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聖女と呼ばれたけれど、こんな世界救ってやらない

作者: 染井吉野
掲載日:2026/07/18

 十五歳の春。私は薬師になるはずだった。


 その日、神様が勝手に私の人生を決めるまでは。



「薬師の娘、ソフィアだな」


 家の前へ出ると、見慣れない白銀の鎧をまとった騎士たちが並んでいた。


 その胸には、王国の紋章が刻まれている。


「はい。私がソフィアですが……」


 先頭の騎士は私を真っ直ぐ見つめた。


「神託が下った」


「え……?」


「君は本日より、王国の聖女だ」


 畑から、爽やかな薬草の香りが漂ってくる。


 ほんの数分前まで、私はいつものように薬草を摘み、祖母と薬を調合していた。


 今日も昨日と同じ一日になるはずだった。


 それなのに――。


 こうして私は聖女になった。



 王都の大聖堂区に移り住むことになった。

 常に使用人と護衛騎士に囲まれ、外出が制限されるようになった。


 早朝に礼拝堂で祈りを捧げ、食事を済ませた後は、聖女としての公務を行う。


 施療院では病人を癒やし、枯れた井戸には水を満たし、干上がった畑には実りをもたらし、崩れた橋や城壁さえ元通りにしていく。


 どうしてそんなことができるのか、私にも分からなかった。


 人々は聖女の奇跡だと言う。


 最初は私も嬉しかった。


 誰かの笑顔を見るたび、聖女になって良かったと思っていた。


 あの頃は、まだ。



 聖女となって一年。


 私は王国中を巡っていた。


 北では疫病を鎮め、西では干ばつに苦しむ土地へ雨をもたらし、東では瘴気を浄化し、南では崩れた堤防を修復する。


 巡行が終われば王都へ戻り、数日も経たないうちに次の巡行へ出発する。

 それが当たり前の日々になっていた。


 ある日の巡行で、小さな村を訪れた。

 村の井戸は干上がり、畑もひび割れている。


「聖女様!」


 村長が駆け寄ってくる。


「お待ちしておりました!」


 私は井戸の前へ立ち、静かに祈った。

 柔らかな光が井戸を包み込む。


 次の瞬間、枯れていた井戸の底から、水が勢いよく湧き上がった。


「おお……!」


 歓声が上がる。


「ありがとうございます!」

「これで助かる!」


 私は胸を撫で下ろした。

 これで、この村も安心だ。


 そう思っていた。


 帰り際、一人の若者が村長へ尋ねる。


「村長。井戸をもっと深く掘らなくていいんですか?」


 村長は笑った。


「必要あるまい」


「でも、また枯れるかもしれません」


「その時はまた聖女様にお願いすればいい」


「用水路を引くことも……?」


「そんな大金を使う必要はない。聖女様がおられるのだから」


 若者も納得したように頷く。


「そうですね」


 私は思わず足を止めた。


 井戸を掘らないのだろうか。


 水路を引くことも、雨水を貯めることも、考えないのだろうか。


 胸の奥に、小さな棘が刺さったような違和感が残った。


 けれど、それを考える時間はなかった。


 次の巡行地でも、私を待つ人がいる。



 それから二年が過ぎた。


 巡行を重ねるたび、胸の奥の違和感は少しずつ大きくなっていった。


 施療院では、若い医師が薬の研究をしようとすると、


「聖女様がおられる」


 そう言って院長が止めた。


 魔物に襲われる村では、若い騎士が結界の研究を提案すると、


「聖女様が張ってくださる」


 と団長が笑った。


 干ばつの村では、用水路を造ろうという声に、


「そんな必要はない。聖女様が雨を降らせてくださる」


 と領主が首を振る。


 どこへ行っても同じだった。


 困れば聖女。壊れれば聖女。病になれば聖女。


 誰も、自分たちで何とかしようとしない。



 ある日、巡行を終えて王都へ戻ると、教皇様が穏やかな笑みで迎えてくださった。


「今回も見事な巡行でした」


「ありがとうございます」


「次は北方です。魔獣によって村が三つ滅びかけています」


