「切れない紐」
『夢の住人~外伝~』にお越しいただき、ありがとうございます。
この外伝は本編『夢の住人』の“裏側”に焦点を当てた短編です。
本編で語られなかった出来事、別の場所で進んでいた話――
そうした要素を通して、本編のシーンや台詞の意味が少しだけ違って見えることを目指しています。
※この外伝には、本編【ep.21】までの内容に触れる描写が含まれます。
未読の方は、先に本編をお読みいただくことをおすすめします。
それでは、『夢の住人~外伝~』をお楽しみください。
八歳の春、わたしは母のお腹が、いつもより少しだけ丸いことに気づいた。
「ねえ、お母さん。なにが入ってるの?」
台所で味噌汁をかき混ぜていた母が、笑って手を止めた。火を弱め、濡れた手をエプロンで拭いてから、わたしの頭を撫でる。
「妹ちゃんだよ」
「いもうと……?」
その言葉の意味が、すぐには落ちてこなかった。
妹って、テレビの中に出てくる、ちょっと小さい子のこと。泣いたり笑ったりして、お姉ちゃんの後ろをついて回る子。
「ほんとに? ここに?」
わたしが母のお腹に耳を当てると、母はくすぐったそうに肩をすくめた。
「まだ小さくてね、声は聞こえないけど、ちゃんといるよ」
わたしは胸の奥が熱くなるのを感じた。嬉しい、の一歩手前。まだ形にならない大切さが、ぽわっと灯る。
「妹が生まれたら、いっぱい遊んであげるの!」
そう言うと、母は少し目を細めた。泣きそうにも見えたし、笑いそうにも見えた。
「頼もしいね。じゃあ、約束だね」
母が指を差し出したので、わたしは小指を絡めた。指先は少しだけ冷たくて、でも指の輪の中はあたたかかった。
——それが、わたしの最初の“お姉ちゃん”だった。
妹が生まれた日のことは、いまでも匂いで思い出す。消毒の匂い。白いシーツの匂い。母の汗の匂い。
小さくて、赤くて、握った手が驚くほど強くて。
わたしの指を掴んだまま、離さなかった。
「この子、力強いね」
看護師さんが笑った。母は疲れ切った顔で、でも誇らしそうに頷いた。
わたしは泣いた。理由はわからない。ただ、泣くしかなかった。
「ねえ、聞こえる?」
わたしは妹の耳元で囁いた。
「お姉ちゃんがいるからね」
返事はないのに、握る力だけが答えみたいだった。
妹が歩き始めた頃、家の中はいつも小さな嵐だった。
転んで泣いて、すぐ笑って、また転ぶ。
わたしは宿題の手を止めて、絆創膏を貼り、泣き顔を拭いて、抱き上げた。
母は台所で忙しくしながら「助かる」と言う。
父は帰りが遅い日が増えて、家の中の会話が少しずつ減っていった。
それでも妹は、夜になるとわたしの布団に潜り込んでくる。
「おねえちゃん」
眠い声で呼ぶだけで、世界がちゃんと続いている気がした。
妹が四歳になった年、初めてふたりで夏祭りに行った。
金魚すくいは一匹も取れなくて、わたしは笑いながら謝った。
妹は首を振って、屋台でもらった飴を半分くれた。
「わけっこ」
小さい手の中の甘さが、胸の奥まで染みた。
帰り道、眠くなった妹を背負った。肩が痛いのに、嬉しかった。
“守る”って、こういうことかもしれないと思った。
そんな中両親は離婚をした
父がいなくなって、母の笑顔は“家事の手順”みたいになった。
口角は上がるのに、目が上がらない。夜、台所の蛇口をひねる音が長く続く日が増えた。
妹は七歳になった。
わたしたちは居間の床に並んで座り、あやとりをした。指に糸を回すたび、ふたりの呼吸が同じ速さになっていく。猫、ほうき、橋。妹は得意げに形を作って見せる。わたしは「上手」と言って、少し大げさに拍手をする。
その瞬間だった。
ぱち、と乾いた音がして、糸が切れた。形がほどけ、妹の指からするりと落ちる。
妹はしばらく糸の切れ端を見つめて、次の瞬間、顔をくしゃっと歪めた。
「やだ……切れないあや、ほしい……」
切れない糸。そんなもの、あるわけがない。わかっているのに、妹の涙は止まらない。わたしは背中をさすり、頭を抱えた。
「大丈夫。新しいの、買おう。もっと強いやつ」
「でも……切れた……」
「切れるよ。糸は切れる。でもね」
わたしは言葉を選んだ。妹が欲しがっているのは糸じゃない、とわかっていたから。切れない“何か”。離れていくものを止めるための、頼りになる“何か”。
「わたしたちは切れない。ここは切れない」
自分の胸を指して、そう言った。妹は泣きながら頷いて、わたしの服の裾を握りしめた。
数日後、妹は小学校から帰るなり、靴も揃えずに飛び込んできた。
「お姉ちゃん! 見て! 先生がね、切れない紐くれた!」
妹が差し出したのは、細い白い紐だった。新品でも、特別な素材でもない。ごく普通の、どこにでもある紐。
