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五 支唯名(シーナ)

 シミズゴケの栽培場所は、きりたった崖を少しばかりのぼった岩棚にある。

 ガルは鉄のはしごをあがっていった。

 岩棚の上は草も生え、木々も茂って、新しい緑の葉が、初夏の夕風に揺れている。

 岩の割れ目から湧き出す透明な水が、岩をくりぬいた水盆に流れこむ傍らに、ガルの背丈よりも小さな高床式の(くら)があった。収穫したコケの貯蔵庫だ。

 濃紺(のうこん)の上着の調合師(ちょうごうし)が、首から提げた上級調合師の(あかし)を使って、蔵の扉を開いていた。


 ガルの心臓が小さくはねた。風のざわめきよりも心が騒ぎ、息がつまりそうになる。

 調合師は、ほっそりとして背の高い若い娘だった。

 未婚の娘の仕事着である膝上丈の裙子(スカート)を穿き、軽やかに波打つ長い髪は、作業の邪魔にならないようにゆるく束ねている。


「ガル……?」

 水晶の鈴のように澄みきった声音は、他の誰よりも特別だった。


「俺! オズノに言われて来たんだぜ!」

 シーナが何を言うよりも早く、ガルは叫んだ。顔が真っ赤になったのが自分でも分かる。

「シミズゴケ採るの手伝ってこいって! 本当だぜ、ウソじゃねえよ、今日は!」

 まくしたてて息を切らしたガルを、シーナは優しく見つめ、困ったように微笑んだ。

「またゴウザとケンカしたの?」

「……ごめんなさい」


 シーナはガルを明るいところに立たせ、傷の具合をのぞきこんだ。肩にかけた薬かばんから、陶製の薬入れを取り出す。白くほっそりとした指先で、透明な傷薬をすくいとる。


 熱湯から冷水まで、その他さまざまな薬液や油に素手で触れることの多い調合師だが、シーナの手指は荒れていない。

 毎日仕事が終わると時間をかけて手入れをしている。いくら綺麗な手になりたくても、あれと同じことはできないと、里の娘たちは呆れ顔だ。


 硬くなった指では、微妙な薬材の感触の違いが分からないし、繊細な薬材を痛めてしまう。まして皮がむけたり肉が割れたりしていては仕事にならない――それが理由だった。


 注意深く塗りつけた薬は、シーナの愛情であり、罰だった。傷にはよく効くけれど、しばらくは擦ったばかりと同じくらいヒリヒリと鮮明に痛む。

 だが、シーナの吐息とぬくもりを間近に感じる。指先が頬にやさしく触れる。痛いのと同じくらい、いやそれ以上に嬉しくて、でも照れくさくてたまらない。


「じゃあ、手伝ってくれる?」

 シーナがにっこり微笑んで、つらすぎる仕事へとガルをいざなう。だが、とても罰とは思えなかった。


 山へ向かう烏たちの鳴き声がひびく。風がしだいにひんやりとしてくる。

 日が傾くにつれ、湧き水はますます冷たくなり、凍っていないのが不思議なくらいだった。


 シミズゴケは、水を吸った紙のようにもろく破れやすい。素手、それも両手を使って慎重にあつかうが、ひとつ採る間に手指は骨まで冷え、痛いほどしびれてしまう。


 それでもシーナと二人きりだ。ほかには誰もいない。今日の仕事が終わるまで、ずっといっしょにいられる。


 同じ家で暮らしているのに、シーナとゆっくり過ごせる時間は少ない。家に帰っても、シーナは何かしら調合師の仕事をしている。あるいは筆頭調合師アラルの直々の指導を受け、自分でも書物を紐解き、薬材を合わせ、調べ、夜遅くまで学んでいる。


 祖父とシーナの話に、ガルはまったく入れない。母親につきまとう幼子のような真似は格好が悪いから、物分りよさげに大人しく離れ、自分のことをしているが、本当はなんと思われようとそばにいたかった。


 七年前の大事故で、ガルもシーナも両親を失った。祖父アラルの傷が癒えるまでの間、幼いガルのそばにいてくれたのはシーナだった。

 悲しかったのは、むしろシーナの方だったはずだ。ガルと違って、何が起こったのかをよく理解していたのだから。


 傷が癒えると、アラルはシーナを引き取った。祖父はただ、一人ぼっちで、親戚ともなじめないシーナを家族に迎えたつもりだったが、シーナは違った。筆頭(ひっとう)調合師に弟子入りしたつもりで、調合師の仕事や知識、心得にいたるまで貪欲に学ぼうとした。


 その熱意と、何よりも際立った聡明さはあきらかであったから、シュリと同様、シーナも早くから調合師見習い同然の扱いとなった。十二歳で正式な調合師になり、その翌年には中級に昇格した。


