聖女と呼ばれたけれど、こんな世界救ってやらない
十五歳の春。私は薬師になるはずだった。
その日、神様が勝手に私の人生を決めるまでは。
◇
「薬師の娘、ソフィアだな」
家の前へ出ると、見慣れない白銀の鎧をまとった騎士たちが並んでいた。
その胸には、王国の紋章が刻まれている。
「はい。私がソフィアですが……」
先頭の騎士は私を真っ直ぐ見つめた。
「神託が下った」
「え……?」
「君は本日より、王国の聖女だ」
畑から、爽やかな薬草の香りが漂ってくる。
ほんの数分前まで、私はいつものように薬草を摘み、祖母と薬を調合していた。
今日も昨日と同じ一日になるはずだった。
それなのに――。
こうして私は聖女になった。
◇
王都の大聖堂区に移り住むことになった。
常に使用人と護衛騎士に囲まれ、外出が制限されるようになった。
早朝に礼拝堂で祈りを捧げ、食事を済ませた後は、聖女としての公務を行う。
施療院では病人を癒やし、枯れた井戸には水を満たし、干上がった畑には実りをもたらし、崩れた橋や城壁さえ元通りにしていく。
どうしてそんなことができるのか、私にも分からなかった。
人々は聖女の奇跡だと言う。
最初は私も嬉しかった。
誰かの笑顔を見るたび、聖女になって良かったと思っていた。
あの頃は、まだ。
◇
聖女となって一年。
私は王国中を巡っていた。
北では疫病を鎮め、西では干ばつに苦しむ土地へ雨をもたらし、東では瘴気を浄化し、南では崩れた堤防を修復する。
巡行が終われば王都へ戻り、数日も経たないうちに次の巡行へ出発する。
それが当たり前の日々になっていた。
ある日の巡行で、小さな村を訪れた。
村の井戸は干上がり、畑もひび割れている。
「聖女様!」
村長が駆け寄ってくる。
「お待ちしておりました!」
私は井戸の前へ立ち、静かに祈った。
柔らかな光が井戸を包み込む。
次の瞬間、枯れていた井戸の底から、水が勢いよく湧き上がった。
「おお……!」
歓声が上がる。
「ありがとうございます!」
「これで助かる!」
私は胸を撫で下ろした。
これで、この村も安心だ。
そう思っていた。
帰り際、一人の若者が村長へ尋ねる。
「村長。井戸をもっと深く掘らなくていいんですか?」
村長は笑った。
「必要あるまい」
「でも、また枯れるかもしれません」
「その時はまた聖女様にお願いすればいい」
「用水路を引くことも……?」
「そんな大金を使う必要はない。聖女様がおられるのだから」
若者も納得したように頷く。
「そうですね」
私は思わず足を止めた。
井戸を掘らないのだろうか。
水路を引くことも、雨水を貯めることも、考えないのだろうか。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような違和感が残った。
けれど、それを考える時間はなかった。
次の巡行地でも、私を待つ人がいる。
◇
それから二年が過ぎた。
巡行を重ねるたび、胸の奥の違和感は少しずつ大きくなっていった。
施療院では、若い医師が薬の研究をしようとすると、
「聖女様がおられる」
そう言って院長が止めた。
魔物に襲われる村では、若い騎士が結界の研究を提案すると、
「聖女様が張ってくださる」
と団長が笑った。
干ばつの村では、用水路を造ろうという声に、
「そんな必要はない。聖女様が雨を降らせてくださる」
と領主が首を振る。
どこへ行っても同じだった。
困れば聖女。壊れれば聖女。病になれば聖女。
誰も、自分たちで何とかしようとしない。
◇
ある日、巡行を終えて王都へ戻ると、教皇様が穏やかな笑みで迎えてくださった。
「今回も見事な巡行でした」
「ありがとうございます」
「次は北方です。魔獣によって村が三つ滅びかけています」
