~第23章 桐谷家~
観音開きの玄関扉を開け、中へと入った私は、その広いエントランスを見ただけで唖然とする。
吹き抜けのエントランスホールの天井からは、レトロな家の外観に似合うシャンデリア。そして床にはアラベスク文様の高そうな絨毯。両サイドには花を生けた大きな花瓶が飾ってあり、奥にはゆるい螺旋を描いた階段が見える。深みのある茶色をした木造造りの内装が、より一層重厚感を引き出している。
「ただいま帰りました」
そう発した彼の声に、再び正気に戻った私が靴を脱ごうとすると、彼はにっこりと微笑みこう言った。
「あ、靴のままで結構ですよ」
「あ・・・はい・・・」
出だしから調子が狂いっぱなしの私は、なんとか自分のペースに戻ろうと深呼吸をした。
玄関から右へ伸びる絨毯張りの廊下を進む。右手には幾つも並ぶ大きな縦長の窓。左手には部屋があるであろう扉を3つ程通り過ぎ、正面の一番大きな扉を彼はノックすると、そのままゆっくりと開いた。
「ただいま戻りました」
「あら、お帰りなさい冬真さん」
彼の声に、そう答えた女性は立ち上がり、室内にいた男性と共にこちらへとやってくる。
「夏緒里さん、中へどうぞ」
桐谷くんの後ろに、隠れるように立っていた私は、そう言われて初めて彼の隣へと立った。
「あ・・・失礼します」
「夏緒里さん、彼らが僕の両親です。・・・そして、こちらは、葉月 夏緒里さんです」
彼は、私と、彼の両親にそれぞれ紹介をする。
「あ・・・お初にお目にかかります!葉月 夏緒里と申します。今日はお招きいただき、本当にありがとうございます!どうぞよろしくお願いいたします!」
そう言って深々とお辞儀をした私は、緊張しながらも、とにかく全力でご両親に挨拶をした。
「こちらこそ、突然お呼び立てして申し訳ない。なにぶん狭いところですが、どうぞゆっくりしていってください」
意外にも優しい言葉をかけてくれる彼のお父さん。そして、お母さんがソファへと案内してくれる。狭いという言葉とは裏腹に、とにかく広いリビングには、ゆうに5人は掛けられそうなクリーム色をしたベロア調のソファが3脚、大理石でできたテーブルを囲むように置かれている。
そして、壁一面を覆うような大きな窓の向かい側には、同じく白い大理石でできた暖炉が備え付けられている。
私と彼がそのうちの一脚に腰掛けると、彼のご両親はその隣に置かれたソファに腰掛けた。
「夏緒里さん、紅茶はお好きで?」
彼のお母さんにそう聞かれた私は、はい、と答えた。
すると、奥の扉から髪をひとつにまとめ、暗緑色のワンピースに白いエプロンをつけた若い女性が入室してきた。そして、すぐさまお茶の準備を始める。紅茶が全員に行き渡ると、私と彼は礼を言った。
その女性は一礼をすると、彼の笑顔に少し照れくさそうな笑みを浮かべ、部屋を出ていった。
「いただきます!」
彼のお父さんに勧められ、私は紅茶を一口いただく。
「あ・・・この香り・・・」
私は嗅いだことのあるその花の香りに、思わず呟いた。
「おや、ご存知ですか」
「あ、はい。以前、桐谷くん・・・あ、えっと・・・冬真さん・・・に教えていただきました。カモミールティーにはリラックス効果がある、と」
かすかに微笑んだお父さんの問いかけに私は、緊張しながらも初めて桐谷くんのことを名前で呼んだ。
「ほう・・・冬真が・・・」
私の説明に、彼のお父さんは、真面目な顔になり、そう呟いた。すると、話を聞いていた桐谷くんが、お父さんの言葉に答えるかのようにこう言った。
「はい。僕が彼女に告白する際に、オーダーしました。夏緒里さん、覚えていてくれたんですね。ありがとう」
伏せ目がちに話しだした彼は私の方を見ると、にっこりと微笑んだ。
が、次の瞬間、お母さんの顔色が変わり、静かにこう呟いた。
「告白・・・ですって?」
その問いに、彼も冷静な口調で答える。
