ヒグラシ
一
薄暗い研究室が、ほのかな茜色に染められていた。窓からは生暖かい風が流れこんでくる。
空調がないこの部屋は、少し居座るだけで汗が滲んでくる。それでも、冷えきった部屋にいるよりは良かった。
少しずつ藍色に染まっていく空を、ヒグラシの鳴き声を聞きながら見つめるのが何となく好きだった。それに気がついたのは、ここ最近のことだ。
最初は、ただ高いところで良かった。そこから落ちてしまえば、命を落としてしまうような、そんな場所を探していた。そうしてたどり着いたのがこの部屋だった。
でも、気づけばこの部屋に何日も通っていた。ヒグラシの鳴き声に包まれるこの部屋は、心地が良かった。ここで尽きるかもしれなかった僕の命は、未だに僕の手元にある。
こうして何も起きることなく、僕はこのまま生き永らえるのかもしれない。この時間が永遠に続くのならばそれでも良かった。
「またいた」
背後からの声は、いつものものだった。
「また死のうとしてるの?」
彼女はそう言って、笑った。まるで、駄々をこねる人の子を見るかのように。
「一言も言ってない。そんなこと」
何かが気に入らない僕は、彼女に目を向けずに言った。このやりとりも、何度目かもう思い出せない。
「人間のことは好きになれた?」
彼女は、明かりも点けずに腰を下ろした。まだ彼女の顔を見ていないが、きっと笑っている。
彼女は昔からそうだった。僕のことを見透かすように、言葉を紡いだ。
「もういいよ、それは」
僕は、そんな彼女と話すのが恥ずかしくて仕方がなかった。一度でも見せた綻びを、彼女はしつこく突いてくる。
「人間が好きじゃないって、ライトノベルの主人公みたいだね」
彼女の言葉に返す代わりに、大きなため息を着いた。
自分でも恥ずかしいと思う。「人間が嫌い」なんて言葉は、まともな人間はきっと言わない。でも、本心だった。
昔からそうだった。小学生のときすら友達は少なかったし、歳を重ねるごとに、その数は減っていた。大学生をあと一年で終える今、ほとんどゼロになったと言ってもいい。
人に嫌われるのが怖くて、本当に思ったことを口にできないで、無理して笑顔をつくるのが嫌だった。高校生まではできていたつもりだったが、限界だった。
一人でいれば、そんなことを気にしなくてもいい、だから、僕は人間が嫌いだ。
その話を、彼女にしたのが間違いだった。人間を嫌いと言うくせに、誰かに話を聞いてもらいたかった僕の、数多くある汚点の一つだ。
「レポート、終わった?」
「まだ終わってない」
「私は終わった」
そこで会話は途切れる。途切れ途切れの会話を、一時間くらい続けるのが何故か日課になっていた。
昔はもっとまともに話せていた。家が近いというだけで、幼いころはずっと一緒にいた彼女だったが、時が経つにつれて、僕とは真逆な人間であることが分かっていった。
彼女の周りにはいつも誰かがいる。それは今も変わらない。
彼女はきっと、人間が好きだ。そして、彼女のことを好きだと言う人も多い。本当に、僕とは真反対の人間だ。
「真田はさ、就活どうするの」
「・・・」
大学生でいる間は、人と関わらなくても何とか生活できる。でも、働かなければならなくなったとき、そうはいかなくなる。元々夢も目標もない僕は、そんな苦痛が待っているのなら、いっそ死んでしまえればいいと思っていた。
「三井は?」
「私の質問に答えなよ」
「嫌だ」
「だから友達いないんじゃないの」
「・・・」
彼女の言う通りだが、首を縦に振るのは気に食わない。いつもこうして、彼女の言葉に打ちひしがれている。
「あー、バイト行かなきゃ。バイバイ」
そう言って立ち上がり、彼女は部屋を出て行った。何故彼女はこの部屋に来るのか、僕には分からない。
窓の外は藍色に染まり、ヒグラシの鳴き声はいつの間にか止んでいた。
二
三井真美。僕の幼なじみで、幼稚園に通っていた頃から彼女のことを知っている。そんな彼女は、僕よりもずっと人間が好きで、人生を楽しんでいるように見えた。きっと生きる意味なんて考えたことがないだろうし、自ら命を絶とうとしたこともない。