わたしは一瞬で理解した。先生は“紐が切れない”なんて本気で言っていない。子どもの不安を、子どもの言葉であやしただけだ。切れないのは紐じゃなくて、妹の涙が乾くまでの時間のほうだ。
だけど、わたしは言った。
「よかったね」
妹の頭を撫でる。妹は胸にその紐を抱きしめて、誇らしげに笑った。わたしはその笑顔を守るために、嘘を一つだけ飲み込んだ。
——切れない紐なんて、ない。
私が高校に入学した年、母は再婚した。
相手の男は、最初から空気が濁っていた。家の廊下に、よその匂いが居座るみたいだった。わたしと妹は、言葉にしないまま、同じだけ嫌った。母だけが「いい人なの」と言い続けた。言い続けないと、母自身が折れそうに見えた。
男は、わたしに"手を出した"
今思えば母も気づいたであろう。
気づかないふりをするのが一番上手だった。
台所で手を動かしていれば、視線を合わせなくて済む。
洗濯物を畳んでいれば、耳を塞げる。母は「関係を壊すのが怖い」顔をして、わたしを見なかった。
わたしも、声を上げなかった。
妹にその矛先が向くのが怖かったから。
男の目が妹へ滑るたび、わたしの背中が冷えた。
だから、わたしが前に立った。
わたしが的になれば、妹はその場を通り過ぎられる。
そう思った。そう思い込むしかなかった。
抵抗しないことが、守ることだと信じた。
わたしの部屋のドアの前で足音が止まる夜、息を殺して、妹の寝息だけを数えた。
妹が眠っているあいだだけが、安全だった。
高校を卒業した年、わたしは家を出た。
逃げるように。置き去りにするように。
「妹はわたしが守る」って、あんなに簡単に言っていたのに。
最後の日、小学生の妹は玄関まで走ってきて、わたしの制服の袖を掴んだ。
「お姉ちゃん、いつ帰ってくる?」
わたしは笑って、「すぐ」と嘘をついた。
嘘をついたのに、妹は安心した顔をした。
あの顔が、いまでも胸の奥に刺さっている。
わたしは分かっていた。
わたしがいなくなった家で、誰が次に的になるか。
それでも出た。母と同じだった。
怖くて、現実を見るのが怖くて、妹を"生け贄"にした。
わたしも母も、同じ罪を抱えていた。
違うのは、母はそれを“家族のため”と言い換えられたこと。
わたしは言い換えられなかった。
言い換えられないまま、ただ遠くで、妹が無事であることだけを祈った。
わたしは22歳になって初めて帰省した。母の声を聞くと胸がざわつくのに、妹の声を聞けないのはもっと苦しかった。
ある日、たまたま用事で家に寄った。
玄関の鍵は、かかっていなかった。
嫌な予感がして、わたしは靴を脱ぐのも雑になった。廊下の先、寝室の扉が半分だけ開いている。中から、息を飲むような気配が漏れてくる。
「……ゆい?」
妹の名前を呼びかけた声が、妙に薄く響いた。
わたしは扉を押し開けた。
その瞬間、世界が静かになった。音が遠のいた。頭の中が白くなった。目の前にあるものを“理解”するより先に、身体が冷えた。
男がいた。母の再婚相手。乱れた呼吸、荒い動き。上裸でズボンはずれていた。
妹は口を開き舌を垂らして、ベッドの上で虚空を見上げていた。
わたしの足が勝手に前へ出た。
「……何してんの」
声が自分のものじゃないみたいに低かった。
男が振り向く。驚いた顔のあとすぐに言い訳を始めた。
「ち、ち、違うんだ!事故で!」
その一言で、糸が切れた。
妹が、わたしを見た。そんな気がした。
——お姉ちゃん。
妹の手には、あの白い紐が握られていた。先生にもらったと自慢してきた、普通の紐。握りしめすぎていたのであろう、指の形に食い込んで血が滲んでいる。
わたしはその紐を取った。
男は逃げようとした。
わたしは逃げる男の首に紐をかけ、両手で引いた。
男が暴れる。紐が引っ張られ、普通ならどこかで切れるはずの力がかかる。
なのに——切れない。
きしむ音はする。指に食い込んで痛い。けれど、紐は切れない。
ほどけない。男の抵抗だけが、だんだん小さくなる。
やがて動かなくなった。
(……おねえちゃん。)
聞こえるはずのないゆいの声が聞こえた
「ゆい?。いる。ここにいるよ」
ベッドの上のゆいにかけより、わたしは泣きながら妹を抱いた。
腕の中の重さが、現実だった。
わたしは震える指でスマホを取り、通報の画面を開いた。指先がうまく動かない。息が浅い。視界が揺れる。それでも、押した。
約束は、守れなかった。
妹の手を握る。あの日、小指を絡めたときみたいに。ちゃんとあたたかい気がした。
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