 机の上には、すでに次の巡行予定が並べられていた。


 私は思わず尋ねる。


「あの……少しだけ、お休みをいただくことはできませんか?」


 教皇様は目を丸くした。


「休み、ですか?」


「三年もの間、巡行を続けています。少しだけ祖母にも会いたくて……」


 教皇様は困ったように微笑んだ。


「ソフィア。あなたを待っている人々がいます。

 聖女とは、人々を救うために神がお選びになった存在です。

 今は私情よりも、人々を優先なさい」


 私は小さく頭を下げた。


「……はい」


 その日も私は北方へ向かう馬車へ乗り込んだ。


 窓の外には、王都の城壁がゆっくりと遠ざかっていく。


 私は聖女になってから、一度も故郷へ帰っていなかった。





 その年の夏。


 私は西方の巡行を終え、王都へ戻る途中だった。

 一人の伝令騎士が馬を飛ばしてくる。


「聖女様!」


 騎士は荒い息を整えながら報告した。


「東方の村で疫病が発生しました!」


 私は身を乗り出す。


「すぐ向かいましょう」


 しかし護衛隊長は静かに首を振った。


「なりません」


「なぜですか?」


「北方で魔獣の大群が砦を包囲しています。避難民は一万人を超え、このままでは結界が持ちません。」


 私は息を呑んだ。

 どちらも、一刻を争う。


「東方の村までは半日。北方の砦までは二日」


 護衛隊長は地図を見つめる。


「どちらへ向かうかは、すでに教皇猊下と陛下がお決めになりました」


「……北方の砦ですか」


「はい」


 私は拳を握り締めた。


 どちらへ行っても、救える命がある。


 どちらかへ行かなければ、失われる命がある。


 私は一人しかいない。


 馬車は北へ向かって走り出した。



 一週間後。


 北方の砦を救い、私は東方の村へ向かった。

 村の入口には白い布を掛けられた遺体が並んでいた。


「聖女様……」


 一人の女性が、小さな娘の肩を抱きながら頭を下げる。


「来てくださって、ありがとうございます」


 その声に責める響きはなかった。


「主人は三日前に亡くなりました」


「先生も薬師さんも、最後まで頑張ってくださいました」


「でも……病には勝てませんでした」


 私は何も言えなかった。


 北方の砦へ行ったことは間違いではない。


 けれど、ここへ来なかったことも事実だった。


 その日、初めて理解した。


 私一人では、世界は救えない。



 東方の村から戻った私は、教皇様へ面会を願い出た。


「珍しいですね」


 執務室へ通されると、教皇様は穏やかに微笑んだ。


「何か困りごとでも?」


 私は深く息を吸う。


「教皇様。お願いがあります」


「どうぞ」


「巡行のやり方を変えませんか」


 教皇様は少しだけ首を傾げた。


「と言いますと?」


「私は一人しかいません。すべての村へ駆け付けることはできません。

 ですから、各地で人を育てるべきだと思うのです」


 私は用意してきた紙を机へ広げた。


「薬師も、技師も、結界を張れる神官も育ててください。

 聖女が来るのを待つのではなく、自分たちで村を守れるように――」


 教皇様は最後まで黙って聞いてくださった。


 そして静かに口を開く。


「素晴らしい考えです」


 私は少しだけ表情を明るくした。


 けれど。


「ですが、それには何年もかかります」


 その笑顔は変わらなかった。


「来年、再来年の疫病はどうなさいますか。今年の干ばつは。来月の魔獣被害は」


 私は言葉を失う。


「人々は、今この瞬間も苦しんでいます。しかし、あなたなら、今日救える。

 だから、まずは巡行を続けましょう」


 教皇様の言葉は間違っていない。


 今日救える命がある。それは事実だった。


 でも、


「教皇様」


 私は震える声で尋ねた。


「もし、私がいなくなったらどうするのですか」


 教皇様は不思議そうな顔をした。


「ソフィア」


 穏やかに笑う。


「あなたは聖女です」


