三話 シロと姫と灯火と
「で、こいつが探してたシロか……」
なるほど、少女の兄貴が怖がるのも無理は無い。この犬は確かグレートピレニーズという超大型犬だ。動物番組でよく見かける。
飼い主に従順な、大人しい気性でありながら、その体躯は人と暮らすには余りにも大きすぎるため、捨てられてしまう事が多いそうだ。
首輪は無い。こいつもそういう境遇なのだろうか。
「よろしくなっ。シロ」
笑顔で手を差し出して頭を撫でようとする。が、その偉大なる英雄はこちらを睨んで頬を吊り上げた。
「これ、ちゃんとシロに礼を言わぬか」
一応俺も奮闘したんだが……。
笑顔が引きつる。
「まあ、確かにお前がいなかったらやばかった。ありがとよ」
ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いている。
「こ、こいつ……」
「ほんに助かった、ありがとう。シロは強いのぅ」
少女が褒めて撫でると周りをぐるぐると走り回り、その喜びを全力で表現していた。
納得がいかない。
が、その顔は微笑んでいるかのようにも見え、こちらの表情まで緩んでしまった。
「しかしまいったな。道がわからなくなっちまった。どっちに行けばこの林を抜けられるんだ」
「心配ない、ここは私とシロが初めて出会った山じゃ。シロ、出口まで案内してくれるか?」
シロは少女にお願いされて上機嫌で歩き始めた。
「それにしてもシロ、今までどこに行っておったのじゃろう」
「ずっとこの辺りにいたんじゃないか?」
「うーん、この山は散々探しまわったのじゃがのぅ。」
少女の着物がボロボロだったのはこの辺りを歩き回っていたせいか。
「おっ、そろそろ出口のようじゃぞ」
周囲を警戒しながら俺たちの少し先を歩いていたシロがこちらを振り向いて吠える。まばらになってきた木々の隙間から眩しいほどの西日が溢れてきている。
「って、おい、どこだよこれ」
樹林を抜けるには抜けたが、そこは元の湿地帯ではなかった。眼前には黄昏に染められた川が囁くようにして流れており、地面を踏む音はジャリジャリというものに変わっていた。
川辺からその水面を覗く。水底がはっきりと見え、そこに水が存在しているのか疑わしいほどに澄んでいる。シロはその清水を飲もうとゆっくりと顔を下ろしていくが、やはりどこが水面なのか見当がついていなかったようで、舌を出す前に鼻が浸かってしまい、盛大にくしゃみをした。
少女は川辺の淵に何かを見つけてあっと小さく声を上げると、それに向かって駆け出した。俺はすっかり重くなってしまった両足の具合を確かめるようにして動かしながら追いかけた。
「この小堂には見覚えがある」
どれどれと目をやると、少女の腰の辺り程しかない小さな祠があり、中には妙な風貌の石像が奉られていた。興味深くはあったが、それについて議論する余裕は既にない。
夕日がぐんぐんと下流の方に沈もうとしていた。
「どうやら私の住んでいる町のほうに出てしまったようじゃな」
シロは少女を家まで送り届けるつもりで案内したようだ。少女たちはこの山岳を越えて来たのだから、こちら側を下りて行けば家に帰れるのだろう。
「うーん、すぐにでも日が暮れそうだし、このままお前の家まで送ろうか」
少女は申し訳無さそうな顔をしたが、今しがた抜けてきた樹林の方を少し見つめてから、
「すまない、宜しく頼む」
と頭を下げた。俺も引き返すのは流石に気が引けた。ただでさえ薄暗い樹林は、夜が近づき、その禍々しさをさらに増している。
「この川に沿って下っていけば町にでるはずじゃ」
「そうか、じゃあ暗くなる前に早いとこ降りよう」
町まで送り届けたらタクシーでも捕まえて帰ろう、そう考えていた。
山岳の麓の辺りまで下りてきた。すっかり夜になってしまっていたが、開けた空から月光、星光が惜しみなく降り注いでいたので意外にも明るかった。
「ここまでくればもうすぐじゃよ」
「お、町の明かりが見えてきたな。」
俺は胸を撫で下ろしながらも、その灯火に違和感を覚えていた。
夜景というのは本来、様々な色を放つから美しいのだが、今眼下に広がっている光たちはどれも同じ色をしている。まるで町が燃えているかのようだった。
ふと、その灯火のひとつがこちらに近づいてくる。
「……さま!」
何かを叫んでいる。いや、誰かを呼んでいるのか。
「なんだぁ?こっちに来るぞ」
「あれはもしや」
少女が力いっぱいに、おーいと手を振る。
すると、それに答えるようにブゥオオと、聞きなれない笛の音が夜の山岳に響き渡った。
灯火が二つ三つと集まり、ついには数え切れなくなった。