 シーナは、与えられた仕事や習練だけでなく、自由になる時間のほとんどを調合師の修行に費やした。友達といったら、変わり者どうしでミアだけだ。

 それでも、ガルのためなら、シーナは惜しげもなく時間を割いてくれた。ガルの方が遠慮してしまうほどに。


 今年の春、中級どまりでなかなか昇格できない、あるいはしない、するつもりのない若手調合師たちを尻目に、シーナは上級昇試(じょうきゅうしょうし)を受け、十五歳にして上級調合師の証を得た。アラルに次ぐ快挙である。シーナはこの里に十人といない上級調合師、並みの大人をはるかにしのぐ責任を担う存在となった。


 ガルはこっそりと、コケを注意深く採っているシーナを見つめた。

 ほっそりとして背が高いシーナは、表情がとても大人びていて、もう十七、八にも見えることもある。


 声が澄んで美しいのは、曾祖母が〈天空族(てんくうぞく)〉と交換した娘だからかもしれない。白銀の髪も青みがかって、瞳の碧さは宝玉のようだ。

鉄族(くろがねぞく)〉の卓越した職人の手がつくりだしたかのように、瑕ひとつなく整った目鼻立ち。調合師の役目に没頭すると、その美しさはいっそう冷たく冴え、そら恐ろしいほどになる。


 ――我と誓約を交わすか否か、小さな娘よ?


 深く響く声が、また耳の奥によみがえった。

〝夢〟のなかで、八歳のシーナは、あの恐ろしい男に手を伸ばした。

 ガルは、シーナがいなくなってしまうような気がして恐ろしくなる。

 夢中でしがみつく。泣く。叫ぶ。


『いやだ、シーナ! どこにもいっちゃやだ! いかないで!』


 シーナは手を止める。ふりむく。ガルを抱きしめる。息が止まりそうなほど、強く。震える唇が何かを言おうとするが、結局は何も言葉は出ない。かわりに泣き声があふれだす。


『奇跡は捨てるか、小さな娘よ。それもまたよい。ただ、後悔はするな』


 堕竜(シャルマ)は、現れたときと同じように、水に沈むように黒い地面へと消えていく――。


 あれは、夢ではなかったのではないか。


 シーナは、ガルはもちろん、師であるアラルにも、親友のミアにも、又従兄弟のセインにも、決して本当には頼らず、何も預けようとしない。やわらかく優しく笑うけれど、鋼の糸のようにはりつめている。


 里の若者たちは、シーナの美しさと、それ以上の賢さに気後れし、まともに話しかけることもできない。だが、大勢の若者がシーナに心惹かれているのを知っている。まだシーナの膝上丈の裙子(スカート)に、誰かが贈った飾り布が重なる気配はない。セインだって去年断られた。


 それでもガルはあせり、自分も織師(おりし)に頼みにいったが、五年早いとこっぴどく叱られた。

 以来、ガルの想いは〈白蛇族〉の全員が知るところとなったが、その程度でひるむつもりはない。

 飾り布の代わりに、方々の作業所から石や木や金属のかけらを集め、磨いたり色をつけたりして小さな飾りをこしらえ、ことあるごとにシーナに贈った。


〈白蛇族〉の女たち、とくに未婚の娘たちは、上着にさまざまな小さな飾りをたくさん縫いつけて模様のように並べ、派手に飾りたてるのが常だった。

 調合師としての役目や、さらなる知識の習得に忙しいシーナは、自分では何もつけていない。友人どうし気軽に贈りあうものだが、若者たちはそれさえも渡せずにいる。

 シーナの濃紺の上着を飾っているのは、ガルが贈ったものだけだ。ささやかな優越感と喜び、今はそれだけで満足するしかない。


盾族(たてぞく)〉の養子の話が頭をかすめる。よもや祖母ザキに匹敵する男などこの世にいるはずがないが〈盾族〉だ。背が高く、強く、頼もしく、何よりも信頼に値する男ばかりだろう。


 そんな男なら、そんな頼りになる相手になら、さしものシーナも心を開いて預けてしまうかもしれない。飾り布を裙子(スカート)に重ねる日が来るのかもしれない。


(調合師になれたらいいのに。そしたら、シーナといっしょに働ける)


 せいぜい中級どまり、という嘘のないセインの評価を思い出す。はっきり聞いたのは初めてだったが、自分でも察していたことだ。

 筆頭調合師アラル、さらには上級調合師シーナといっしょに暮らしているのだ、才能のあるなしぐらい分かる。彼らの話にまったくついていけないのだ、大した見込みがないのは明らかだった。


