六話 闇と夜霧と約束と
解けた髪が風に弄ばれて視界を遮ると、うっとおしそうに掻き上げながら目を細めて市の姿を探す信長。
「おかしい。奴は、徒歩で行ったはずじゃ。もう、追いついてもよかろう」
呻く様にして言葉を喉から押しだす。その表情からは先程までの荒々しさが消え失せ、吐く息ばかりが荒かった。
「こんな山道です。どこかに潜んでいるかもしれないですね」
「そうなると夜明けを待たねばならん、くそう!」
馬の歩を緩めようかと思ったとき、前方に白い影が現れ、やがて俺達に並走した。
「うぬか。さっきは世話になったな」
シロは信長の方を見ることなく、走りながら短く返事をした。頭をなるべく低くして、何かに集中しているようだった。
「そうか、シロなら!」
そういった矢先、シロはいきなり街道からはずれ、左脇の山道へと突っ込んでいった。
慌てて手綱を引いたものだから、馬達の前足は虚空を駆け、悲鳴のような嘶きを上げた。
信長は片膝をつきながら辛くも着地すると、俺の手を取って引き起こした。
「ウォーン!」
シロの市を呼ぶ声が木霊となって聞こえてくる。俺達は一瞬顔を見合わせると、不気味に口を開けた山道の闇へと飛び込んだ。
自分の指先さえも見えない中を手探りで駆けあがる。携帯電話の存在に気がついたのは頭をしこたま木の幹にぶつけてからだった。
撮影モードに切り替えてからライトを点け、先頭を歩く。信長は「便利じゃな」とだけいった。未来の道具であることは察しているのだろう。何より、傷つき、疲弊しきったその体が、感嘆の声を上げることさえも拒んでいるようだった。
道中ずっと聞こえていたシロの声が、にわかに激しいものに変わった。
「ウォン! ウォン!」
遠くない、この先からだ。
「急ぎましょう!」
振り返ると、信長は大木に腕を押し当てて、体を預けながら、
「ゆけ……」
と息も絶え絶えに呟いた。俺が駆け寄ろうとすると、
「ゆかぬか!!」
渾身の力を込めて恫喝し、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
「必ず」
小さく頷き、向き直した背中を仲間達の手が押し出した。
枝を潜り、藪を蹴り、夜霧を押しのけてがむしゃらに走った。シロの唸り声が水の流れ落ちる音に混じってはっきりと聞こえてきた。
突然、地面が消えた。滑り落ちる俺の体を、ゴツゴツとした岩肌が削ってゆく。意外と早く現れてくれた地面に感謝しながらも、叩きつけられた痛みで身をよじる。
「……あれは!」
月の滲んだ清流の傍らに、額を赤く染めたシロが横たわっていた。
「おい、シロ、おい!!」
背中に手を当てながら名前を呼ぶ。
シロは瞼を少しだけ開くと、小さく鳴いてからまた閉じた。
「おいおい、化け犬の次は妖術使いの若造かい」
大鉈を担いだ巨漢が肩を回しながら近づいてくる。
「織田は百鬼夜行でもやろうってのか。 ……おー痛てぇ」
男はその無骨な腕を口元に持っていくと、吸い付き、真っ赤な唾を吐きだした。
「……鬼は、てめえの方だろうが」
顔を上げて睨みつける。
「せーいち! ……シロが、シロが!」
男の後ろで、手足を縛られた市が声を震わせた。頬は腫れ、瞳からはボロボロと涙が零れ落ちていた。
「市!」
立ち上がり、駆け寄ろうとする俺の目の前を鈍い光がかすめる。
反射的に屈み、それを躱すと、男が舌打ちをした。
「どけええ!!」
背中の革筒からバットを抜くと、両手で力任せに叩きつけた。
ギィイイン
乾いた金属音。手に伝わる振動に思わず顔が歪む。
止めやがった……。左手一本で……こいつ!
