~第50章 一之瀬 京也、来たる~
4月5日、月曜日。
私と秋紀は予定通り、上層部の会議の手伝いとして会議室に居た。
もちろん一之瀬部長の姿もある。
白シャツにネクタイをきちんと締め、ビシッとスーツを着こなしている部長。その姿に、私の隣に座る秋紀の目は釘付けだ。かくいう私も、仕事中の彼を目にするのは初めてで、その凛とした美しさに思わず見とれてしまう。
「葉月くん」
と、突然、社長に呼ばれ、慌てて返事をする。
「すまないが、これをコピーしてきてくれないか。そして、皆さんにお配りして」
「はい」
私は、一言返事をすると、会議室を後にした。
コピーが終わり、部屋へと戻る。
秋紀と一緒に資料を配っていると、またもコピーを頼まれた。が、その頼んだ相手は、一之瀬部長。
緊張しつつ彼の元へ行き、資料を受け取る。
「何度もすみません。よろしくお願いします」
資料を配布している最中の為、場の空気が少し緩み、部長も仕事モードからいつもの優しい部長へと変わる。
「はい、かしこまりました」
そんな彼の柔らかな笑顔に私は、逃げるように部屋を後にした。
コピーしようと見ると、付箋紙がついていた。
それがついていては字が隠れてしまう。外してコピー機にかけようとした時、そこに、葉月さんへ。と、書かれているのに気がついた。
(会議終了後、屋上で待っていて。
話したいことがあります。
一之瀬)
話したいこと。
私は、その言葉に、入院中見舞いに来てくれた時の部長との出来事が甦った。
「はは・・・また私ってば考えすぎ」
早くコピーして、戻ろう。
私は、その付箋紙をポケットの中のメモ帳に貼り付けると、急いで用件を済ませるのであった。
会議室に戻り、部長に資料を戻すと、彼は付箋紙がないのを確認し、ありがとうと私に微笑んだ。
会議も終わり、皆が部屋を後にする。
私は、秋紀に事情を説明し、一人屋上へと向かった。
私の方が速いと思っていたが、そこには既に部長の姿があった。フェンスの上に両腕をのせ、そこからの街並みを眺める彼の背中は、美しくもどこか寂しげに見える。
「お疲れ様です。遅れまして、申し訳ありません」
私が声をかけると、彼は安堵したように笑った。
「葉月さん。良かった・・・来てくれないかと思った。先程は、コピーありがとう」
私は、相変わらずその少し寂しさを残す笑顔に桐谷くんを重ね、そのまま部長に惹かれていきそうになり、慌てて話を変える。
「いえ。あの、お話って・・・」
「うん・・・こんな話、聞いてくれないかもしれないんだが・・・」
私の問いに彼は、軽く深呼吸をしてから、こう言った。
「実は、パリの支社から引き抜きの話が来ていてね。悪い話ではないし、受けようと思っているんだ」
「え・・・?パリ・・・?」
私は、思いもよらないその告白に、昨日の決意はどこへやら、思い切り動揺してしまう。
「パリって・・・あの、フランスの・・・ですよね?」
「ああ、そうだよ」
当たり前のことまで尋ねてしまう程、私の頭は困惑していた。
「あ・・・あの、いつ、いつですか!?」
「来月の半ばには日本を発つ予定だよ」
「来月って・・・」
部長の言葉に、さらに頭が真っ白になる。
「ふふ。そんなに驚いてくれるとは思わなかった」
そう言って部長はハハっと笑うと、ゆっくりと空を見上げた。
動揺する私の心とは裏腹に、雲ひとつない青空。
暖かく心地よい風。
部長と居ると、なぜかこの都会の喧騒をも忘れさせてくれる。
「最後にひとつだけお願いがある」
部長は、急に私をじっと見つめたかと思うと、私の頬をそっと撫で、こう言った。
「1日だけ、僕の彼女になってくれないか?」
部長の・・・彼女・・・?
私は、その言葉にドキリと胸が高鳴った。
「彼女って・・・あの・・・私そんなこと・・・」
ますます冷静さを失った私は、しどろもどろな回答をしてしまう。
「部長命令、でも?」
「えっ?」
顔色ひとつ変えず、その澄んだ瞳で真っ直ぐに私を見つめる彼に、私はさらにドキドキと鼓動が速くなる。
私が好意を寄せる部長からの頼みごと。
嫌じゃない、それだけにはっきりと断れない自分がいる。でも、私は桐谷くんが好きで・・・
悩むべきではないのに、断れない。
そんな優柔不断な私に、部長は、表情を和らげ
こう言った。
「ふふ、冗談。それはズルいよね。彼氏に相談してからでも僕は構わないよ。いい返事、期待しているよ」
「あ・・・」
「さてと、そろそろ戻らないと、君が叱られてしまうね。本当は、君とランチでも行きたいところだが、上がそうもさせてくれないだろう。残念だけど本社に戻るとしよう。じゃあね、葉月さん。またね」
部長は、そう言うと、私の頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。
そして、にっこりと微笑むと、ひらひらと手を振り、去って行った。
あの寂しげな笑顔を残したまま。




