一話 牛丼と着物と鼻水と
午後十時。もうすぐ五月になるというのに、夜の風はまだ冷たい。
「お疲れ様でした、お先に失礼します」
バイト先の学習塾を後にし、今日は何を食べて帰ろうかと考えながら自転車を漕ぎ出す。
わけあって実家で一人暮らし中の俺に、自炊という選択肢は無い。帰り道にあるのはファミレスと牛丼屋くらいのものだが、一人で週末のファミレスに入れるほどの勇者でもない。
また牛丼か……、最近たんぱく質と炭水化物しか摂取してない気がするな。
ため息交じりに漕ぐ自転車のペダルはいつもより重い気がした。
冷たい風と街灯のまばらな夜道がよりいっそう気持ちを暗くしていく。
この町は元々人がほとんど住んでおらず、小高く広大な丘があったのを、大学を建てるために切り開いた土地だ。若者のほとんどはその大学に通う学生であり、俺も漏れなくその一人。学園都市と言えば聞こえはいいが、田畑や林がそこかしこにあり、どちらかというと学園村だ。
遠目に、白い何かが横たわっているのが見えた。
発泡スチロールの箱でも転がっているのだろうと思ったが、近づくにつれて自分の表情が強張っていくのが分かった。
その物体は地面を這いずる様にしてじわりじわりと移動しているのだ。
犬や猫にしては大きい。間違いない、人だ、人の大きさだ。
そして、その人影も自転車のライトに気づいた様で、ゆっくりと、非常にゆっくりとこちらに方向転換してきた。とてもスルーできそうな雰囲気ではない。
自転車を漕ぐ足が止まる。ライトが消え、より一層暗くなった周囲にその白さが際立つ。
距離をとって立ちすくんでいる俺の方に、地面を手で引っ搔く様にして近づいてくる。
自転車がガシャンと音を立てて倒れる。未曾有の光景に体が硬直して動かない。
落ち着け、落ち着いて考えるんだ。ホラー映画だとこんなときどうやって切り抜けていた?
…………。あれ、そもそも切り抜けられてたっけ?
どれも大抵捕まってTHE ENDじゃないかちくしょう。
間違いない、奴はもう俺の足元まで来ている。気配でわかる。音でわかる。
今、掴んでいる……俺の足を! なんて冷たい手なんだ。
腰のベルトに手をかけ、ネクタイに手をかけ、ゆっくりと立ち上がってくる。その重みで思わず前かがみの体勢になる。
おそらく今やつの顔は俺の顔の真正面にある。ハァハァと生温かい吐息が鼻先にかかる。
「食べる……」
か細い声。女の声だ。なおさら怖い。なんで幽霊ってやつは総じて女性なんだ。
たまにはムッキムキのおっさんでもよかろうに。
いや、それは別の意味で怖いな。と納得……している場合じゃない。
「俺なんか食べても牛丼の味しかしねぇぞ、牛ノ屋いってくれ!」
かつてこれほどまでに格好の悪い断末魔の叫びがあっただろうか。
「何か食べるものを……」
と同時にそいつはその場にドサッと倒れこんでしまった。
恐る恐る目を開いて足元を見る。
そこには鮮やかな蝶々の柄が入った白い着物に身を包んだ少女が倒れていた。
足も生えていた。
夜の公園。少女は真剣な表情で牛丼を忙しく口に運ぶ。
「は、はひがほうー、たふかるっ」
礼をいっているのだと、ぎりぎりで解釈できた。
「はんて、はんてほいひい!」
食べるかしゃべるかどちらかにしなさい。
あっという間に平らげ、空になった容器の底をまじまじと見つめている。
「すごかった……。これはすごい食べ物だった」
「そ、そうか。よかったら俺の分も食うか?」
「いや、流石にそれは申し訳ない!」
言葉とは裏腹にその眼差しは俺の両手の牛丼をしっかりと捕らえている。よだれもでている。
並盛りと大盛りをあっさりと平らげた少女の顔にはすっかり血の気が戻っていた。 どうやら本当に空腹のせいで倒れていたらしい。実に幸せそうに腹をさすっている。