 ミアやゲルフの言うとおり、狩猟師(しゅりょうし)見習いになるのが運命なのだろう。だが、そうなると、山で狩りをするか、里の南北の門を守るか、外防壁(そとぼうへき)を見廻るか、あとは武術や狩りの習練についやされ、今以上にシーナと顔を合わせる機会はなくなってしまう。


(せめて加工師(かこうし)……嫌がられるの間違いないけど)


 ガルは不器用ではないのだが、座って黙ってじっとして、同じ作業をくりかえすには向いていない。加工機械を操るなどの力仕事中心ならば務まらなくもないだろうが、それくらいなら狩猟師になれと、加工師たちは呆れ顔だ。

 大人以上に器用で忍耐強いシュリは当然のこと、乱暴者のゴウザの方がまだましだといわれている。


 理不尽な喩えではあった。実はゴウザは、素行は荒くとも、怠けることだけはしない。何か仕事を与えられれば黙々とこなす。そばにシュリがいないときだけに限るが。


「あなたとタロと、それにシュリだけね。ゴウザを少しも恐がらないのは」

 冷えきった指を動かして休める間に、シーナが言った。

「……シュリ?」

「だってあの子は、人間が苦手なだけよ。別にゴウザに怯えてるわけじゃないでしょう?」

「あ、なるほど」


「ガルはどうして、ゴウザが恐くないの?」

「あんなやつ、体がでかくて、力が強いだけじゃねえか。昔のミアの方がよっぽど恐えや」

「そうね、ゴウザはミアみたいに凶暴じゃないわね。むしろ優しいのかもしれない」


「あいつ、シュリのこといじめてるじゃねえか!」

「人が見てるときだけ、なのよ」

「え?」

「シュリが一人でいるときは何にもしないの。ミアが見たのよ、一度や二度じゃないわ」

「そんなの、ミアが見てたからだろ」


「こっそり見たのよ、ミアが見つかるはずないでしょ。一度なんか、シュリが、半分泣きながら血潮瓜(ちしおうり)をひとりで運ぼうとしてたの」

「ちょ、誰だよ、シュリにそんなもん運ばせた馬鹿は! 無理に決まってんだろ!」

「加工師見習い。……シュリに嫉妬してる子はゴウザだけじゃないのよ。加工師も注意して見てるみたいだけど。で、ミアが助けに行く前に、そこにゴウザが通りがかって、怖い顔して取りあげて、要するにかわりに運んであげてたんですって」


「……俺、ぶん殴る相手間違ったかな……いや、やっぱ今日のあいつは許せねえ!」

「アラル筆頭は、いっそゴウザを調合師に指名できないかと考えているわ」

「なんでゴウザ!」

 俺じゃなくって、という言葉は呑みこんだけれど、シーナは察したように苦笑した。


「他の調合師が賛成してくれないから、実現は難しいのよ」

「シーナは賛成なのか?」

「狩猟師の方がいいとは思うんだけど」

「じゃあ、あいつを狩猟師に指名すりゃいいんだ。で、俺を調合師に指名してくれよ」

「だめよ」

 シーナは笑って首をふる。


「なんで? 俺が祖母(ばあ)ちゃんの孫だから? 俺、祖父(じい)ちゃんの孫でもあるんだぜ!」

「いつまでも私のそばにいたいだけでしょ? ガル、しょうがない赤ちゃんね」

 額をかるくはじかれて、ガルの頬がかっと熱くなった。シーナの手を、振り払う。


「赤ん坊じゃねえ、少なくとも、もう子供だ! 俺だって、八年後には十八になるんだぜ、そしたらもう、け、け、結婚だって」

「私はもう二十三よ」

「俺、別にかまわねえし!」


 シーナはガルの頭を撫でて笑った。

「そうじゃなくて、私が誰かと結ばれてるわ。今度くる〈盾族〉の男の人じゃないかしら。皆からそうして欲しいって言われているし……」

 ガルの心臓がはねあがる。体ごと湧き水に浸されたように、血の気が引いて冷たくなる。

「私もそれでいいと思うの」


 シーナはガルから目をそらし、シミズゴケの水盆に手を差し入れた。それ以上の会話はとぎれた。ガルは大人しく苦行に戻った。


 心はひどく乱れてはいたが、手作業が乱れるほどではない。断られたのはこれが初めてというわけではない。

〈盾族〉の男の話には現実味があり、手痛いものがあったが、それですら初めてではない。

 ガルが成人するころには結ばれている誰かが、もうふられたセインだった頃もある。ガルの希望はつながっている。

 そのはずだった。


 天竜暦(てんりゅうれき)一一五六年、(ろく)(つき)の十二日。

 この日、〈白蛇族〉の谷に異変が起こる。

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