~第55章 どうか、無事でいて~
私がオフィスから出ると、桐谷くんはいなかった。
いつも必ず私よりも先に来て、待っていてくれる彼。にっこりと微笑み、こんにちは、と挨拶をしてくれる彼。そんな彼だって、たまには遅れることもあるよねと、呑気に考え、彼が来るのを待っていた。
30分経った。
メールをしても、電話をしても、彼からの連絡はなかった。
そして、そのまま1時間が経過し、19時をまわったが、彼は私の元へ現れることはなかった。
遅れることすら無い彼が、連絡もせず予定をキャンセルするなんて、何かあったに違いない。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
もし、事故にあってたりしたらどうしよう。
思い浮かぶのは悪いことばかり。
誰かに知らせなきゃ。
・・・でも一体、誰に?
知らせたくても私は、彼の大切な人の連絡先すら知らないじゃない。
その事実は、彼のことならもう大抵のことは知っていると思っていた私に、虚しさだけを与えた。そして、とんだ思い違いをしていた自分を恥じた。
「ひどい雨。さっきまで晴れていたのに・・・」
何も成す術がないまま、私はとぼとぼと帰宅した。
そんな私の耳に入ってくるのは、室内にいてもわかるほどの激しい雨の音だけ。
時計を見ると、21時を過ぎていた。
桐谷くん、ちゃんと帰ったかな・・・。
ずっと握りしめている携帯電話。
だが、全く鳴る気配もない。
桐谷くん、どうして連絡くれないの?
昨日、迎えにきてくれるって言ったじゃない。
心配だよ・・・
私が悪いのかもしれない。
部長にうつつを抜かしているから。
桐谷くんだけを見ていないから。
「桐谷くん・・・声が聞きたい・・・」
昨日話したばかりの彼の声を思い出し、私は、切なくなった。私のことが嫌になって、会いに来ないだけならそれでいい。彼が無事ならば。
どうか、無事でいて。
そう、強く願った時、突然インターホンが鳴った。
その音に、ビクリと体が跳ね上がる。
「桐谷・・・くん・・・?」
私は、もしかしたら彼が来てくれたのではないかと、急いで玄関のドアを開けた。
と、そこには本当に彼の姿があった。
この雨の中、傘も持たず、びしょ濡れになった彼の姿が。
そんな彼は私の顔を見ると、にっこりと微笑み、こう言った。
「夏緒里さん、こんばんは。遅くなって、すみま・・・せ・・・」
「え・・・?」
彼は、いつものように挨拶したかと思うと、次の瞬間、力なく私に倒れこんだ。
「き、桐谷くんっ!?・・・すごい熱・・・」
抱きしめた彼の体は、濡れているにも関わらず、熱かった。
「あ・・・夏緒里さん・・・すみません・・・夏緒里さんまで・・・濡れ・・・て・・・」
彼は、苦しそうな息づかいで、私の服が濡れたことを謝る。もちろん、私は服なんかどうなっても良かった。
「いいの。桐谷くん、病院行こう!この時間開いてるとこ、電話で聞いてみるから、少し待ってて」
そう言って彼を玄関に寝かせ、立ち上がろうとした時、彼が私の腕を掴む。
「大丈夫・・・すぐ・・・治るから・・・」
「でもっ・・・!」
「夏緒里さん・・・お願い・・・そばにいて・・・僕だけの・・・そばに・・・」
「桐谷くん・・・」
彼は、そう言って寂しそうに微笑むと、苦しそうな息づかいのまま眠りに落ちた。
とにかく、濡れたままじゃ風邪ひいちゃう。着替えさせなきゃ。
私は、自分には大きすぎたスウェットの上下をクローゼットから出すと、急いで彼のシャツのボタンを外す。
そうして開いたシャツの間からちらりと覗く彼の滑らかな素肌に、突然、私の胸はドキリと高鳴った。そしてシャツを脱がせてしまうと、普段、華奢だと思っていたその体は、綺麗に筋肉が付き、引き締まった逞しい体であった。
その美しい体で、苦しそうに呼吸をする彼の姿に私は、こんな時に非常識だとは思いながらも、色気を感じずにはいられなかった。
「とっ、とにかく着替え、させないとっ!」
これ以上見ていては、心臓が爆発しそうだ。そのぐらいドキドキしていた私は、着替えさせることだけを考えることにしたのである。