「で、あんた、なんであんなことになってたんだ?」
少女はしばらく難しそうな顔をして言葉を探していたようだが、思いついたかのようにこちらに向き直った。
「一言で言えば、そう、迷い子じゃなっ」
なぜそんなに誇らしげに言う。
「兄上と喧嘩してな、家を飛び出してからもう3日になるだろうか……」
この身なりと話し口調、呉服屋の箱入り娘が家出でもしたのか。それにしても『兄上』って。
「で、あてもなく彷徨って、ついには腹が減って動けなくなったと?」
少女は少し恥ずかしそうに頷いた。
「しかし美味かった、あれは何という料理だ?」
「面白いことをいうな。あんた牛丼も知らないのか?」
「ぎゅーどん? ぎゅーとはまさか・・・牛のことか!?」
そうだと頷くと少女の顔が急に青ざめていく。
「ああっ、兄上、私は穢れてしまいました……」
とよろめくと、そのままベンチに倒れこんでしまった。
「ベジタリアンか何かか? じゃあしょっちゅう食ってる俺はどんだけ穢れてるんだ」
ツッコミも虚しく、少女はそのまますやすやと寝息を立てはじめていた。
「お、おい。こんなところで寝るなっ。……ん?」
よくみると着物の節々に泥が付き、ひどく痛んでいた。着物から覗く裸足の指先には血が滲んでいる。
どんなところを彷徨ったらこんな風になるんだ。
どうしたものか。
しばらく隣に座ってその幸せそうな寝顔を見ていたが、流石にこの寒さは堪える。
肩をつかんで揺すってみるが反応がない。よほど疲れていたのだろう。
「このまま帰ったらまずいよな、やっぱ……」
『家出少女、公園で凍死』なんてニュースを見たら、後味が悪い。
「厄介なのに関わっちまったかなぁ・・・」
翌朝。今日は日曜でバイトも休みだ。
昨日はあいつを背負って家まで歩いたあとで、自転車を取りに往復したため流石に疲れて少々寝すぎてしまった。
あいつは起きてるだろうか。とっくに起きていて、御礼の書かれた書置きでもして出て行ってくれているならそれもいいな、と期待してリビングのドアを開ける。
残念ながらテーブルの上に書置きはないし、鏡にルージュでさようならとも書かれていなかった。
「ひ、ひぃ!」
なんとも間の抜けた悲鳴。昨日あいつを寝かせた和室の方からだ。
まだいたのかー、と言う言葉を飲み込みながら障子を開ける。
「おーぅ、起きてたかー?」
瞬間、飛んできた枕が顔に張り付いた。
「おい、それが命の恩人に対する朝の挨拶か?」
枕をひっぺがしながら少女を問い詰める。
「な、なぜ私は着物を着ておらんのだ!貴様まさか……!」
布団で体を隠しながらこちらを睨んでいる。
「着物は流石に脱がせたことがなかったから大変だったぞ」
「なっ……、よくもまあしゃあしゃあと!」
「じゃあお前は泥んこの着物のまま布団に入りたかったのか?」
「起こせばよかったであろう!」
「何度も声かけたぞ。お前が起きなかったんだろ」
「く……。他に、他には何もしておらんだろうな!」
「ん、他に何かしたほうがよかったか?」
ニヤリとしながら答えた。
「出てゆけ!この痴れ者が!」
流石は呉服屋の娘(仮)。古風な罵声がなかなか新鮮だ。
「そうそう、そこの服な、妹のだからサイズが合うかわからんが、適当に引っ張り出しておいたぞ。それと……」
「いーから出てゆけー!!」
布団をかぶったまま必死の形相で俺を押し出し、バシッっと障子を閉めてしまった。
「着物、まだ乾いてないけど、洗ってそこの縁側に干しておいたからな~」
と、障子越しに一応声をかけておいた。
それにしても出て行けとは。それはこっちの台詞だ。とはいえ少々からかい過ぎたか。
仕方ないので隣のリビングで緑茶を入れながら着替えが終わるのをまっているわけだが、えらく時間がかかっている。洋服は慣れていないのだろうか。