僕が「人間が嫌い」と言ったときも、一瞬キョトンとした顔をして、その後腹を抱えて笑った。「ライトノベルの主人公じゃないんだから」とあのとき言った言葉は、今でもよく言われる。
ただ、僕が死にたくてあの部屋に通っていることに気づいた彼女は、笑わなかった。
「死にたい」と彼女に言ったことはない。でも、何度かあの研究室で会う中で、彼女は僕の心を見透かした。
「どうして死にたいの?人間が嫌いだから?」
そう聞いてきた彼女の顔はいつになく真剣だった。でも、そのときの僕は、また彼女に馬鹿にされると思って、本当のことを言わなかった。
夢も目標も生きている意味すらも見い出せてない僕が、これから嫌いな人たちと関わってまで生きる意味があるのか。そんな苦痛が待っているのなら、いっそ死んでしまえた方がましだと思った。
でも、結局僕は今も生きている。理由は単純で、死ぬのが怖いから。研究室から窓の下を覗いたとき、どうしようもなく怖くなった。額には汗がにじんで足が震えた。それから僕は、あの部屋の窓の下を見ていない。
結局どっちつかずでこれからも生きていくのだろうか。そんな疑問に毎日悩まされていた。
そんなとき、彼女のことを思い浮かべる。彼女みたいに人間を好きになれたら、もっと生きやすくなるのだろうか、生きている意味も見つかるのだろうか。いつも周りに誰かがいる彼女の人生は、僕からしたら最悪だが、きっと、彼女にとっては充実したものなのだろう。
ずっとそう思っていた。そう思っていたからこそ、あの研究室から彼女が飛び降りた話を母親から聴いたとき、僕は一言も発することができなかった。
三
「あ、ほんとに来た」
窓際のベッドに寝ていた彼女は、僕を見て笑った。病院の白いシーツに覆われた足は、しばらくは歩けないほど複雑に骨折していると母親から聞いた。
「きてよ」と書かれた下に、病院の名前と部屋の番号と時刻が記されただけのメールが二日前に届いた。「大丈夫なのか?」とメールを送り返したが、返信はなかった。
「なんでだよ」
僕は他に紡ぐべき言葉が分からず、そう尋ねた。
「いきなり?やっぱ真田って人の気持ち考えられなそうだよね」
彼女は腹を抱えながら笑った。「いてて」と呟いた後、あのときの真剣な表情を僕に向けた。
「なんでだと思う?」
いきなり聞かれた僕は、頭の中で必死に答えを探したが、見つけることはできなかった。茜色に染まる空に、今日もヒグラシの鳴き声が響いていた。
「真田、クイズだよ。すぐじゃなくていいから答えて」
沈黙を破った彼女の言葉に、僕はさらに悩まされた。
「なんだそれ、クイズってどういう・・・」
「いいから」
僕の苦し紛れの返答に、彼女は表情を変えずに言った。
人が死のうとするのは、きっと何かに絶望したときで、この世から消えたくなったとき。でも、彼女には無縁な話だとずっと思っていた。彼女が何に絶望して、どうしてこの世から消えたくなったのか検討もつかなかった。
「・・・分からない」
どうしても思いつかなかくて、そう言った僕を見て、彼女は大袈裟にため息をついた。
「だめだなぁ真田は。私はあんたが死のうとしてたのを見抜いたのに」
「一応幼なじみでしょ?」と彼女は言って、窓の外を見つめる。
「ヒグラシの鳴き声ってさ、聞くだけで悲しくなるよね。ほんとに・・・」
僕も無言で夕日が沈みかけた空を見つめる。確かにそうだ。僕もそう思う。だからこそ、あの研究室が好きだった。僕がそこから飛び降りて命を落としても、きっとヒグラシの鳴き声がその場を包み込んでくれる。まるで、人が死んだのを悲しんでいるかのように。
「じゃあさ、一週間あげる。その間に考えてきて。一週間後にまたここに来て、答えを聞かせて」
彼女は力ない微笑みを浮かべて言った。
「間違えてたら、私はここから飛び降りるから」
そう言った彼女の表情は、やっぱりあのときの表情と同じだった。
四
彼女の病室に行ってから二日が経った。「本当にこんなことやるのか?」とメールを送ったが、返ってくる気配がない。
本当に、彼女がなぜ死のうと思ったのか、検討もつかない。少なくとも僕には、彼女は人生を楽しんでいるように見えていた。