「なら!」
ベルトにひっかけたホルダーから、すぐさまスタンガンを取りだす。
しかし、同時にその腕を掴まれた。
「見てたぜぇ。こいつに触っちゃいけねえんだよなぁ」
ニヤニヤと笑うと、すさまじい力で掴んだ腕を握り込んできた。
「う、あああ……!」
意思とは関係なく開いた俺の手からスタンガンがこぼれ落ちる。
「そーら、よおっ!」
奴が手を放すと同時に体が後方へと弾け跳ぶ。一瞬、目の前が暗くなった。
顔面から左半分の感覚が消える。直後、激痛が頬を襲った。口の中に鉄の味が染みわたる。
「ぐっ……、うおっ!?」
正面に向き直ると、すぐに体を返してバットを拾い上げる。
振り下ろされた大鉈が空を斬り、人の頭ほどの岩石が、代わりに粉砕された。
「ちょろちょろ、すんじゃ、ねえよ!」
言葉の調子に合わせて大鉈を振り回してくる。必死にそれを受けるが、重い斬撃はバットを押しのけながら容赦なく肩や足を斬り刻む。
「おら! 妖術はどうしたよ!」
蹴り飛ばされ、ごつごつした石ころだらけの水底に放り込まれた。慌てて水面から半身を起こす。
「もう良い、もう良いのだ……、 逃げてくれ! せーいち!」
すっかりボロボロになってしまった俺を見かねた市が、身を乗り出して叫ぶ。
「なにが、良いんだ……市。皆が、お前の帰りを待ってんだよ。それに、必ず連れ戻すって約束したしな」
膝に手をつき、無理矢理に立ち上がる。
市は唇を噛みしめながら視線をそらした。
「おーおー、泣かせるねえ。逃げるなら見逃してやってもいいぞ。儂もお前と遊んでる暇はねえんだよ」
織田軍がここを探し当てる前に去りたいのだろう。
「まぁ、そういわずに、もうちょっと遊んでくれよ」
沢から拾い上げたピンポン玉くらいの小石を、手の平の上で確かめるようにして何度か投げあげると、ニヤリとしてみせた。
「ファー、ストぉ!!」
宙に放り投げたそれをバットの芯が捕らえる。手ごたえが振動となって頭のてっぺんまで突き抜けていく。
銃声にも似た轟音と共に弾き出された石ころが、大男のみぞおちの辺りに突き刺さる。
「おごぉおおおっ……て、てめぇ!」
両膝を折って悶絶しながらもこちらを睨みつけてくる。
「セカンドぉ!!」
前のめり突き出した顔面が今度は後ろに跳ね上がる。額から溢れ出るものを必死で押さえながら、口を大きく開けて絶句する。
「サード! ショート! センター!」
地獄の千本ノックは続く……。
最後に拾い上げた拳ほどもありそうな石ころを見たときには、思わずお互いに苦笑いをした。
「へへへ。旦那ぁ、そ、そいつぁ流石に……ね!?」
俺はにっこりと微笑むと、それを空へと放り投げた。
「これでよし」
奴の大鉈をひきずって市の所へ行くと、しゃがみ込んで手足に巻かれた縄を切った。
とたんに市が上着の裾を掴むようにして身を寄せ、俯いた。体力が底をついていた俺は、受け止めきれずに尻もちをついてしまった。
「よーしよしっ、怖かったか?」
頭に手を置いて、なるべく明るい口調で宥めた。
市は何度も頷くと、恐る恐る顔を上げて、震える手の平で頬に触れた。
「ひっ、ひっ。私のためにこんなに……」
「いいんだよ、勝手にやったことだ。ほら、立てるか?」
手を取って一緒に立ちあがる。
「ほんに、勝手な……奴じゃ……」
市はそう呟くと、額を俺の胸に当ててしばらく泣いていた。
その小さな体を両手で包みこむと、……待ってなにこれお尻が超痛い。
「グルルルル」
シロが恨めしそうに頬を釣り上げて、引き千切らんばかりに引っ張っていた。
「アッー!」
「シロ! 無事であったか!」
俺の悲鳴と市の歓喜の声が山々に木霊した。
市姫は伝承によると身長が高かったらしいですね。
本作では150㎝くらいのちっちゃい設定ですが……。