しばらくして障子が少しだけ、そーっと開いた。
「き、着てみたぞ。こ、これでいいのか? どうだ?」
どうだと聞かれても、隙間から見えるのはお前の顔半分だけなんだが。
少しの間にらめっこをしたが、こちらに来る気配がないので、やれやれと腰をあげて和室の障子を開け……、開かない。なぜかさせまいと踏ん張っている。
「見てほしいのか、見てほしくないのかっ」
「絶対に、絶対に笑うでないぞ!いいか!?」
急に力が抜ける。俺は前のめりに倒れてしまった。
顔を上げた瞬間、目に飛び込んできた少女の姿はまるで……。なるほど、適当に警察に任せておけばよかったものを、放っておけなかった理由はこれか。
「ど、どうじゃ、上手く着れているか?」
少女はこの期に及んで、両腕で洋服とスカートを隠すようにしている。膝上10センチ程の、綺麗な折り目の着いたスカートが、少女の右手によって下にひっぱられ、ロングスカートになりたくないと悲鳴を上げていた。
「よく似合ってる。かわいいよ」
「かっ! ・・・そ、そうか、よかった」
顔が産まれたての赤ん坊のように真っ赤だ。褒められることに慣れていても良さそうな容姿なのだが。
「ちょっとそこに座って待ってな」
鏡台の前の椅子に座らせ、ブラシと大き目のバレッタ(髪止め)を取ってくると、少女の長く、不自然なほど艶やかな黒髪を解き始めた。
「すまんな、慣れておるのじゃな」
顔は赤いままだ。
「妹に頼まれてよくやっていたからな」
「そ、その、先ほどはすまなかった。昨晩、寒い中私をここまで運んでくれたのじゃな。足も手当てしてくれて……」
「重くて重くて大変だったぞ。途中でそこらへんに置いて行こうと何度思ったことか」
「ぐっ……。ならば適当に捨て置けばよかったではないかっ」
振り返って恨めしそうな目でこちらを見る。
「ほら、動くなよ。冗談だ」
何事も無かったかのように、頭を掴んでぐいっと前に向きなおさせる。
「それに放っておいて凍死でもされたら後味悪いからな。勝手にやったことだ。気にすんな」
「そうか。でも、メシや洗濯、こんなことまでしてもらって……」
「それも勝手にやったことだ」
「ずいぶん自分勝手な奴じゃな。仕舞いには勝手におなごの着物を脱がせてしまうしのぅ」
まだ根に持ってるのか、と俺が渋い顔をしたのを見て、一本取り返したと楽しそうに微笑んでいるのが鏡越しに見える。
一通り髪を解き終わると、バレッタでまとめてアップにする。
やっぱりそうだ。似ているんだ、妹に。
ほい、と手鏡を渡すと、感嘆の声を上げながら色んな角度で自分の頭を見ていた。ビーズで装飾された蝶々形のバレッタがえらく気に入ったようで、目をきらきらと輝かせながら弄っている。
しばらくすると納得したかのようにうんと頷き、椅子に座ったまま首を後ろに曲げて、
「ありがとう!」
と、まだ少し赤い顔でこちらを見上げながら元気に笑った。
この笑顔を俺は何度も見たことがある。そしてもう二度と見ることはできないと思っていた。
胸が熱くて、痛かった。
「この着物や髪止めは妹のだと言っていたが、今日は出かけているのか? 礼が言いたいのだが」
「ん、そうだな、今はちょっと離れた所に住んでるんだ。俺から伝えておくよ」
「それは残念。会ってみたいな、きっと私と同じくらいの年なのじゃろう?」
サイズのぴったりと合った洋服に目をやりながら少女が尋ねる。
「ああ、そうだな。また今度一緒に遊んでやってくれ」
「おおっ、まかせておけ!楽しみじゃな~。何をして遊ぼうかのっ」
少女は足をパタパタとさせている。俺は自分の顔が今にもくしゃくしゃになってしまいそうになるのを必死で抑えていた。
