二 ガルの運命
濃紺の上着の調合師や、青灰色の上着の加工師が働くなかを、ガルは走りぬけた。
中級作業所は、さほど大きな酸や爆発などの危険はないものの、それなりに貴重かつ複雑な薬をつくる場所である。かつての上級作業所と似たつくりで、規模はもっと大きい。扱う薬材や、つくる薬の量がずっと多いからだ。
作業所の裏手にあるかまどでは、いくつもの大釜のなかで、ひとつひとつ異なる中身が、それぞれに適った熱さで煮込まれている。
濃紺の上着に中級の証の首飾りをつけた調合師の若者が一人だけ、ならんだ釜を見てまわり、火加減を調整している。
さらさらとした緑の湯が勢いよく煮えたぎっているもの。
草の束がいくつも浮き沈みしているもの。
真っ赤な粘液がゆっくりと泡を浮かべて震えているもの。
赤色アブラ熊やハガネ狼の半分とろけて骨が見える首が入っているもの。
黒星飛蝗と獅子蟲がともに釜茹での刑にされて跳ね回っているもの、さまざまだ。
「へへ、全部ちゃんと採ってきたぜ……」
ガルは預かっていたかばんを肩から外し、声をかけようとして、足をとめた。とっさに薬材をつめた麻袋のかげに隠れる。
大釜の世話をする清音のそばに、黒い上着の狩猟師がいた。暗く生気のない横顔、細い刃物のような体つきは見まがいようもない。
「いいか。いくら本人が望んでいるからといって、哀れんで指名したりはしないように」
上級狩猟師、追跡の達人ゲルフは、見かけによらず声はよく通る。
「あの子は十歳ですよ。見習いにつくには少し早いのでは?」
セインが、釜に材料を足しながら、おずおずと答える。
「普通はな。だが、あの子は充分だ。今年の見習い指名で、俺以外の上級が全員指名する。素敵な師匠がよりどりみどりだ。いいか、いくら本人が望んでいるからといって、哀れんで指名したりはしないように。お前がすると、話がこじれる」
「では、あの子が望む道を潰すんですか」
「潰すほうが身のためだ。そもそも動機が不純だろう」
「それは確かにそうですが、あの子が本心から望んでいるんですよ」
「そうやって哀れむなといっている。里のためを考えれば絶対にできないことだ。お前も、お前の仲間も、そろいもそろってそこがぬるい。あの子の勇気も、行動力も、狩猟師であってこそ生きる才だ」
「勇敢で行動力がある調合師というのも、例がないわけではないでしょう」
「ああ。だから冴良流は死んだ。最後まであの炎のなかに踏みとどまって最善を尽くした。なるほど、お前たちにはできないことだ、まだ中級だからな。いずれあの子に父親と同じことをやって欲しいというわけか」
「あの子は上級調合師にはなれませんよ。せいぜい中級です」
きっぱりとした口調に、ガルは物かげで肩を落とした。
「ではいったい誰が次の上級になるんだ。ほとんどがもう爺さん婆さんになっちまったというのに、お前たちはいつまで中級にしがみついている」
(それはいま関係ねえじゃん!)
ガルはセインのために歯ぎしりした。だが、若手の中級調合師のうち、セインをはじめとする何人かは、とうの昔に上級調合師になっていておかしくないのだった。
彼らのなかで、ここ七年の間、上級昇試に挑戦した者はひとりもいない。
『できるかどうか、自信がないんだよ。僕だけじゃない、みんなもそうさ。もし何かあったとき、あのときの四人の上級調合師と同じことができると思えないんだ。勇気もそうだけど、何より知識も、技術もだ。でも……』
セインがそんな風に言っていたことがある。
ガルの亡き父ザラルは、十歳で狩猟師と調合師両方の指名を受け、本人の自由で選ぶことを許された。ザラルは調合師の道を選びとった。早くから上級調合師となり、大事故のときにも上級作業所に居合わせた。
〈白蛇族〉の叡智である筆頭調合師アラルの命を守り、他の三人の上級調合師とともに炎のなかで最後まで最善の調合をつくし、最悪の事態を食いとめ、命を落とした。
セインたち若手中級調合師が、かつての上級作業所からいろいろ採集して独自に研究しているのも、四人の上級調合師たちが即興で成した神業を、毒害や爆発をたくみに防いだ中和や阻害、相殺や防御の調合技を解き明かすためだった。
「あなただってそうでしょう、ゲルフ」
セインの声が、珍しく尖った。
「もしザラルが狩猟師の道を選んでいたら、きっと何も迷わずザキ様とともに炎のなかに飛びこんで、より多くの命を救ったことでしょう。あのときのあなたにはできなかったことだ」
ゲルフが、傷を触られたように眉をひそめた。
「ああ、できなかった。だから、次の機会にはかならず飛びこむと決めている。だが、しょせん俺は追跡の一つ技のみで上級になった男だ、誰も助けられないうちに死ぬだろう。だからこそ、他にできる奴が必要だ。いてくれないと困る」
ゲルフは真顔だった。セインは薬材のざるを釜の上で傾けたまま、まじまじとその顔を見た。ざらり、と中身を空け、ざるを置き、大きな杓子でかきまわす。しだいにその肩が震え、笑い声がこぼれだした。