 その一言で、会話は終わった。


 私がいなくなる未来は、誰も考えていない。

 考える必要すらないと思っている。


 私は静かに紙を畳み、執務室を後にした。

 廊下を歩きながら、胸の奥で何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。



 それからも、私は巡行を続けた。

 季節は夏から秋へ移った。


 教皇様の言葉は正しかった。


 今日にも助けを必要としている人がいる。

 その人たちを見捨てることなど、私にはできなかった。


 だから私は祈る。

 病を癒やし、飢えを救い、魔獣を退ける。


 けれど、救えば救うほど、不安は大きくなっていった。


 もし明日、私が倒れたら。

 もし病に伏したら。もし命を落としたら。


 そのとき、この国はどうなるのだろう。


 誰も、その答えを持っていなかった。



 転機が訪れたのは、それから間もなくのことだった。


 東部で大雨が続き、川が氾濫した。

 私は三日間ほとんど眠らず、堤防を修復し、濁流に呑まれた村々を回った。

 最後の村を救い終えた頃には、立っているのもやっとだった。


 それでも王都へ戻ると、私の部屋には新しい巡行予定が届いていた。

 北部の疫病。南部の干ばつ。西部の魔獣被害。


 机の上に並べられた書状を、私は黙って見下ろした。


 一つを救えば、次が待っている。


 私が倒れるまで。私が死ぬまで。

 きっと、これは終わらない。


 窓の外では、大聖堂の鐘が鳴っていた。


 私は自分の両手を見る。

 この手があれば、人を救える。


 けれど、この手があるから、人々は自分の手を動かさなくなった。


 教皇様の言う通り、今日苦しんでいる人を救うことは大切だ。


 けれど、今日だけを救い続けていても、明日は何も変わらない。


 私がいなくなれば、混乱は起きるだろう。

 それでも、人々はいつか自分たちで考え、備え、助け合わなければならない。


「もう、決めた」


 声に出すと、不思議なほど心が静かになった。


 私は戸棚の奥から、王都へ来た日に持ってきた古い薬箱を取り出した。

 中には小さなすり鉢と乳棒、薬草を包む布、それから祖母にもらった調合匙が入っている。


 聖女として必要なものではない。

 けれど、ソフィアとして生きるために必要なものだった。


 白い聖女服を脱ぎ、使用人が着る簡素な服へ着替える。

 長い髪を一つに束ね、その上から外套の頭巾を被った。


 最後に、机へ一通の手紙を残す。


『教皇様へ。

 私は、もう巡行には戻りません。

 私一人が奇跡を与え続ける限り、この国は私なしでは生きられなくなります。


 これから自分に何ができるのか、私自身の目で確かめたいと思います。


 どうか私を捜さないでください。


 ソフィア』


 書き終えた手紙の隣へ、聖女の証である首飾りを置いた。


 名残惜しさはなかった。


 私は窓を開ける。

 夜明け前の冷たい空気が部屋へ流れ込み、薬草園から懐かしい香りが漂ってきた。


 大聖堂の鐘が鳴り始める前に、私は裏門から王都を出た。



 王都を出て七日。


 私は旅の途中、小さな村へ辿り着いた。

 村へ入ると、一人の女性が幼い男の子を背負い、慌てた様子で走っていた。


「誰か、お医者様を……!」


 私は思わず声を掛ける。


「どうしました?」


 女性は涙ぐみながら振り返った。


「息子が三日も熱を出していて……」


「薬師はいませんか?」


「村にはもういません。去年亡くなってしまって……」


 私は男の子の額へ手を当てた。

 熱い。けれど、呼吸は落ち着いている。この症状なら、薬と休養で回復できるはずだ。


「沢沿いに、銀色の葉をつけた草はありませんか?」


「それなら見たことがあります」


「案内してください」


 一時間後。


 私は採ってきた薬草をすり鉢で潰し、小鍋で煎じていた。

 祖母から教わった薬だった。


「これを少しずつ飲ませてください」


 女性は不安そうに器を受け取る。


「本当に効くのでしょうか……」