彼女は一体この世の何に絶望したのか。それが分からなければ、彼女は死ぬ。僕の答えに彼女の命がかかっている。
「命を賭けたクイズって最近の漫画みたいだね。好きでしょ?そういうの」
そう言って彼女は笑っていた。なぜ笑っていられるのか、死ぬのは怖くないのか。死に怖気づいた僕は心の中で呟いた。
とにかく僕が答えに辿りつかなければ彼女は死ぬ。それだけは避けたかった。理由なんてない。何となくそう思った。
普段、大学の同級生と話さない僕は、彼女といつも一緒にいた何人かに話を聞くことにした。
顔すらも覚えられていない僕が彼女の話をし始めたとき、いつも一緒にいた人たちは皆訝しんだ。
「三井って、最近何かあったんですか」
「分からないです。いつも通りだったし。前の日だって普通にバイトに行ってたし・・・」
その後もぽつぽつと質問をしたが、「何もおかしい所はなかった」という情報しか得られなかった。
「何かあったのか」この問いを全員にした。でも、答えにたどり着けそうな情報には巡り会えなかった。
「分からない・・・」と言いながらうつむく人もいれば、目に涙を浮かべて首を振る人もいた。
そもそも、彼女と連絡をとっている人は一人もおらず、彼女が今どこにいて、どういった状態なのかも知らなかった。僕よりも情報が少ない人たちに聞いても分からないだろうと思い、途中でやめた。
家に着くまで、ずっと考えていたが、それでもさっぱりだった。周りにいた人たちの話を聞く限り、誰かと仲が悪かった様でもないし、何かに悩んでいたという話も一切出てこなかった。
そもそも、頭の出来がよくて、人望もある人間が死のうとする理由など、ないのではないか。でも、事実、彼女は自ら命を絶とうとした。
なぜ彼女は命を絶とうとしたのだろうか。彼女の両親に聞くことはさすがにできないし、僕の人脈ではもう限界だ。残るは自分の母親くらいだが、何も得られないことは分かりきっている。それでも、聞くしかなかった。
「ただいま」
キッチンから「おかえり」と返した母の声にはいつもの元気がない。
いつもはそのまま自分の部屋へ行くが、階段を上らず、母がいるキッチンへと向かう。
いつもはすぐに部屋へ行く僕がキッチンへ来たのを見て、母は少し驚いた顔をした。時間がかかればかかるほど言い出しづらくなると思い、すぐに話を切り出した。
「真美のことなんだけどさ」
そう母親に言うと、表情が陰った。それを見て見ぬふりをして言葉を紡ぐ。
「なんで、あんなことしたんだろ」
あたかも何となく気になっているかのようにして、そう言った。
「真美ちゃんのお母さんに聞いたんだけど、なんで飛び降りたかは一切言わないんだって・・・」
母親は声を震わせながら言った。
僕の幼なじみということは、もちろん母親とも関わりがあり、昔から見てきた息子の幼なじみがこんなことになっていることに、ショックを受けていた。
「あんた、時間があったらお見舞い行ってあげて。そしたら真美ちゃんも・・・」
そこまで言って、母親はうつむいた。「分かった」とだけ返し、自分の部屋へと戻る。
僕が行ったところで彼女の状態は良くならない。それどころか、今度僕が彼女に会うとき、彼女は死ぬかもしれないのだ。
そもそも、彼女の母親すらも知らない事実に、僕は辿り着くことができるのだろうか。彼女といつも一緒にいた人たちからも、答えに繋がりそうな情報は何一つ得られなかった。もう、どこから答えを見つければ良いか分からなかった。
彼女が言ったように、漫画だったら、誰かが言った何気ない一言から答えを見つけ出し、それを彼女に伝えてハッピーエンドを迎える。
でも、僕が生きている現実はどうしようもなく残酷で、最悪の結末を迎えようとしている彼女に手を差し伸べようとはしなかった。
五
結局、答えを見つけられないまま、その日が来た。彼女は一週間前と変わらず、窓際のベッドで窓の外を見ていた。
「お、私の命を背負った勇者が来た」
彼女はおどけて、僕に言う。いつの間にか僕は勇者になっていた。
「どう?人の命を背負ってみた気持ちは」
「最悪だったよ」
