すれば、あなたは気になって、この先もずっと彼の事を思い続ける。それよりも、彼の最後の願いを叶えてあげられたと、あなたを満足させた方が、あなたの心は僕の元へ戻ってくる」
彼の言葉に、私の胸はドキリと大きな音をたてる。
桐谷くんは、最初から私の気持ちわかっていたんだ。私が京也さんを好きだという気持ち、知っていたんだ。それなのに、私を京也さんの元へ送った。それは、桐谷くんにとって、大きな賭けだったに違いない。
「どこか間違っていますか?」
「その通り・・・です。でも、何故そこまで・・・?すごいよ・・・」
彼が部長に会った頻度は高くない。
それなのに、何故ここまで部長のことを知り得ているのだろう。それに加え、私の言動の全てが、彼に把握されている。私は、自分でもわからない気持ちを彼に教えてもらったような気がした。
すると彼は、未だ彼を抱きしめている私の手にそっと、自分の手を重ね、少し恥ずかしそうにこう答える。
「あなたは、頼まれたら断れないタイプですからね。一之瀬さんのことは・・・僕は、幼少時代から様々な人間を見ていますから、一度会えば大体わかります。それに・・・僕なりに、あなたのことを研究しているんですよ」
「研究?・・・そっか。お医者さんって、心理学とかも学ぶんだね」
私は、久しぶりに自分の頭が冴えた気がして、そう言った。すると彼は、ふふっ、と小さく笑い、こう答える。
「それとこれとは別ですよ」
「でも、何かあるってわかってたなら、もし・・・その・・・部長にキスだけじゃなくて・・・」
「体も奪われていたら・・・ですか?」
「うん・・・」
「それは、無いですね」
「え?どうして?」
彼の自信に満ちた答えに私は、驚きを隠せない。
「あの人は、やることはやるタイプですけど、義理堅い人だ。人の嫌がる事をするような人ではない。そうでないと、僕に相談してなんて言わないでしょう?こっそり会えばいいわけですから」
「確かに・・・」
「それに・・・僕がOKを出す事も、彼はわかっていたと思います」
「え?」
「彼は人の上に立つ人間です。相手がどういう行動にでるか、そこまで把握できるはずです。でも・・・キス、3回は想定外でしたが・・・」
「う・・・ごめんなさい」
そこまで、彼と私の会話が終わると、彼は、ゆっくりと私の方を振り返り、にっこりと微笑みながら、謝る私にこう尋ねた。
「それより・・・お仕置きの覚悟はできているんでしょうね?」
「え?あの・・・それは・・・」
彼は、相変わらず満面の笑みにも関わらず、何故か殺気を感じた私は、慌てて後退さる。
そんな私にゆっくりと近づく彼。
と、突如、私は何かにぶつかり、そのまま後ろに倒れこんだ。なにか柔らかなものの上に倒れた私は、その質の良さを感じる布の手触りに、辺りを見回す。
ピンと張られた白いシーツにロイヤルブルーの掛け布団・・・それは彼がいつもここで寝ているであろうベッドであった。そう、私は初めて、彼氏である桐谷くんの部屋に来ているのだ。
「それは、なんですか?」
私がベッドへ倒れこむことさえ彼は予期していたのだろうか。彼は、その笑顔を絶やさないまま、仰向けに寝た状態の私の視界を遮るように、頭の横に両手をついた。
「あの・・・ダメなの。えっと、だから・・・」
桐谷くんに、今見られたら彼が傷つく。
ただ、その跡があるだけで、他に何かあったわけではなかったとしても。
部長と会った日、何もせずに寝てしまった私は、今朝、桐谷くんに電話してから自宅でシャワーを浴びた。鏡に映った自分の体。右胸の上辺りに何かついている。近づいてよく見ると、それは確かに心当たりのあるものだった。
あの時、京也さんにつけられた、キスマーク。
彼の愁いに満ちた表情、震える彼の身体。
どんな思いでこの跡をつけたのだろう。
そう思うと、私の胸は酷く締め付けられ、涙ばかりが流れ落ちた。
こんな状態で桐谷くんに会っていいのだろうか。
でも、今から予定を取り消すのは嫌だった。
何故だか早く桐谷くんに会いたかった。
そんなことを考えている間にも、彼は器用に私のブラウスのボタンを外していく。
もう・・・ダメだ・・・。
桐谷くんは、こんなこと本気でしたりしない。
きっと、私を少しこらしめるだけのつもりなんだ。
なのに、なのに私には・・・
私は、ぎゅっと目をつぶった。
「夏緒里さん・・・」
「・・・はい・・・」
先程までのいたずらな彼はそこにはなく、微かに震える声で、彼は私の名を呼んだ。
「・・・夏緒里さん・・・本当に・・・彼とはキス以外、何もなかったんですよね・・・?」
一之瀬部長によって、つけられた彼の印。
それに触れながら、桐谷くんは私に問いかけた。
私は、彼の表情を目にするのが怖かったが、ゆっくりと目を開けた。
「・・・うん・・・部長が思いとどまってくれたから・・・」
私が静かにそう伝えると、彼は突然、私を強く抱きしめた。
「夏緒里さん・・・一之瀬さん・・・ごめんなさい・・・」
そして、私と一之瀬部長への謝罪の言葉を口にしながら彼は、ただただ泣きじゃくった。
彼が謝ることなど何もない。
謝らなければならないのは、私の方。
それなのに、何故、桐谷くんがこんなにも声をあげて泣いているのか、私には全く理解してあげられなかった。




