~第69章 切ない現実、悲しい夢~
「はぁ・・・」
一之瀬部長と別れてから、2時間が経った。
あまりにも悲しすぎる部長の笑顔、熱いキス、愛おしそうに抱きしめる腕。そして部長の体温。
それらが、私の脳裏に焼き付いて離れない。
部屋に戻った私だったが、玄関に座り込んだまま未だに何もできずにいた。
「もうすぐ日付が変わりそう・・・」
5月8日、部長と過ごした1日。
それも、もうあと少しで終わる。
私は、それが何故か、とてつもなく嫌だった。
私が彼の彼女であった時間は、もうとっくに終わっているというのに、私はまだ一之瀬部長のことを考えていた。
私は、彼の気持ちを受け入れなかった。
桐谷くんのことが好き。
でも、部長は来週、日本を離れる。
桐谷くんは、私の返事を待っている。
部長は、もうすぐ居なくなる。
部長は居なくなる。
それは、私の心に大きな影を落とした。
夏緒里・・・
京也さんの私を呼ぶ声が頭から離れない。
「京也さん・・・」
「桐谷くん・・・ごめんなさい・・・。私・・・まだ、京也さんの彼女で居たい・・・」
「京也さん・・・京也さん・・・」
あれだけ京也さんに大きなことを言って、桐谷くんを選んだはずの私は、一之瀬部長の名前を呼び続け、そのまま眠りに落ちていった。
目が覚めると、私の頬は涙で濡れていた。
夢を見た。
京也さんを選んだ私は、彼と共に日本を後にする。
彼は、海外での暮らしに慣れない私を気遣い、人の何倍も努力をして仕事を終わらせ、必ず早く帰ってきてくれた。そして、毎日変わらず、私を愛してくれた。
それは、とても穏やかで幸せな時間だった。
しかし、3ヶ月後、その幸せは、一本の電話から脆くも崩れ去る。
「夏緒里・・・、桐谷くんが・・・」
日本にいる秋紀からの電話。
「・・・秋紀・・・嘘・・・でしょう?」
桐谷くんは、私との約束を果たそうと、私が旅立った後もずっと勉強に打ち込んだ。でも、ある時ふと、私はもう二度と自分の元へは戻ってこない。二度とこの腕に抱くことはできない。そう思った時、彼は自分のしていることへの無意味さを感じ、失意の後、自ら命を絶ったという。
すぐさま帰国した私は、まるで眠っているだけであるかのような、変わらない美しさを放つ彼の亡骸を前に、罪悪感と、彼を亡くした絶望感から立ち直ることができず、彼を見送ったその日に、自らの一生を終えた。
「桐谷くん・・・」
私は、桐谷くんの名前を呼んだ。
だが、返事はない。
聞こえるのは、小鳥のさえずりと、微かにする車の音だけ。
カーテンの隙間から覗く、黄金色をした明るい朝の光が、全て夢であったと教えてくれているかのようだ。
「桐谷くんをひとりにした私のせいだ・・・」
それでも私は未だ、桐谷くんを失った悲しみに涙が止まらず、誰も居ない部屋で声を上げて泣いた。
たとえ夢であっても、堪えられない悲しみだった。