すさまじい地鳴りと共に一斉にこちらへ向かってくる。
思わず身構える。シロも姿勢を低くして唸り声を上げた。
「おわしたぞ!」
俺たちを取り囲むように集まった灯火に目を覆っていると、そう正面の一人が叫んだ。
「なんの冗談だこれは」
自分の目を疑った。馬だ。馬に乗った男たちがその手に松明を掲げている。まだ狼に囲まれたときのほうが正気を保っていられた気がする。
男たちは一斉に馬上から飛び降り、少女に近づいてきた。あまりの事態に面食らってしまっていたが、シロの威嚇の声にはっとして負けじと男たちの前に立ちふさがる。
次の瞬間……、
「姫様、お探し申しました」
と、男たちは皆地面にひれ伏してしまった。俺とシロは、へっ?と、同時に首をかしげた。少女は前に進み出ると、
「よい、上げよ。大儀であった」
凛とした声で言い放った。その表情は鼻水を垂らして泣いていた少女と同一人物だとは思えないほどの気高さを纏っていた。
「姫様って……。どういうことなんだ?」
俺が横から尋ねると、少女はいつもの顔にもどって
「なんというか……その。仔細については道々に話す。ま、まずは我が家に参ろうかっ」
と、目を泳がせながら歩き出した。男たちは馬の手綱を引きながら慌ててそれを追いかけていった。
「そうでしたか、あなたが姫をお助け下さったのですね」
俺達に並進している糸目の美青年がこちらに笑顔を向けている。俺より五つ六つ年上だろうか。少し茶色がかった艶のある髪の毛を後ろでひとつに束ねている。その柔らかい口調と表情も相俟って、どこか中性的な印象を受ける。
「そうじゃ、此方がおらなんだら私は見知らぬ土地で果てておった。慇懃にせよ」
少女はなぜか誇らしげに言った。
「心得ました。拙者は藤吉郎と申します。あなた様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「そんなに畏まらなくてもいいですよ。僕は新木誠一と言います」
「せーいちっていうのか!」
少女が横から口を挟む。
「そういえばまだ名前言ってなかったな」
当初、深く関わるつもりは無かったのであまり詮索しないことにしていた。少女も自分から名乗ることはなかったので、素性を知られたくないのだろうとも思っていた。
「そうかぁ、せーいちかぁ。ふふ」
嬉しそうに繰り返す。
「なんだよ、にやにやして」
「聞きたいか? 実は、私の名はいちというのじゃ、せーいちと似ておるなっ」
なるほど、そんなことではしゃいでいたのかと苦笑いがこぼれる。
「あーそうだな。で、おいちさん。なんで姫なんて呼ばれてるんだ?」
たまらず尋ねる。他にもツッコミたいところは沢山ある。なにせ俺達を取り囲むようにして警護しながら馬を引いている男たちの服装は、どう見ても時代劇の世界から飛び出したとしか思えない。少女がいっていたとおり、皆草鞋を履いているだけではなく、着物に袴、藁で編んだような帯に刀を挿している。
「いや、それはな、えーっと……」
言葉に詰まっているいちに、藤吉郎が耳打ちする。
「姫様、これより城に入りますれば何れにせよ誠一様もお気づきになるかと存じますが」
「う、うむ。まあ、そうなのじゃが……」
俯いてもじもじと言い難そうにしている様子を見かねて、藤吉郎が口を開く。
「市姫様はいま向かっている清洲城の主、織田上総助信長様の妹君に在らせられます」
「……」
このとんでもジョークをなんと返したものかと一瞬考えたが、藤吉郎の声色は冗談を言っている者のそれではなかった。
第一、清洲は俺の住んでいる三河からはかなり距離があるはずだぞ。家から歩いて行ける距離にある山岳を越えただけで尾張のど真ん中に着くもんか。
「それ見たことか。兄上を恐れる者は多い。だから私は言いたくなかったのに」
俺が困惑して固まってしまったのを見た市が藤吉郎に詰め寄り、腹の辺りを力一杯グーで連打した。シロはその足元に噛み付いている。
藤吉郎は悲鳴をあげながらもなぜか光悦とした表情をしていた。少し気持ちが悪かった。
考えるのを止めた。もうくたくただったし、取り合えずその城とやらに行けば色々と分かるだろうと思っていた。あればの話だが。
麓を下り、やっと道らしい道に出た。随分大きくなった町のかがり火が視線と同じ高さになった頃、藤吉郎が指を差した。
「見えましたよ」
その先には高い石垣の上で煌々と燃えるように輝く城がこちらを見下ろしていた。
ピレニーズは牧羊犬時代、狼から羊たちを守るために奮闘したそうですね。
仕事が忙しくなりはじめましたが、コツコツ書いていこうと思います。