「はい。僕は夏緒里さんと、お付き合いさせていただいています」
彼のその言葉に、お母さんは、愕然とする。
そんな彼女の肩を慰めるようにそっと抱きながら、彼のお父さんはこう尋ねた。
「いつからなんだ?冬真」
「昨年の11月です」
「11月・・・なるほど」
質問に淡々と答える彼。さらに質問は続く。
「夏緒里さんとは、どこで知り合ったんだ?」
「帰宅する列車の中です。終点に着き、眠っていた彼女に声をかけました」
「すると、お前の方から好きになった、ということか?」
「恐らく。一目惚れですから」
そんなふたりのやりとりを聞いていた私にも、お父さんは質問する。
「夏緒里さん、大変失礼ですが、ご職業は」
「普通の一般企業に勤めています。年齢は27歳。私の実家はこちらのお宅のように立派でもありませんし、父も普通のサラリーマン。私は、そんなごく普通の家庭の長女として生まれました。兄弟は妹がひとりいます。このような私が、こんな素敵な冬真さんとお付き合いさせていただいている。それは、ご両親様には受け入れ難いことだということは重々承知しております」
私は、こんなにも不釣り合いな私がご両親に受け入れられるはずがない。そう確信し、自分のことを包み隠さず話すことにした。そうすると、今までの緊張が嘘のようにほぐれていく。
「自己紹介までしていただいて、申し訳ない」
お父さんは、私の話に柔らかい笑みを浮かべた。そして、再び桐谷くんに問いかけ始めた。
「それで、冬真は夏緒里さんのどういうところを好きになったんだ?」
「こういうところ、です」
そう言ってにっこりと微笑む彼に、私はよく理解ができない。
すると彼は、そのまま続きを話し出した。
「自分に不利になることさえも、あえて自分から話す。自分を偽らず、地位や名誉にさえ屈しない。初めて出会った時、見ず知らずの僕に、起こしてくれたお礼だと、誰かに渡すはずのお菓子を渡してくれた。あなた方や、この家のことではなくこんな僕自身を見つめ、慈しんでくれた。とても嬉しかった。だから僕は、夏緒里さん以外の女性は考えられないし、誰になんと言われようとも離れる気はありません」
「・・・なるほど・・・」
彼の言葉に、お父さんは一言だけ呟くと、室内は一気に静まり返る。
そうして、しばらく経ったのち、再びお父さんがその沈黙を破った。
「・・・夏緒里さん・・・あなたはこんなわがままな息子の気持ちを、受け止めてくれるだろうか」
重々しい口調で真剣な表情をしたまま尋ねるお父さんに、私は自分が抱いている気持ちを伝える。
「はい。私も同じ気持ちです。彼の望む限り、彼のそばに居たい、と、心からそう思っております」
「・・・そうか・・・ありがとう」
お父さんは、意外にもそう言ってにっこりと微笑んだ。そして、柔らかい表情のまま桐谷くんへ問いかける。
「・・・冬真。お前は、私がふたりの関係に反対する、と思っているようだな」
「はい」
相変わらず冷静に答える彼。
「私は、反対なんかしない」
「え・・・?それはどういうことでしょうか」
お父さんの言葉に私も彼も驚きを隠せない。
そんな中、彼がその真意を確かめるようにお父さんに問いかけた。
「私たち夫婦も昔は、今のお前たちと同じような状況だった」
彼の問いかけに、静かにそう答えたお父さんは、少しずつ自分の思いを語り始めた。
「ここにいる母さんも、夏緒里さんのように一般企業で働き、普通の家庭で育った女性だった。そして、私もお前のように父に、嫌々医学の道に入れられたのだ」
お父さんの話に、隣に腰掛けているお母さんも静かに頷く。
「私の父は自らの意志で医者になった。そして同じ学部内で知り合った私の母と結婚した。そのせいかやる気のない私に非常に厳しく、私たち夫婦の結婚にも反対だった。しかし、私が晴れて医者になると、父は私たちの結婚を許してくれた。反対されていた分、愛する者と共に居られなくなるのではないかという苦しみは、私にも良くわかる。だから反対はしない」
