~第29章 ホワイトデー後編~
「夏緒里さん、上へ行ってみませんか?」
食事を終え、レストランを後にした私たちは、桐谷くんのその言葉に、さらに上へと昇った。
エレベーターのドアが開くと、そこには今まで見たこともない美しい光景が広がっていた。
照明を少し落としたこの場所は、まるで美術館の絵画のように、青く透き通った水槽が壁際に並べられている。
「すごい・・・綺麗。夢みたい・・・」
その中で鮮やかな色をした熱帯魚たちが華麗に泳ぐ様は、まさに竜宮城を思わせる程に幻想的である。
「水族館とも美術館とも違う・・・ここは僕の心を穏やかにしてくれる。密かに僕の癒やしの場所なんです」
水槽を見つめていた彼は、そう言うと私の方を見てにっこりと微笑んだ。
「本当に、気持ちが落ち着く。いい所だね」
私たちは部屋の中央に置かれたソファに腰掛け、その心地良い静けさの中、ゆっくりと水槽を眺めた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
暫くすると、今頃酔いが回ってきたのか、この空間に癒やされたのか私の瞼は次第に重くなってきた。
と、何かに頭が触れて、目を開ける。
「あっ、ごめんなさい」
気が付くと、私は桐谷くんの肩にもたれかかっていた。
「大丈夫ですよ。少し眠りますか?」
彼は、優しい笑顔でそう言った。
「ううん、私ってば、ごめんなさい。少し酔いを冷ませる所ってあるかな・・・」
このまま眠ってしまうと朝まで起きない気がした私は、彼にそう尋ねた。
「それなら、展望台に出ましょうか。この部屋の外だから、すぐそこですよ」
彼に連れられ、外に出た私。
そこでまた私は、目の前に広がる美しい景色に息を飲んだ。
「わぁ・・・キラキラしてる」
そこは、屋外だけあって先程のレストランよりもより間近に夜景が一望できる場所だった。
それだけに、周りにはカップルの姿が多く見受けられる。
「なんだか今日だけで、一生分の綺麗なもの全部見た気がする~」
私は、外の冷たい空気にほっとし、そんなことを呟いた。
「ふふ、そうですか?そう言っていただけると僕は本当に嬉しいです」
「桐谷くん、今日は本当にありがとう。私って幸せすぎて怖いくらい」
今日1日を振り返ると、胸が熱くなった私は隣にいる彼の方を向き、そう伝えた。
と、彼は突然、真面目な顔で突拍子もないことを尋ねてきた。
「夏緒里さんって・・・やっぱり職場の飲み会とか出席なさるんですよね?」
「え?飲み会?・・・うん、そうだけど・・・」
私は、彼のその質問に意味がわからず、ただ素直に答える。
「お酒も、召し上がりますよね?」
「うん、すすめられたら飲むけど・・・」
「ですよね・・・でも、夏緒里さん。それは・・・危険すぎます・・・」
危険?やっぱり意味がわからない・・・一体何が気になるんだろう・・・。体に悪いってことかな?アルコールが人体にいろんな影響を及ぼして危険とか?う~ん・・・
あ!!もしかして・・・。
「あの、ごめんなさい。お酒飲みすぎて、どこででも眠ってしまうのが危険ってことだよね?今だって寝ちゃうところだったし・・・本当にごめんなさい」
私は、そのことしか思い浮かばずに、ただひたすら謝った。
しかし、少し俯いていた彼から返ってきた言葉は、意外なものだった。
「夏緒里さんは、お気づきではないようですが・・・危険なんです。お酒が入ると、その・・・いつも以上に色気が増すんですから・・・」
・・・・え?・・・・
そう言って恥ずかしそうに下を向く彼の顔は、月明かりに照らされ、耳まで真っ赤なのがはっきりと見て取れる。
「あの・・・違ったらごめん。えっと、もしかして・・・桐谷くん・・・」
私は、未だ顔を上げない彼に、はっきりとこう問いかけた。
「やきもち?」
その言葉を聞いた彼は、手の甲を口に当てるとそっぽを向いた。
そして、少し沈黙した後ゆっくりとこちらを振り返ると、こう答えた。
「・・・そうですよ。いけませんか?・・・」
顔を真っ赤にしながら、まるで叱られた子どものように少しふてくされた口調の彼。
そんな彼を目の前にした私は、可愛いらしいのと同時に、初めて彼を赤面させたことに嬉しくなり、こう言った。
「ううん、嬉しい。なんだか大切にされてるって感じるし。それに・・・いつもドキドキさせられっぱなしの私が、桐谷くんをドキドキさせられたのが嬉しい!」
私は、そう言うと、一気に気分が高揚し、ひとりはしゃぐ。
そんな私に、彼はふっと笑いこう言った。
「あなたに出会ってからというもの、僕の気持ちは“初めて”だらけですよ。・・・嫉妬だなんて、そんな感情、今まで一度もなかったのに・・・こんなの、あなたが初めてです」
「え?・・・」
彼の言葉に、はしゃいでいた私の胸は、ドキリと高鳴る。
「あなたが、僕以外の男性と親しくしている姿を想像するだけで、胸が苦しくなる。・・・僕は・・・僕は、あなたの全てを僕だけのものにしたい」
そう言う彼の表情は、とても苦しく切なげに見えた。
いつも優しく美しい彼からは想像もできない、雄々しい彼。
私はそんな彼に、胸の高鳴りを抑えられないまま、事実を説明した。
「親しくって言っても、仕事で話す位で他に何かあるわけでもないし、それに、私には桐谷くんが居るし、桐谷くん以外の人を好きになるなんて考えられないし・・・」
全て事実であるが、まるで言い訳のようにしか聞こえない言葉を羅列していた私の唇に、突然、彼の人差し指が当てられる。
そして、彼はそのまま私の耳元に顔を近づけると、ゆっくりとこう囁いた。
「冬真・・・って呼んで・・・」
それは初めて聞く、優しくも低い色気に満ちた声。
その声に体から力が抜けそうになる私を真っ直ぐに見つめると、彼は私の唇に優しく口付けた。




