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夢の住人~外伝~  作者: 阿行空


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1/1

「切れない紐」

『夢の住人~外伝~』にお越しいただき、ありがとうございます。


この外伝は本編『夢の住人』の“裏側”に焦点を当てた短編です。


本編で語られなかった出来事、別の場所で進んでいた話――

そうした要素を通して、本編のシーンや台詞の意味が少しだけ違って見えることを目指しています。


※この外伝には、本編【ep.21】までの内容に触れる描写が含まれます。

未読の方は、先に本編をお読みいただくことをおすすめします。


それでは、『夢の住人~外伝~』をお楽しみください。

八歳の春、わたしは母のお腹が、いつもより少しだけ丸いことに気づいた。


「ねえ、お母さん。なにが入ってるの?」


 台所で味噌汁をかき混ぜていた母が、笑って手を止めた。火を弱め、濡れた手をエプロンで拭いてから、わたしの頭を撫でる。


「妹ちゃんだよ」


「いもうと……?」


その言葉の意味が、すぐには落ちてこなかった。


妹って、テレビの中に出てくる、ちょっと小さい子のこと。泣いたり笑ったりして、お姉ちゃんの後ろをついて回る子。


「ほんとに? ここに?」


わたしが母のお腹に耳を当てると、母はくすぐったそうに肩をすくめた。


「まだ小さくてね、声は聞こえないけど、ちゃんといるよ」


わたしは胸の奥が熱くなるのを感じた。嬉しい、の一歩手前。まだ形にならない大切さが、ぽわっと灯る。


「妹が生まれたら、いっぱい遊んであげるの!」


そう言うと、母は少し目を細めた。泣きそうにも見えたし、笑いそうにも見えた。


「頼もしいね。じゃあ、約束だね」


 母が指を差し出したので、わたしは小指を絡めた。指先は少しだけ冷たくて、でも指の輪の中はあたたかかった。


 ——それが、わたしの最初の“お姉ちゃん”だった。





妹が生まれた日のことは、いまでも匂いで思い出す。消毒の匂い。白いシーツの匂い。母の汗の匂い。


小さくて、赤くて、握った手が驚くほど強くて。


わたしの指を掴んだまま、離さなかった。


「この子、力強いね」


看護師さんが笑った。母は疲れ切った顔で、でも誇らしそうに頷いた。


わたしは泣いた。理由はわからない。ただ、泣くしかなかった。


「ねえ、聞こえる?」


わたしは妹の耳元で囁いた。


「お姉ちゃんがいるからね」


返事はないのに、握る力だけが答えみたいだった。





妹が歩き始めた頃、家の中はいつも小さな嵐だった。


転んで泣いて、すぐ笑って、また転ぶ。

わたしは宿題の手を止めて、絆創膏を貼り、泣き顔を拭いて、抱き上げた。


母は台所で忙しくしながら「助かる」と言う。



父は帰りが遅い日が増えて、家の中の会話が少しずつ減っていった。


それでも妹は、夜になるとわたしの布団に潜り込んでくる。


「おねえちゃん」


眠い声で呼ぶだけで、世界がちゃんと続いている気がした。





妹が四歳になった年、初めてふたりで夏祭りに行った。


金魚すくいは一匹も取れなくて、わたしは笑いながら謝った。


妹は首を振って、屋台でもらった飴を半分くれた。


「わけっこ」


小さい手の中の甘さが、胸の奥まで染みた。


帰り道、眠くなった妹を背負った。肩が痛いのに、嬉しかった。


“守る”って、こういうことかもしれないと思った。




そんな中両親は離婚をした


父がいなくなって、母の笑顔は“家事の手順”みたいになった。


口角は上がるのに、目が上がらない。夜、台所の蛇口をひねる音が長く続く日が増えた。




妹は七歳になった。


わたしたちは居間の床に並んで座り、あやとりをした。指に糸を回すたび、ふたりの呼吸が同じ速さになっていく。猫、ほうき、橋。妹は得意げに形を作って見せる。わたしは「上手」と言って、少し大げさに拍手をする。


 その瞬間だった。


 ぱち、と乾いた音がして、糸が切れた。形がほどけ、妹の指からするりと落ちる。


 妹はしばらく糸の切れ端を見つめて、次の瞬間、顔をくしゃっと歪めた。


「やだ……切れないあや、ほしい……」


 切れない糸。そんなもの、あるわけがない。わかっているのに、妹の涙は止まらない。わたしは背中をさすり、頭を抱えた。


「大丈夫。新しいの、買おう。もっと強いやつ」


「でも……切れた……」


「切れるよ。糸は切れる。でもね」


 わたしは言葉を選んだ。妹が欲しがっているのは糸じゃない、とわかっていたから。切れない“何か”。離れていくものを止めるための、頼りになる“何か”。



「わたしたちは切れない。ここは切れない」



 自分の胸を指して、そう言った。妹は泣きながら頷いて、わたしの服の裾を握りしめた。


 数日後、妹は小学校から帰るなり、靴も揃えずに飛び込んできた。


「お姉ちゃん! 見て! 先生がね、切れない紐くれた!」


 妹が差し出したのは、細い白い紐だった。新品でも、特別な素材でもない。ごく普通の、どこにでもある紐。


 わたしは一瞬で理解した。先生は“紐が切れない”なんて本気で言っていない。子どもの不安を、子どもの言葉であやしただけだ。切れないのは紐じゃなくて、妹の涙が乾くまでの時間のほうだ。


