六 トカゲ流(タンラ=ケルタ)
ガルは不意に、足元の地面から、何かに突きあげられたような衝撃を覚えた。水盆の水に幾重にも波紋が広がる。
確かだった大地が皿のようにひっくり返りそうな不安感が押し寄せた。
次の瞬間、地面そのものが揺れだした。
ガルは草の上にしりもちをついた。シーナがよろけて雑木にしがみついた。
ガルは腹ばいになって、土に根を張った草を握りしめる。シーナも木につかまったまま、動けない。
大地の鳴動は百数える以上、続いた。
ひときわ大きな突きあげを最後に、揺れがとまった。
「何だよ、今の地震……」
ガルがうめきながら立ちあがったとき、シーナが息を呑んだ。
赤みを帯びて輝いていた空が暗く翳った。
北の山の方から、空いっぱいに紫の染料をぶちまけたように、怪しい深い色に染まっていく。
二度三度、青い雷光が閃き、天が砕かれたような轟音が響いた。
なまぬるい風が上空から吹き降ろしてくる。嫌な、腐った魚の臭いだった。
シーナの碧い瞳が見開かれ、凍りついた。唇が色を失う。
「トカゲ流よ――下から来たわ! しかも、大きい!」
「トカゲ流?」
ガルは七年前を、上級作業所の大事故を思いだした。
筆頭調合師アラル、さらには四人もの上級調合師にも防げなかった災厄、それは上から来たトカゲ流が引き起こしたのだ。
トカゲ流は、トカゲに似た泥色の生き物の群れが、大蛇のような濁流を成す現象だ。
空の異変が起きたら、上から。地の異変なら、下から。
無数のぬるぬるとしたトカゲの群れは、地より噴き出でて天に吸いこまれるか、天より降り注いで地になだれこむか、いずれにせよ跡も残さない。
だが、建物などは、トカゲ流の太さときっかり同じの穴を穿ち、その部分だけすべてを持っていく。規模が大きければ丸ごと呑みまれる。
人が巻きこまれれば、一緒に天の彼方か地の底へと流される。二度と戻ってはこられない。
七年前の大事故は、上からのトカゲ流が原因だった。
慎重を期する調合作業の真っ最中に、トカゲの濁流が屋根を打ち抜き、作業台を壊し、手順と配合をかき乱してしまったのだ。
災厄はそれだけではない。トカゲ流が起こると、必ず異形の怪物が現れる。
上からのトカゲ流が来る前は、肉を食べない怪物が。
下からのトカゲ流が来た後は、肉食の凶暴な怪物が。
かつて上級作業所を襲ったトカゲ流は、非常に小さかった。前兆の怪物は、無害で小さな獣が数匹だけ。誰もすぐには気づかなかった。
今起こったトカゲ流の規模は、七年前の比ではない。それどころか並外れている。大地の鳴動と空の異変のほどから予想がつく。
青い雷光と轟音の間も、ほとんど離れていない。間違いなく、この里に近い場所で起こっている。
数多くの、あるいは大型の怪物たちが、新鮮な血肉を求めて〈白蛇族〉の里を襲いにやってくる。
◆ ◆
すぐに一族は動きだした。薬づくり、薬材の飼育栽培、あらゆる作業が切り上げられ、すべての人びとは里の中心に集まった。
怪物たちは、地上では長く生きられない。無害なものも、肉食のものも、せいぜい十日ほどで弱って死んでしまい、屍体は雪のように、だが水ではなく空気になって解けてしまう。それまでの籠城戦だった。
里の中央の広場は、さながら小さな砦のようだ。
集会所や教練所、薬倉などが集まり、石と土を固めた壁で囲まれている。
その外側には、人びとが暮らす家や各作業所、畑や飼育小屋が広がり、さらに大きく外防壁が囲んでいた。
防壁の上には、石の燈籠が一定間隔で設えてある。
魔よけの調合をした油や、薬をしみこませた薪を燃やし、薬草や粉を加え、怪物が近づけないようにできるものだ。
青灰色の上着の加工師たちが、薪と油の準備にとりかかった。
筵を敷き、薪を並べる。油を調合する大甕を運び出す。
炎に入れる薬草を切りきざみ、石臼を回して粉をつくる。
青緑色の上着の栽培師たちは、足りない薬草や実などを畑から迅速に取り入れてくる。
赤茶色の上着の飼育師たちも、魚の生き血を抜きとり、獣の乳を搾り、蝦蟇の油や蛇の毒を絞りだし、鳥の卵、蟲の幼虫やさなぎを集める。
まだ正式な見習いについていない子供は、すべて集会所に集められた。
乳飲み子のいる母親も、子守役に赤子をあずけ、何かしらの作業に加わっている。
その子守役も何人か駆り出され、見習いや応援の老人が穴を埋めていた。
赤子はまだいい。母親にくっついていたい幼子たちは、かわるがわる泣き騒いだ。もっと大きい子供でも、不安さは隠せなかった。
織師や革師たちが、力のある子供たちの手伝いを頼みにきた。革の上着や甲のほか、分厚く頑丈な上着や、古着の綿入れなど、身の守りになりそうなものが何でも集会所に運びこまれる。
艶やかな黒髪をまとめた年若い妻女が指示を出し、みずからも鋏と針をおそるべき速さでひらめかせ、上着や甲を次々と手直ししていく。
着用する者の体を測ったり、あてがって合わせたりする必要もない。一度触ったり目で見たりした記憶だけで正確にやってのけた。