そう答えた僕に彼女は「ふふ」と、なぜか嬉しそうに笑った。
「さあ、答えを聞かせたまえ」
彼女は、まるで漫画に出てくる裏で全てを操る悪役みたいに声を低くして、言った。
僕は結局答えを見つけられていない。彼女は何に絶望して、どうしてこの世から消えてしまいたくなったのかは、最後まで分からなかった。
でも、答えなければきっとそれは不正解と同じで、彼女はここから飛び降りる。あの研究室よりも高いところにあるこの部屋から身を投げれば、今度こそ彼女は死ぬ。
結局答えを見つけてこられなかった僕は、ずっと手元にあったもので、勝負をすることにした。
茜色に染められた病室に、ヒグラシの鳴き声だけが響く。
「お前も、人間が嫌いなんだ」
苦虫を噛み潰したような顔で、僕は言葉を続ける。
「人間が嫌いで、嫌いな物に囲まれて生きていくのが嫌になった」
僕が今話しているのは、紛れもない、僕自身のことだ。でも、もうこれしか言うことがない。 彼女のことはきっと彼女にしか分からないし、このクイズは最初から誰にも答えられないようになっていたのだ。だから、この答えは、不正解だ。
でも、彼女は、その答えを聞いて
「うん、そう」
と言って、笑った。笑ったとと言っても、目尻が下がって口角は上がってこそいるが、とても喜んでいるようには見えなかった。
「誰も私のこと知らないんだよ。そのくせ、あいつらは私に理想を押し付けてくる」
「あいつら」に誰が含まれているかは分からない。もしかしたら、僕も含まれているのかもしれない。
「三井真美は頭が良くて、運動ができて、服が好きで、愛想が良くて、甘いものが好きで、メールはすぐ返信して、ノリが良くて、優しくて、かっこいい人が好きで・・・」
彼女の声はどんどん小さくなっていく。
「周りの人間が作り上げた私に何の意味があるの?そこに私の意思なんて何一つないのに。私じゃなくてもいいじゃんそんなの。人形でもできるじゃん」
彼女は息継ぎもせずに早口で言葉を紡ぐ。
「いつも周りにいるやつらも、誰一人連絡して来なかった。私がいなくなっても、どうせくだらないことで楽しんでるよ、今も」
そう吐き捨てた彼女を見て、周りにいた人たちが今の彼女のことを全く知らなかったことを思い出す。
「好きなだけ私をいじくり回して、理想の私を作り上げる人間が大嫌い。例外なんて今までひとつもなかった。だったら、もう生きている意味なんてないでしょ?」
いつも誰かが周りにいる人気者の彼女は、その周りにいる人たちが作り出した虚像だった。そして、きっと、僕もその「周りにいる人たち」と一人なのだ。
「真田が人間が嫌いって言ったとき、あんたがそんなこと言うなって思った。私の苦しみなんか分からないくせに」
「だから馬鹿にして、否定したかった」そう言って彼女はうつむいた。
「私って何?どうなりたいの?もう分からないよ・・・」
今まで周りの理想像を演じてきた彼女は、もう自分のことを分からなくなっていた。
人に嫌われるのが怖くて、本当のことを言えなくて、人と関わるのが嫌になって、人間が嫌いだと言い出した僕には、彼女のことが何となく分かる。「そりゃそうだ」とも思う。
「最初から、答えが分かってるクイズだったんだよ。あんたは気づいてなかったと思うけど」
僕の顔を見ず、彼女は言葉を紡ぐ。
「一応正解にしといてあげる」
結局僕は、正解にたどり着けなかった。ただ正解を聞いたあとに納得することはできた。分からない数学の問題の答えを解く前に見て、「ああ、なるほど」となるのと同じ感覚だ。
「もし、あんたが人間を好きだって言うようになったら、理由を聞こうと思ってたの。まぁ、結局好きになれてなさそうだけど」
やっぱり、僕はいつだって彼女に見透かされている。
「どうする?一緒に人間を好きになれる方法を探す?」
きっとそんなものはない。と今は思う。彼女もきっとそう思っている。
「それとも、一緒に死んじゃおっか」
そう言って微笑みを浮かべる彼女の声は、茜色の空に溶けていった。今二人がここで死んでも、ヒグラシの鳴き声が、最初から決まっていたことかのようにしてくれる。
それも悪くない、僕はそう思った。