机の上には、すでに次の巡行予定が並べられていた。
私は思わず尋ねる。
「あの……少しだけ、お休みをいただくことはできませんか?」
教皇様は目を丸くした。
「休み、ですか?」
「三年もの間、巡行を続けています。少しだけ祖母にも会いたくて……」
教皇様は困ったように微笑んだ。
「ソフィア。あなたを待っている人々がいます。
聖女とは、人々を救うために神がお選びになった存在です。
今は私情よりも、人々を優先なさい」
私は小さく頭を下げた。
「……はい」
その日も私は北方へ向かう馬車へ乗り込んだ。
窓の外には、王都の城壁がゆっくりと遠ざかっていく。
私は聖女になってから、一度も故郷へ帰っていなかった。
◇
その年の夏。
私は西方の巡行を終え、王都へ戻る途中だった。
一人の伝令騎士が馬を飛ばしてくる。
「聖女様!」
騎士は荒い息を整えながら報告した。
「東方の村で疫病が発生しました!」
私は身を乗り出す。
「すぐ向かいましょう」
しかし護衛隊長は静かに首を振った。
「なりません」
「なぜですか?」
「北方で魔獣の大群が砦を包囲しています。避難民は一万人を超え、このままでは結界が持ちません。」
私は息を呑んだ。
どちらも、一刻を争う。
「東方の村までは半日。北方の砦までは二日」
護衛隊長は地図を見つめる。
「どちらへ向かうかは、すでに教皇猊下と陛下がお決めになりました」
「……北方の砦ですか」
「はい」
私は拳を握り締めた。
どちらへ行っても、救える命がある。
どちらかへ行かなければ、失われる命がある。
私は一人しかいない。
馬車は北へ向かって走り出した。
◇
一週間後。
北方の砦を救い、私は東方の村へ向かった。
村の入口には白い布を掛けられた遺体が並んでいた。
「聖女様……」
一人の女性が、小さな娘の肩を抱きながら頭を下げる。
「来てくださって、ありがとうございます」
その声に責める響きはなかった。
「主人は三日前に亡くなりました」
「先生も薬師さんも、最後まで頑張ってくださいました」
「でも……病には勝てませんでした」
私は何も言えなかった。
北方の砦へ行ったことは間違いではない。
けれど、ここへ来なかったことも事実だった。
その日、初めて理解した。
私一人では、世界は救えない。
◇
東方の村から戻った私は、教皇様へ面会を願い出た。
「珍しいですね」
執務室へ通されると、教皇様は穏やかに微笑んだ。
「何か困りごとでも?」
私は深く息を吸う。
「教皇様。お願いがあります」
「どうぞ」
「巡行のやり方を変えませんか」
教皇様は少しだけ首を傾げた。
「と言いますと?」
「私は一人しかいません。すべての村へ駆け付けることはできません。
ですから、各地で人を育てるべきだと思うのです」
私は用意してきた紙を机へ広げた。
「薬師も、技師も、結界を張れる神官も育ててください。
聖女が来るのを待つのではなく、自分たちで村を守れるように――」
教皇様は最後まで黙って聞いてくださった。
そして静かに口を開く。
「素晴らしい考えです」
私は少しだけ表情を明るくした。
けれど。
「ですが、それには何年もかかります」
その笑顔は変わらなかった。
「来年、再来年の疫病はどうなさいますか。今年の干ばつは。来月の魔獣被害は」
私は言葉を失う。
「人々は、今この瞬間も苦しんでいます。しかし、あなたなら、今日救える。
だから、まずは巡行を続けましょう」
教皇様の言葉は間違っていない。
今日救える命がある。それは事実だった。
でも、
「教皇様」
私は震える声で尋ねた。
「もし、私がいなくなったらどうするのですか」
教皇様は不思議そうな顔をした。
「ソフィア」
穏やかに笑う。
「あなたは聖女です」
その一言で、会話は終わった。