自転車を回収にいった帰りに買っておいたコンビニのおにぎりを2個ずつ、すっかりぬるくなってしまったお茶と一緒に食べている。
最初、何も言わず少女に渡したときには包装ビニールの開き方が分からず、あーでもないこーでもないと揉んだり叩いたりしていた。
コンビニのおにぎりも食べたことが無いのか。箱入りにも程がある。そう思いながらも、面白いのでしばらく黙って見ていると、ついにはビニールの上から力まかせに噛み付いて食べようとしていたので慌てて止めた。
俺が自分の分を開けてみせると、試行錯誤の上で、なんとか開封。どうだ!と言わんばかりにおにぎりを天に掲げて得意げだったのがまたおかしかった。
「さてと、あんたこれからどうするんだ?」
「どうしたらいいと思う?」
質問したのは俺なんだが。
「とりあえず家に帰って兄貴と仲直りする、ってのはどうだ?」、
眉間にしわがよっている。よほど許しがたいことがあったのだろうか。
「うーん、兄上のことはこの際どうでもよいのじゃが……」
どうでもいいのか。
「シロを見つけるまでは帰れん」
「シロ? 犬か何かか。」
「うむ。山で出会った私の友人じゃ。先日家に連れ帰ったところ、兄上が大層怖がって追い払ってしまったのじゃよ」
「なるほど、それを追いかけて家を飛び出したんだな」
「うむ。兄上を手早く罵ってから追いかけたのじゃが、途中で見失ってしもうた」
少女の兄貴が少し不憫になってきた。
「早くみつけてやらねば」
「探しにいってまた倒れても知らないぞ。3日も探し回って手がかり無し、なんだろ?」
少女はうな垂れるようにして頷いた。
「それでも私は行かねばならぬ」
「お前の家族も心配して大騒ぎだと思うぞ。悪いことは言わないから、一旦家に帰るんだ」
「けど、けど……。シロも今頃さみしくて、ひもじくて泣いておるかもしれん」
少女の表情が曇る。その目からは今にも雨が降りそうだ。
『シロも』か。
「はぁ……」
俺がため息まじりに立ち上がると、少女はハッと顔をあげて、目をこすりながら言った。
「あっ!す、すまない。これだけ厄介になっている上に、わがままを言って困らせた」
ん?ああ、そういう風に解釈したのか。なんと返したものか。と考えている間にまたうつむいてしまった少女を横目に、俺は二階の自分の部屋へ上がった。コートを取りに。
和室にもどると、少女は昨日着ていた着物をいそいそとたたんで、帯でしばっている最中だった。
「す、すぐに家へ帰るからの。世話になった。いつかきっと礼をするぞ。」
背を向けたままこちらを見ようとしない。俺が怒っていると勘違いしたままのようだ。心配させまいとしているのも伝わってくる。
「嘘付け。お前、また探しに行く気だろう?」
びくっと、少女の手が止まる。図星だろうな。
「だってシロは、唯一の、大切な友人じゃから……」
肩が震えている。見なくてもどんな顔をしているのか想像がつく。
少女の頭に手を置いた。
「どのへんで見失ったのかわかるか?もっぺん探しにいくぞ」
驚いた表情で振り向き、こちらをぽかんと見ていたが、見る見るうちに顔から色んな汁が流れだしてきた。
「わ、わがっる。大体の場所、わがるっ!ありがっ、ありがっ……」
独りで探し歩いていた時、こいつがどんなに不安だったか、その表情から痛いほど伝わってくる。
特に鼻水から。
「わかったから。ほれ、チーンしろ。」
ティッシュを鼻に当てると勢い良く発射した。3枚重ねておいてよかった。貫通しかけている。
「えへへ、ありがとう」
またあの笑顔。その声は頭の中でダブって聞こえていた。
「ほら、いくぞ」
差し出した手を少女は嬉しそうに握り、立ち上がった。
お金のかからない趣味が欲しいと思い立ち、初投稿です。
稚拙かつ乱雑で申し訳ないです。
勉強しながら書いていきます。