序 堕竜
牙流は三歳だった。支唯名は八歳だった。
ふたりは姉弟のように手をとりあって、燃えさかる炎を見つめていた。
燃える上級作業所は、さまざまな煙と炎を全身から吹きだす瀕死の怪物、その戸口は、ぽっかりと暗い口だった。
ぎし、ばきり、と軋みをあげ、爆音を放ち、作業所のどこかが崩れるたびに、唯一の出口もまた、右に左に歯軋りのように歪み、今にも閉じそうにたわんでいく。
冬の夜空は赤く輝き、無数の火の粉があたりを飛びかう。
火消しと救助に走る〈白蛇族〉の銀の髪が、叩きつける熱風と、煽りたてる寒風になぶられ、ひるがえる。
水桶を抱えた男に突き飛ばされそうになって、シーナは危うくガルを引き寄せた。
人びとは叫び、駆けまわり、二人の幼子に気づくどころではない。作業所に水を浴びせ、まだ中に残っている調合師たちを救けだそうと懸命になっている。
すでに筆頭調合師の老新流がいち早く助け出され、戸板の上で死んだように横たわっている。
薬で灼かれた無残な火傷、体中から血を流し、とくに左脚は、太腿から足先まで陶片や木片が一面に突き刺さってずたずただった。
「……冴己筆頭!」
血まみれの布で片目をおさえていた狩猟師が叫んだ。
またひとり怪我人を担いで、燃える作業所から屈強な老女が姿を現わしたのだ。
筆頭狩猟師ザキは、鼻梁やこめかみをつたう血を汗のように拭い、手近の若者から桶をもぎとって頭から水をかぶった。濡れた外套をしっかりと体に巻きつけ、金色の目で炎を見据え、ふたたび作業所へと踏みこんでいく。
「ガル――ここで待ってなさい」
シーナはガルの手をつよく握り、そっと離した。青みがかった白銀の髪をなびかせ、怪我人のもとへと駆けていく。
「まって、シーナ、行っちゃやだ!」
ガルは夢中で追いかけた。追いついた。悲鳴をあげた。
怪我人は血と煤にまみれ、人間とも思えないようすで、手足をもがかせてうめいている。
ガルは叫びながらシーナにしがみついた。シーナは真っ青な顔で怪我人の姿を確かめると、泣きだしそうな顔で作業所を見た。
「父さん……母さん……!」
作業所がこれまでにない大きな音をあげた。
柱や梁が次々に折れ、壁がねじれ、歪み、そのたびに火の粉を撒き散らす。
「……だめだ! 限界だ!」
誰もが作業所に背を向けて駆けだした。
泣きさけぶ怪我人を容赦なく抱えあげ、包帯だらけの狩猟師が走る。
立ちすくむガルとシーナを、若者が荷物のように拾いあげ、両脇に抱えて走る。燃える柱が次々と倒れこんで背後から迫ってくる。
人びとが息を切らしてふりかえると、作業所はついに力つきて崩れていくところだった。
「ザキ筆頭……戻れなかったか……ッ」
狩猟師のひとりが、地面を殴りつける。片目からは血が、もう一方の目から涙が流れる。
別のひとりは、獣めいた叫びをあげながら地に伏せる。徐々に慟哭に変わる。
むせび泣く声があちこちから漏れだす。
ガルは三歳だった。シーナにしがみついて泣きじゃくることしかできなかった。ただこの夜のすべてが恐ろしかった。
シーナは八歳だった。その場に崩れて座りこみ、両腕でガルを抱きしめる。
シーナは理解していた。自分の両親と、ガルの両親、彼らを救けようとしたザキもまた、炎に呑まれて命を落としたことを。
「ガル、泣かないで。怖くないから。怖くないからね……?」
シーナの涙はとめどなくあふれ、暗い地面へ吸いこまれていった。
否。
まるで水面に落ちたように波紋を描いた。
ふいに、まわりの音が消えうせる。黒々とした冷気がふたりを包みこんだ。
重傷を負った調合師たち、負傷し、憔悴した狩猟師たち。崩れてなお炎をあげる作業所、立ちのぼる薬の煙。すべては凍りついて動かなくなっていた。
動いているのは、ガルとシーナだけだった。
否、もうひとり。
『この涙が、お前たちの痛みが消えるとしたら、お前たちはどうする?』
その男は、巨大な影が覆いかぶさるようにふたりの幼子をのぞきこみ、握った両手を差し出してみせた。
長い黒髪がゆらゆらとなびき、毒の結晶のような青紫の瞳が輝く。
『今、このすべてを変えられるとしたら?』
ガルは三歳だった。ただシーナにしがみつき、見知らぬ男の姿を見あげていた。
シーナは八歳だった。ガルをかばって抱きしめて、震える声で叫びをかえす。
「あなたは、堕竜……堕竜ね!」
男の口元が、邪悪な三日月を描く。
『我と誓約を交わすか否か、小さな娘よ?』
凍りついた世界に男の声が響きわたった。