私がいなくなる未来は、誰も考えていない。
考える必要すらないと思っている。
私は静かに紙を畳み、執務室を後にした。
廊下を歩きながら、胸の奥で何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。
◇
それからも、私は巡行を続けた。
季節は夏から秋へ移った。
教皇様の言葉は正しかった。
今日にも助けを必要としている人がいる。
その人たちを見捨てることなど、私にはできなかった。
だから私は祈る。
病を癒やし、飢えを救い、魔獣を退ける。
けれど、救えば救うほど、不安は大きくなっていった。
もし明日、私が倒れたら。
もし病に伏したら。もし命を落としたら。
そのとき、この国はどうなるのだろう。
誰も、その答えを持っていなかった。
◇
転機が訪れたのは、それから間もなくのことだった。
東部で大雨が続き、川が氾濫した。
私は三日間ほとんど眠らず、堤防を修復し、濁流に呑まれた村々を回った。
最後の村を救い終えた頃には、立っているのもやっとだった。
それでも王都へ戻ると、私の部屋には新しい巡行予定が届いていた。
北部の疫病。南部の干ばつ。西部の魔獣被害。
机の上に並べられた書状を、私は黙って見下ろした。
一つを救えば、次が待っている。
私が倒れるまで。私が死ぬまで。
きっと、これは終わらない。
窓の外では、大聖堂の鐘が鳴っていた。
私は自分の両手を見る。
この手があれば、人を救える。
けれど、この手があるから、人々は自分の手を動かさなくなった。
教皇様の言う通り、今日苦しんでいる人を救うことは大切だ。
けれど、今日だけを救い続けていても、明日は何も変わらない。
私がいなくなれば、混乱は起きるだろう。
それでも、人々はいつか自分たちで考え、備え、助け合わなければならない。
「もう、決めた」
声に出すと、不思議なほど心が静かになった。
私は戸棚の奥から、王都へ来た日に持ってきた古い薬箱を取り出した。
中には小さなすり鉢と乳棒、薬草を包む布、それから祖母にもらった調合匙が入っている。
聖女として必要なものではない。
けれど、ソフィアとして生きるために必要なものだった。
白い聖女服を脱ぎ、使用人が着る簡素な服へ着替える。
長い髪を一つに束ね、その上から外套の頭巾を被った。
最後に、机へ一通の手紙を残す。
『教皇様へ。
私は、もう巡行には戻りません。
私一人が奇跡を与え続ける限り、この国は私なしでは生きられなくなります。
これから自分に何ができるのか、私自身の目で確かめたいと思います。
どうか私を捜さないでください。
ソフィア』
書き終えた手紙の隣へ、聖女の証である首飾りを置いた。
名残惜しさはなかった。
私は窓を開ける。
夜明け前の冷たい空気が部屋へ流れ込み、薬草園から懐かしい香りが漂ってきた。
大聖堂の鐘が鳴り始める前に、私は裏門から王都を出た。
◇
王都を出て七日。
私は旅の途中、小さな村へ辿り着いた。
村へ入ると、一人の女性が幼い男の子を背負い、慌てた様子で走っていた。
「誰か、お医者様を……!」
私は思わず声を掛ける。
「どうしました?」
女性は涙ぐみながら振り返った。
「息子が三日も熱を出していて……」
「薬師はいませんか?」
「村にはもういません。去年亡くなってしまって……」
私は男の子の額へ手を当てた。
熱い。けれど、呼吸は落ち着いている。この症状なら、薬と休養で回復できるはずだ。
「沢沿いに、銀色の葉をつけた草はありませんか?」
「それなら見たことがあります」
「案内してください」
一時間後。
私は採ってきた薬草をすり鉢で潰し、小鍋で煎じていた。
祖母から教わった薬だった。
「これを少しずつ飲ませてください」
女性は不安そうに器を受け取る。