「何がおかしい?」
「いえ、あなたがあまりにも堂々と天に唾するもので」
「天に唾だと? 馬鹿を言え。俺とお前はまったく違う。俺は限りなく中級に近い上級だが、お前は逆だ」
「あなたはいったい、ガルの話をしにきたのですか、それとも僕の?」
セインはなおも笑いながら、赤刃水を量って釜に加え、間違いが起こらないように厳重に蓋をした。深くため息をもらす。
「むろんガルの話だ。だがお前が相手なら、お前の話もして何が悪い」
「……あなたに訊いた僕が愚かでした」
「お前は俺より賢いだろう」
「当たり前です、僕は調合師ですよ」
「だが、お前より賢い〈白蛇族〉は十人といないはずだ。後悔だけはするな」
ゲルフはふらりとセインに背を向けた。ガルが隠れている麻袋の山のほうへまっすぐに歩いてくる。いまさら別の場所にも逃げられない。しゃがみこんだガルの姿は、ゲルフから丸見えとなった。
「じたばたするな、生意気小僧。聞いただろう、お前の運命はもう決まった」
ゲルフは骨ばった手でガルの頭をわしづかみに撫でると、ふらふらと歩き去っていった。
「セイン、これ持ってきた。全部ちゃんと採ってきたぜ」
ガルはばつの悪い思いで、預かっていたかばんを差し出した。セインは優しく笑って受け取ったものの、ゲルフの後姿を見やってため息をついた。
「ごめん、セイン。俺、聞いちゃった……」
「いや、僕は別に構わないんだが、君が困るね。まったくあの人ときたら、ややこしい話を遠慮もせずに……君に気づいていたのなら、少しは気をつかってくれればいいのに」
釜のそばは、薬材が煮える音や、火が燃える音、薪がはぜる音が熱っぽく充満している。ここで作業中のセインには、声を張って呼びかけないと聞こえないくらいだ。いったいこの物音の中からどうやってガルの気配を察したのか想像もつかない。
「あ、これ本当に助かったよ、今日は僕たち誰も手が離せなかったからね」
セインは笑いながらも、かすかに目をそらす。ガルもまた、いつものように、手伝いの仕事をしつこくねだって、みずからの働きぶりを見せようとする気にはなれなかった。
「さっきの話、あ、セインじゃなくて、俺の。俺っていうか、俺の親父。もし、親父が狩猟師だったら、ばあちゃんとか死なずにすんだのかな?」
「そうだね、きっと、ザキ様に負けないくらいに強かっただろうし、二人で協力するんだから、あるいはもっと助けられたのかもしれない」
「……じゃ、俺も狩猟師になったほうがいい?」
「そうかもしれない。でも僕は、そういう調合師がいてもいいんじゃないかと思ってるよ。君の、少々けしからぬ困った動機とはまた別にね」
セインにさわやかに笑いかけられて、ガルは顔を赤くして目をそらした。
「ザラルはいつも調合師一筋だったけれど、両方をいっしょに学ぶというか、どっちつかずというんじゃなくて、両方をこう、併せ持つというか、そういう調合師がいれば、いろいろと幅が広がると思うんだ。それは君ならできるかもしれない」
「……ほんと?」
ガルが身をのりだすと、セインはうなずいた。
「例えばあの大事故のようなときも、そういう調合師なら、また違ったやり方で……」
不意にセインが口を閉じた。
「……違う。助けられない。三人じゃ足りない」
セインの表情は、真剣だった。
「もしザラルが狩猟師になっていたら、上級調合師が一人減る。あの大事故の毒害や爆発は、四人の上級調合師が持てる知識と技を尽くして対処した結果だ。一人減っただけでも、規模は大きく変わる。もっと強い毒、大きな爆発、火の回りもずっと早い。建物も崩れてしまう。二人がかりで飛びこんでも、何人助けられるかどうか……」
セインは目を閉じた。深く息をつき、ガルを見る。
「ごめん、ひどい話だな。どちらを選んでも同じだなんて」
「……そうかなあ?」ガルは首をかしげてセインを見あげた。「けっきょくどっちを選んでもよかったって、そういうことじゃねえか?」
「え?」
「つまりさ、これで狩猟師の方が絶対よかったわけじゃないだろ。どっちもちゃんと、じいちゃんとか助けられてる……どっちも親父とばあちゃんは死んじまうみたいだけどさ」
ガルは顔をあげ、にっと笑った。
「だから、俺まだまだ諦めねえよ。仕事! 他になんかあったら何でも言ってくれよ。俺、何でも手伝うぜ!」
「本当にもういいよ。今日はまた、手伝いに戻ってくれるかい」
セインの言葉には嘘がない。仕事がないといったら本当にないし、ガルには任せたくないならきっぱりとそう言ってくれる。
「ちぇ、みんなと一緒のお手伝い当番かよ」
だからガルも、わざと唇を尖らせ、うんざりとしてみせながらも、傾いてきた日差しのなか、子供たちの作業場である、屋根だけの小屋へと駆けていった。
俺は絶対に、運命には負けない。