そう言って切なそうに微笑むお父さんは、どこか桐谷くんを思わせるものがある。
「だが私は、お前の希望とは反する医学の道に入れてしまった。そのことは本当に申し訳ないと思っている。本当は・・・お前が生まれた時、私は、お前には自分の好きな道を歩んでほしいと思っていた」
「だったら、なぜ・・・」
桐谷くんは、お父さんのその言葉に少し声を荒げ、問いただした。
「・・・お前は小さい頃から老若男女を問わず親切で優しく、相手の話をよく聞く子だった。庭で見つけたのか、傷ついた小鳥を連れてきて私に助けてほしいと言ったこともあった。命の大切ささえも幼くして理解している、医者になる素質は十分だった。ある時、私が慣れない日曜大工で腕を負傷した時、教えもしない応急処置をしてくれたお前を見て私は、とにかく嬉しくなって褒めそやした。もしかしたらお前はいい医者になれるのではないかという思いがよぎった。そうして、私は苦渋の選択で、お前を医学の道に入れることを決意した」
そう話すお父さんの表情は、とてもつらそうに見える。
「私の予想通り、お前は嫌々でも成績は優秀。お前は本当に、医者になるべくして生まれた子なんだと私は確信した。親が子どもに期待するのは当たり前のことだ。だが、この道は厳しい。お前を甘やかしていては困難を乗り越えられない。挫折していくお前は見たくなかった。だから、幼少期より厳しく、この世界で生きていく術を教え込んだ。お前の気持ちは痛いほどわかる。本当のことを言えずに、すまなかった」
お父さんは、そう話し終えると、桐谷くんに向かって頭を下げた。
そんなお父さんをじっと見据えていた桐谷くんは、静かにこう囁いた。
「『打たれても親の杖』・・・ということですか・・・」
「そうだ」
彼の問いにはっきりと肯定したお父さんもまた、彼を見つめる。
と、桐谷くんはそっと目を伏せる。そんな彼の身体は、微かに震えていた。
「そんなこと・・・今頃・・・・・・僕は・・・ずっと・・・あなた方には愛されていない・・・と・・・ずっとひとりで・・・頑張って・・・・・・」
気持ちを伝えようと必死に話す彼の瞳からは、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「そんなわけはない。自分の息子を愛さない親はいない。私も母さんも、ずっとお前を心から愛している」
そうして、ご両親は涙ながらに彼を力強く抱き締めた。
『たとえ厳しく叱られ、杖で打たれても、親の杖には深い愛情が込められている』
厳しく接してきたのは彼の為。親って本当にありがたい。これから少しずつ、失われた親子の絆が深まるといいな。そして、桐谷くんの心に安らぎが訪れたら、私はそれだけで幸せ。そんなことを思わせるほどに彼らは愛に包まれていた。
「・・・夏緒里さん」
と、突然お父さんが私へ声をかける。
「あなたと出会った頃から、冬真は自分の意見をはっきりと主張できる程に成長した。きっと息子にとってあなたの存在は本当に大きく、大切なものなのでしょう。しかし、ご覧の通りこの子はまだまだ未熟だ。夏緒里さん、どうか今後とも冬真をよろしくお願いします」
そう言って柔らかく微笑むお父さんに、私は目頭が熱くなり涙が滲んだ。
「夏緒里さん。また格好悪いところ、見せてしまいましたね。僕は、あなたに出会えて、本当に幸せです。いつも支えてくれて、本当にありがとう」
そう言って桐谷くんは、にっこりと微笑んだ。
午後の柔らかい光に照らされた彼のその笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも幸せに満ちた美しい笑顔だった。




