~第68章 別れ~
あれから、すぐに身を翻した彼は、リビングを後にし、エレベーターで駐車場へと向かった。ここを訪れた時には、すぐだった時間も、帰りはとても長く感じた。
そしてそのまま彼の車へと乗り込み暫く経つが、彼は未だに黙ったまま、車を走らせている。
キラキラと眩しく輝く街の灯りとは裏腹に、私たちの心は輝きを失っていた。
京也さん、ごめんなさい・・・。
私は、まだ彼の唇の感覚が残る自身の体を、ぎゅっと抱きしめた。
「葉月さん・・・」
と、私の気持ちが伝わったかのように、彼は長いその沈黙を破った。私の名をぼそりと呟いた彼の声は普段より寂しげではあるものの、いつもの落ち着きを取り戻していた。
「葉月さん・・・今日は、ごめん。それに、困らせるようなことまで言って・・・」
「い、いえ・・・」
彼の謝罪に、私の方が謝らなければならない、と思うのだが、うまく言葉にならない。
土曜日の21時。
人々で賑わう街を、私たちを乗せた車は進んでいく。
「答えは、わかっていたんだ・・・それでも、初めて結婚したいと思う相手ができた僕は、その気持ちを伝えておきたかった」
真っ直ぐに前を見て話す、彼の綺麗な横顔を見つめながら、私は、気づかされた自分の気持ちを彼に伝える。
「私は・・・一之瀬部長と居ると、とても楽しいし、優しくて、かっこよくて、色気もあって、料理まで上手で・・・本当に私なんかにはもったいない位素敵で・・・。私は、部長のこと・・・好きなんです」
私の告白を聞いた部長の、ハンドルを握る指がピクリと動き、彼は私にこう尋ねた。
「じゃあ・・・何故?」
「・・・桐谷くんは・・・自分の人生を変えてまで、私との約束を守ってくれようとしているんです・・・。甘えん坊で、少しだけネガティブで、そうかと思えば私よりもずっと大人みたいで、でも、私のこと・・・いつも大切にしてくれる。私の心の奥底には桐谷くんがずっと居て、結局、誰と居ても何処に居ても、桐谷くんのことを思い出すんです」
「・・・」
「彼に会わなくなって初めて気づきました。私、桐谷くんが好き。彼が居ない日々は考えられません」
車は、私の見覚えのある街まで来ていた。
彼は、深呼吸をした後に少し沈黙したが、すぐに笑顔を作り、こう言った。
「ふふ、完全に僕の負け、のようだね・・・。結局、君たちの間に入る隙なんて、最初からなかったんだ・・・」
「・・・」
「彼・・・桐谷くんなら君のこと、必ず幸せにできる。葉月さん・・・幸せな夢を見せてくれてありがとう」
見慣れた建物の角を曲がり、オフィスを通り越した車は、私の自宅マンション前で止まった。
今朝、ここを出る時には考えもしなかった、悲しい結末。もう随分長いこと部長と居るような、そんな気がした。
「最後に・・・ひとつだけ聞かせて・・・」
車を止めた彼は、その切なさをはらんだ瞳で真っ直ぐに私を見つめると、静かにこう問いかける。
「君は、僕を・・・彼に似ているから、という理由以外で愛してくれたこと・・・僕、一之瀬 京也自身を愛してくれたことが、一瞬でも、あっただろうか?」
「・・・はい。私は・・・もう随分と長い間、あなたを愛していた気がします」
私は、部長と出会ってから、桐谷くんよりも部長のことを好きだと思うことがあった。部長だけに胸が高鳴ることだってあった。いつからかわからない。でも、もうずっと、彼のそばで彼だけを愛していた・・・そんな風にさえ思えた。
「葉月さん・・・ありがとう」
彼は、そう言って柔らかく微笑んだ。
その瞳の端には、うっすらと涙が滲んでいた。
車を降りた私は、共に降りてきた彼に、謝罪と感謝の気持ちを伝える。
「今日は、本当にありがとうございました。部長と一緒に過ごすことができて、私も凄く幸せでした。それなのに・・・部長の気持ちに答えられなくて、本当にすみません」
申し訳ない気持ちでいっぱいの私は深々と頭を下げて謝ると、彼は、頭を上げてごらん、と優しい声をかけてくれた。そして、爽やかな笑顔でこう言った。
「ううん、こちらこそ、今日は僕のわがままを聞いてくれて本当にありがとう」
私は、その笑顔に救われ、彼に再びお礼を言う。
すると、彼は少し寂しそうな表情で、こう続けた。
「葉月さん・・・僕は、今も、これからも、ずっと君のことが好きだと思う。でも・・・君が、彼のことを選ぶのなら・・・僕は君を彼の元へ帰すよ。彼と・・・幸せに・・・ね・・・」
「・・・はい」
一之瀬部長は優しい。
他の人を選んだ私を認めてくれて、尚も、私のことを好きだと、私の幸せを願ってくれる。
それが、どれ程苦しいことか、どれ程自分を抑えなければできないことか、それは、こんな私ですらわかり得た。
いや、もしかしたら私の浅はかな想像を遥かに越していることなのかもしれない。
それを受け入れることができる部長は、やはり大人であり、尊敬できる人だと思った。
「あ、あの・・・これ・・・」
その時、私は、彼につけてもらった髪飾りのことを思い出し、彼に差し出した。部長の思いを断った私が、持っていてはいけない気がした。
彼は、髪飾りを受け取ると、そのまま私の髪につける。
「それは、持っていてくれるかい?」
「え・・・?」
柔らかく微笑んだ彼は、私の頬をそっと撫で、胸が痛むほど切ない表情でこう続けた。
「僕が、少しでも君の心に存在した証として」
「京也・・・さん・・・」
「夏緒里・・・愛してる・・・」
頬に添えられた手はそのままに、私は彼に抱き寄せられ、強く深い口付けを交わした。
その熱く強い思いは、唇から私の心に深く深く突き刺さっていった。
「・・・ごめん・・・」
「京也さん・・・ごめんなさい・・・」
顔を背け、必死に唇を噛みしめながら私に謝る彼に、私の胸は苦しさで押し潰されそうになり、彼をぎゅっと抱きしめた。
そしてまた彼も、私を強く強く抱きしめた。
「じゃあ、またね。葉月さん・・・」
すっ、と私から離れた彼は、いつものように、またね、と言った。
その顔は笑っていた。
でも、その笑顔は、今にも涙で崩れ落ちてしまいそうな程、悲しくて切ない、寂しい笑顔だった。