「ふう、はあ、さすがにちょっと、疲れた」
タロがよろめきながら集会所に戻ってきた。むっちりとした頬が桃のように火照り、体中から汗が湧きだしている。
「ねえ、みんな。ちょっと、聞いて。よかったら、みんなの力を、貸してくれないかな?」
タロは息を整えながらニコニコと笑い、手招いた。
興味を抱いた幼子たちが、おずおずと集まってくると「ありがとう」と笑いかけ、頭を撫でた。
「君はこっち、君はこっち」と分けていく。
年かさの子には、気に入らないようすの者も少なくない。
だが、ゴウザが無言でタロのそばに立ち、銀色の目で軽く睨んだだけで、黙りこんだ。
タロは子供たちを特技に合わせて部隊に分け、年かさの子に隊長を頼み、手伝いの仕事を割り振った。
汗だくで戻ってきたのは、肥った体に可能な限りすばやく動いて、あちこちの作業を見て回り、必要だが細々とした仕事を集めてきたからだった。
ウェンのように足の速い子たちは伝令として、方々の現場に配置された。
シュリをはじめとする器用な子たちは、薬草を計って束にしたり、実を選別したり、殻を剥いたり、生き血を瓶に詰めたりの手作業を。
目端のきく子たちは、枝葉に紛れた蛹や幼虫を暗くなる前に見つけ出す。
力の強い子供たちは運搬役となり、あちこちで水や薬瓶や油瓶を運んだ。
集会所にも作業を運び込み、仕上がると運びだしていく。
幼子たちも、数人がかりで籠を持ち、仮にひっくり返しても拾えば済むものを懸命に運んだ。
「ガル、ゴウザ。ふたりは、北門ね」
その前に、ガルは補強した綿入れを、ゴウザは大人用の革の上着を着せられる。どちらもすでにシュリの母親が手直してあり、あつらえたように体にぴったりだった。
ふたりは途中で、準備ができた魔よけの油の甕、薪の束を背負えるだけ背負わされながら、北門へ向かった。
北門には、狩猟師のうち、とくに戦いに長けた者たちが集まっていた。
筆頭狩猟師・隻眼のオズノ、弓の名人アグ、〈盾族〉の里の舞闘会で、雷獣娘の異名をとったミアもいる。
戦いはそれほど得手ではないはずだが、追跡の達人ゲルフもいた。
「お前たちはミアに従え。狩猟師見習いのつもりで働いてもらう」
オズノが武器を渡した。本物の鏃がついた弓矢と、鉄の穂先がついた槍だ。
ガルも、この局面で文句をいう気はなく、むしろ大いに働くつもりだった。
「ガルは門の上で見張りをやってもらうよ。いざというときは伝令。あたしが戻れといったら、内防壁まで全力で走って、ここで何が起きたかを知らせる。いいね?」
ゴウザのほうは、槍を渡された格好のままぽかんと立っている。
「何で俺なんだ?」
「やりたくないなら、早く内防壁に戻って。別のとこ手伝ったげて」
「い、いや、俺は別に文句があるわけじゃなくって、何で俺なんか」
「体はでかいし、力は強いし、それちゃんと使える、充分でしょうが。戻らないんなら、そこの薪と油、防壁の上に運んでって」
「お、おう!」
強い魔よけや、戦いのための劇毒は、筆頭調合師の管轄だが、アラルは七年前の大事故で足を悪くしている。
保存条件や危険性に合わせ、里の内外に点在する薬倉をまわるのは難しい。
貴重かつ危険な薬を準備する役目は、シーナにまかせられた。
劇薬を扱える上級調合師のうち、もっとも足腰が確かで、若く敏捷なのはシーナだった。
アラルは、薬倉の鍵になる筆頭の証の首飾りを外し、シーナに渡した。
シーナはしきたりどおり左手首に巻きつける。
証を首にかけるのは、筆頭調合師その人だけしか許されない。何らかの理由で名代となったり、仕事を代行したりするときは、手首につけるのだ。
老いた上級調合師たちも、自分たちの首飾りを、より若く足元が確かで、知識も充分な中級調合師に預け、里の中の薬倉は彼らで開けられるようにした。
ほとんどの劇毒は少量しか必要とせず、軽い。十五歳の娘一人でも、薬かばんと背負いかごで持ち運べる。
唯一、北門の外にある薬倉の、魚と薬草を浸した油瓶が一抱えもあり、誰か運び役が必要だった。
北門の見張りについていたガルが名乗りをあげると、大人たちは誰も反対しなかった。
防備のためにすることはいくらでもあり、たった一本の瓶の運搬に人手は割き難い。
数十年単位で熟成され、非常に貴重ではあるものの、臭いだけで特に危険はない薬油を扱わせるのに、ガルはうってつけだった。
「お願いね」
倉の扉を宝珠で封じながら、振り向きもせずにシーナは言った。
ガルは去りがたい思いをこらえ、北門に向かって走り出した。
シーナは谷川の上流にある、もっと危険な劇薬をおさめた薬倉に向かう。
筆頭調合師か、それに匹敵する知識と技を持つ者だけが扱える薬、わずかでも何か誤ったら最後、一瞬で倉ごとふっ飛ばしかねない薬を、戦いにも使えるそれらを取りに行くのだ。
最後にガルが振り返ると、シーナのほっそりした後ろ姿が、夕暮れの闇に溶けていくところだった。