 だけど、わたしは言った。


「よかったね」


 妹の頭を撫でる。妹は胸にその紐を抱きしめて、誇らしげに笑った。わたしはその笑顔を守るために、嘘を一つだけ飲み込んだ。



 ——切れない紐なんて、ない。


       



私が高校に入学した年、母は再婚した。


相手の男は、最初から空気が濁っていた。家の廊下に、よその匂いが居座るみたいだった。わたしと妹は、言葉にしないまま、同じだけ嫌った。母だけが「いい人なの」と言い続けた。言い続けないと、母自身が折れそうに見えた。



男は、わたしに"手を出した"



今思えば母も気づいたであろう。


気づかないふりをするのが一番上手だった。

台所で手を動かしていれば、視線を合わせなくて済む。

洗濯物を畳んでいれば、耳を塞げる。母は「関係を壊すのが怖い」顔をして、わたしを見なかった。


わたしも、声を上げなかった。


妹にその矛先が向くのが怖かったから。


男の目が妹へ滑るたび、わたしの背中が冷えた。


だから、わたしが前に立った。


わたしが的になれば、妹はその場を通り過ぎられる。


そう思った。そう思い込むしかなかった。


抵抗しないことが、守ることだと信じた。


わたしの部屋のドアの前で足音が止まる夜、息を殺して、妹の寝息だけを数えた。


妹が眠っているあいだだけが、安全だった。





高校を卒業した年、わたしは家を出た。



逃げるように。置き去りにするように。



「妹はわたしが守る」って、あんなに簡単に言っていたのに。


最後の日、小学生の妹は玄関まで走ってきて、わたしの制服の袖を掴んだ。


「お姉ちゃん、いつ帰ってくる?」


わたしは笑って、「すぐ」と嘘をついた。


嘘をついたのに、妹は安心した顔をした。


あの顔が、いまでも胸の奥に刺さっている。



わたしは分かっていた。



わたしがいなくなった家で、誰が次に的になるか。



それでも出た。母と同じだった。


怖くて、現実を見るのが怖くて、妹を"生け贄"にした。


わたしも母も、同じ罪を抱えていた。


違うのは、母はそれを“家族のため”と言い換えられたこと。


わたしは言い換えられなかった。


言い換えられないまま、ただ遠くで、妹が無事であることだけを祈った。



わたしは22歳になって初めて帰省した。母の声を聞くと胸がざわつくのに、妹の声を聞けないのはもっと苦しかった。


 ある日、たまたま用事で家に寄った。


 玄関の鍵は、かかっていなかった。


 嫌な予感がして、わたしは靴を脱ぐのも雑になった。廊下の先、寝室の扉が半分だけ開いている。中から、息を飲むような気配が漏れてくる。


「……ゆい?」


妹の名前を呼びかけた声が、妙に薄く響いた。


わたしは扉を押し開けた。


その瞬間、世界が静かになった。音が遠のいた。頭の中が白くなった。目の前にあるものを“理解”するより先に、身体が冷えた。


男がいた。母の再婚相手。乱れた呼吸、荒い動き。上裸でズボンはずれていた。


妹は口を開き舌を垂らして、ベッドの上で虚空を見上げていた。


わたしの足が勝手に前へ出た。


「……何してんの」


声が自分のものじゃないみたいに低かった。


男が振り向く。驚いた顔のあとすぐに言い訳を始めた。


「ち、ち、違うんだ!事故で!」


 その一言で、糸が切れた。


 妹が、わたしを見た。そんな気がした。


 ——お姉ちゃん。


妹の手には、あの白い紐が握られていた。先生にもらったと自慢してきた、普通の紐。握りしめすぎていたのであろう、指の形に食い込んで血が滲んでいる。



わたしはその紐を取った。



男は逃げようとした。



わたしは逃げる男の首に紐をかけ、両手で引いた。



男が暴れる。紐が引っ張られ、普通ならどこかで切れるはずの力がかかる。




なのに——切れない。




きしむ音はする。指に食い込んで痛い。けれど、紐は切れない。


ほどけない。男の抵抗だけが、だんだん小さくなる。



やがて動かなくなった。






(……おねえちゃん。)


聞こえるはずのないゆいの声が聞こえた


「ゆい?。いる。ここにいるよ」


ベッドの上のゆいにかけより、わたしは泣きながら妹を抱いた。


腕の中の重さが、現実だった。


わたしは震える指でスマホを取り、通報の画面を開いた。指先がうまく動かない。息が浅い。視界が揺れる。それでも、押した。



 約束は、守れなかった。



妹の手を握る。あの日、小指を絡めたときみたいに。ちゃんとあたたかい気がした。








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