「絶対とは言えません。でも、この熱にはよく使われていました」


 その日の夜。

 男の子の熱は少しずつ下がり始めた。


「熱が……!」


 母親は涙を流して私の手を握る。


「ありがとうございます」


 私は首を横に振った。


「よかった。でも、今夜も様子を見てください」


 翌朝。

 私は村人たちを薬草の生えていた場所へ案内した。


「この葉は、熱冷ましの薬に使えます」

「こちらの葉は潰して、傷薬に使います」

「どちらも乾燥させれば、冬まで保存できます」


 村人たちは真剣な表情で、私の手元をじっと見つめていた。

 その後は、村人たちにも薬草を選び、刻み、煎じるところまで一人ずつ試してもらった。


「全部、覚えられるでしょうか」


 一人の女性が不安そうに尋ねた。


「一度では難しいかもしれません」


 私は微笑んだ。


「でも、次は皆さんで作ってください。困っている人がいたら、皆さんが助けてあげてください」


 村人たちは顔を見合わせ、静かに頷いた。

 私はその様子を見て、小さく息をつく。


 奇跡なら、一瞬で熱を下げられた。

 けれど薬なら、この村に残せる。


 祖母が教えてくれた知識も。

 人を助ける方法も。

 全部、次の誰かへ繋いでいける。


 ――これが、私のやりたかったことだった。



 数日後。


 山道を歩いていると、一つの村が見えてきた。

 広場では、大勢の村人が崩れた井戸を囲み、途方に暮れていた。


「何かあったんですか?」


 私が尋ねると、一人の男性が肩を落とした。


「井戸の石積みが崩れてしまって」


「石工はいないんですか?」


「隣町へ呼びに行っています。でも、来るのは早くても十日後でしょう」


 私は崩れた井戸を見下ろした。


 奇跡なら、一瞬で直せる。

 でも、それではまた同じことの繰り返しだ。


「この村で、井戸を造ったときのことを知っている方はいませんか?」


 村人たちは顔を見合わせる。

 しばらくして、一人の老人が手を挙げた。


「若い頃、石を運んだことがあります」


「私は石灰を練る手伝いをしました」


「父が石工だったので、作業を見ていたことなら」


 私は頷いた。


「それだけ分かれば十分です。皆さんの知っていることを合わせましょう」


 村人たちは不思議そうな顔をした。


「合わせる……?」


「一人では分からなくても、皆さんなら知っていることがあるはずです」


 老人は井戸を見つめ、ぽつりと呟く。


「そういえば、親方は土台から直していたな」


「石は大きいものから積んでいました」


「石灰は水を入れすぎるな、と父が言っていました」


 一人が思い出すと、また一人が口を開く。

 止まっていた記憶が、少しずつ繋がっていく。


「よし」


 老人が腕まくりをした。


「やってみるか」


 若者たちが石を運び始める。

 女性たちは水や縄を用意する。


 私は作業を見守りながら声を掛けた。


「焦らなくて大丈夫です。崩れそうなら、一度やり直しましょう」


 何度か石を組み直し、夕暮れ前には、崩れていた井戸口に仮の支えが入り、少しずつ水を汲めるようになった。


「これなら、石工が来るまで持ちそうだ」


 老人が額の汗を拭う。


「待つしかないと思っていたが、俺たちにもできることはあったんだな」


 私は頷いた。


「石工さんが来たら、若い方も一緒に作業をしてください。今度は、きちんと直し方を覚えられます」


「ああ。孫にも手伝わせよう」


 私は一礼し、村を後にした。

 背中では、誰が石工の手伝いに入るかを村人たちが相談していた。


 私は振り返らなかった。

 あの村は、もう誰かが来るのを待つだけではない。


 十五歳の春。

 神様は勝手に私の人生を決めた。


 十八歳の冬。

 私はようやく、自分の人生を選んだ。


 聖女と呼ばれたけれど、こんな世界救ってやらない。


 薬箱を背負い直し、私は次の村へ向かった。


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