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短編小説 『唇』

作者: 美風慶伍

 お(かや)盲て(めしいて)いる。

 5歳のおり、父の仕事場の裏庭で遊んでいた時、気性の荒い馬と評判の黒馬がたまたま通りかかった。お茅が真後ろを横切った時に黒馬は後ろ足を跳ね上げた。


 硬い瀬戸物が割れるような甲高い不気味な音がして、お茅は頭に大怪我をする。西洋医の手術を受け何日間も生死の境をさ迷い、辛うじて一命はとりとめた。

 だが、その目は見えなくなっていた。医者いわく脳の中の目を司る部分が壊れたのだと言う。医者に治療を懇願したが無駄。奇跡にすがるよりほかないとけんもほろろ。こうしてお茅は5つにして光を失ったのだ。

 なお、黒馬は即日馬肉にされた。

  

 お茅の実家は古い商家で大商人でありいわゆる上流階級といえる身分だった。それ故にお茅一人を働かせずに養うのは造作もない。哀れなお茅をせめて彼女の勝手にさせていた。

 だが、親心から人目に触れることは避けた事が、巷の噂に無駄に火をつけ。いわく醜いから衆目にさらせないのだと。

  

 ある醜男が勝手を言う。

 

「あれはザクロだな」


 ある骨男も言う。

 

「髪の毛が白くなってて幽霊のようらしいぞ」


 また別な醜女が言った。

 

「頭の骨が歪んでて石みたいだってさ」


 皆が勝手なことを言い合う。そして粉吹き婆が言った。

 

「白くて石みたいか――それじゃ岩塩じゃな。触ったら粉でも吹くんじゃなかろうな?」


 こんな噂が飛び交う始末。いつしかお茅は『船問屋の岩塩女』などとよばれるようになっていたのである。


 だが事実は違う。


 確かに大きな傷こそこめかみに残していたが頭巾でもかぶれば目立たないし、白い髪は怪我の治療と薬の副作用によるもの。目こそ見えていなかったがそれ以外は普通、むしろその抜けるように白い素肌のために陶磁人形のように美しい美少女だった。


 いつもは父の館を訪れる来客の接待役をつとめていたが、教養もあり、礼儀正しく、物腰も優雅、来客の誰もがお茅をひと目見て、この子を傷つけてはならないと感じずには居れないほどに――

 だがお茅はすぐに来客たちに望まれて相手を請われるようになる。お茅に、ある不思議な特技があったためだ。

 彼女は唇であらゆる物を見分けるのである。まるで唇に目でもあるかのように。


 とある客が紅玉(ルビー)を4つ持参した。一つだけが偽物だという。


「3つ目が偽物、紅水晶の三級品でしょう?」


 数人の来客の前でお茅はあっさり見破った。

 また別な客が蜜柑(みかん)を三つ持参した。和歌山、愛媛、熊本――産地が別々だと言う。お茅はその蜜柑を唇で触れながら言う。

 

「意地悪。ひとつとふたつは和歌山、愛媛、みっつめは静岡でしょう?」


 お茅を騙そうとした男は、罰としてお茅に京織物の振り袖を買わさされたそうな。

 また別な男が英国文学の洋書を持参した。


「唇で読めますかな?」

「はい」


 お茅が事もなげに言う。表紙に唇で触れながら彼女は嬉しげに言った。

 

「これはシェークスピアのリア王でしょう?」


 男は大学教授だった。そして、お茅の人柄と教養に感心した彼はお茅の家庭教師を申し出たそうである。

 そして、お茅の噂は上流階級の中では語り草になっていた。誰もが彼女に逢いたがった。

 好奇心から、物見遊山から、多くは下世話な根性からお茅に近づいたが、その彼女の性根の純粋さと美しさに己の品性の愚かさを恥じたということである。

 だが何物にも例外はある。

 特別に性根の曲がった男がいた。

 お茅の実家の融資話に強引に手を加えると、自分の裁決がないと金が出せないようにしてしまった。銀行に口の聞く代議士だったと言う。

 そしてお茅に唇勝負をさせる代わりに資金融資を後押しすると言う。負ければどんな難題をふっかけられるか解ったものではない。だが家名と身代を守るためには受けねばならない。

 

「分かりました」


 お茅は恐れること無く引き受ける。

 そして運命の日、男は新聞記者を引き連れてお茅に唇勝負をしかける。

 

「鍵のかかった箱がある、中には黒猫か白犬か金色蛇か、それとも別な何かが入っている。中に入っている物を当てて見ろ」

「中身に触れずに箱の外からですか?」

「そうだ。出来ぬと言うなら融資話は無しだ。そうなればお前ら一家は路頭に迷う」

 

 それこそが狙いだった。一家の暮らしを救済すると言いながら良からぬ仕掛けを施してお茅を負けさせ、彼女を体のいい妾にするつもりなのだ。お茅の両親は男の剛腹に腸の煮えくり返る思いをしつつもどうにも出来なかったのである。

 

 お茅の前に出されたのは縦横1尺程の鉄枠付きの木箱で西洋鍵付き。とても重く手に持って中身を確かめることすらできそうにない。

 目の見えぬお茅は床の上を這って両手を探るにように動かしながら箱に歩み寄っていく。補助の人間がつくのを件の男が拒んだためだ。底なしの性悪である。

 そして箱にたどり着くと箱を唇で触れていく。以前の蜜柑や洋書や紅玉と異なり直接に触れるわけではないから、ゆっくりと慎重に丹念にお茅は唇で木箱を触れていく。場所を変え、角度を変え、なんども何度も――、それはまるで接吻のようで。

 時間だけが無碍に過ぎる。間違えばお茅自身はもとより両親すらも破滅なのだ。

 

「どうした? わからんのか?」


 男が下卑た冷やかしを入れる。集中力を乱すためだ。だがそんな冷やかしをお茅は無視した。

 一度、箱から唇を離し、呼吸を整えてから再び箱に口づける。そして、しばらくして――

 

「おえぇええっ!」


――お茅は突如嘔吐した。


 下女たちが介抱しようとするが例の代議士男はそれも拒んだ。そしてお茅に負けを認めるように迫ったのである。

 

「終わりだな。中身もわからず人前で吐きおった! 面白い飼い物として面倒をみてやるぞ!」


 まるで潰れたガマの様に笑いながら男は言う。だがそれにお茅は言い返す。


「箱を開けてください。どうせ盲た身ですから見えません。開けるのと同時に答えましょう」


 その求めに男は応じた。男の部下が箱の鍵を開けたときだ。

 

「中は〝死んだ黒猫〟です。あなたは中身が仏か骸かと言わせようとしたのでしょう。そして中身と答えが違うと難癖をつけるおつもりでした」


 開けられた箱の中身――、それははたして黒猫であった。だが男にそこまでの知恵はなかった。猫は密閉された箱の中で窒息していただけである。

 

「こ、こんな――馬鹿な?」


 仕掛けた男も想定外。だが新聞記者を連れていたのが運の尽き、人望の無さもあってお茅を騙そうとした事は尾ひれがついて一気に広まった。男はすぐに代議士の職を失う事となる。

 

「黒猫に罪はありません。懇ろに弔いたいと思います」


 箱の中で息絶えていた黒猫に手を合わせてお茅はそう告げた。


 だが、その猫の供養をするとすぐにお茅は唇の力を失ってしまう。

 そして、人目の全てをさけるようにお茅は剃髪し尼僧となった。

 彼女の消息は今では家人ですら知らぬそうである。

 

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