「本当に効くのでしょうか……」
「絶対とは言えません。でも、この熱にはよく使われていました」
その日の夜。
男の子の熱は少しずつ下がり始めた。
「熱が……!」
母親は涙を流して私の手を握る。
「ありがとうございます」
私は首を横に振った。
「よかった。でも、今夜も様子を見てください」
翌朝。
私は村人たちを薬草の生えていた場所へ案内した。
「この葉は、熱冷ましの薬に使えます」
「こちらの葉は潰して、傷薬に使います」
「どちらも乾燥させれば、冬まで保存できます」
村人たちは真剣な表情で、私の手元をじっと見つめていた。
その後は、村人たちにも薬草を選び、刻み、煎じるところまで一人ずつ試してもらった。
「全部、覚えられるでしょうか」
一人の女性が不安そうに尋ねた。
「一度では難しいかもしれません」
私は微笑んだ。
「でも、次は皆さんで作ってください。困っている人がいたら、皆さんが助けてあげてください」
村人たちは顔を見合わせ、静かに頷いた。
私はその様子を見て、小さく息をつく。
奇跡なら、一瞬で熱を下げられた。
けれど薬なら、この村に残せる。
祖母が教えてくれた知識も。
人を助ける方法も。
全部、次の誰かへ繋いでいける。
――これが、私のやりたかったことだった。
◇
数日後。
山道を歩いていると、一つの村が見えてきた。
広場では、大勢の村人が崩れた井戸を囲み、途方に暮れていた。
「何かあったんですか?」
私が尋ねると、一人の男性が肩を落とした。
「井戸の石積みが崩れてしまって」
「石工はいないんですか?」
「隣町へ呼びに行っています。でも、来るのは早くても十日後でしょう」
私は崩れた井戸を見下ろした。
奇跡なら、一瞬で直せる。
でも、それではまた同じことの繰り返しだ。
「この村で、井戸を造ったときのことを知っている方はいませんか?」
村人たちは顔を見合わせる。
しばらくして、一人の老人が手を挙げた。
「若い頃、石を運んだことがあります」
「私は石灰を練る手伝いをしました」
「父が石工だったので、作業を見ていたことなら」
私は頷いた。
「それだけ分かれば十分です。皆さんの知っていることを合わせましょう」
村人たちは不思議そうな顔をした。
「合わせる……?」
「一人では分からなくても、皆さんなら知っていることがあるはずです」
老人は井戸を見つめ、ぽつりと呟く。
「そういえば、親方は土台から直していたな」
「石は大きいものから積んでいました」
「石灰は水を入れすぎるな、と父が言っていました」
一人が思い出すと、また一人が口を開く。
止まっていた記憶が、少しずつ繋がっていく。
「よし」
老人が腕まくりをした。
「やってみるか」
若者たちが石を運び始める。
女性たちは水や縄を用意する。
私は作業を見守りながら声を掛けた。
「焦らなくて大丈夫です。崩れそうなら、一度やり直しましょう」
何度か石を組み直し、夕暮れ前には、崩れていた井戸口に仮の支えが入り、少しずつ水を汲めるようになった。
「これなら、石工が来るまで持ちそうだ」
老人が額の汗を拭う。
「待つしかないと思っていたが、俺たちにもできることはあったんだな」
私は頷いた。
「石工さんが来たら、若い方も一緒に作業をしてください。今度は、きちんと直し方を覚えられます」
「ああ。孫にも手伝わせよう」
私は一礼し、村を後にした。
背中では、誰が石工の手伝いに入るかを村人たちが相談していた。
私は振り返らなかった。
あの村は、もう誰かが来るのを待つだけではない。
十五歳の春。
神様は勝手に私の人生を決めた。
十八歳の冬。
私はようやく、自分の人生を選んだ。
聖女と呼ばれたけれど、こんな世界救ってやらない。
薬箱を背負い直し、私は次の村へ向かった。




