六拾弐ノ巻 ~御先 七
《 六拾弐ノ巻 》 御先 七
バスルームから運ばれてきた香織は、部屋の中心に施された霊縛の陣に降ろされる。
だが香織は、降ろされる瞬間も、手足を振り解こうと力を籠めており、抱える者達は気が抜けない状況であった。
その為、霊縛の陣に降ろされると同時に、6人の者達から力一杯に、香織の身体は押さえつけられたのである。
しかし、それでも尚、押さえつけられた手足を振り解こうと、香織は物凄い力でもがく。
押さえつける者達が少しでも力を弱めようものなら、一気に暴れだしそうな気配であった。
暫しの間、緊迫した状況が続く。
そんな中、一樹は思った。
このまま押さえつけているだけでは、埒が明かない、と。
そこで一樹は、ある決心をする。
そして他の者達に、それを告げたのだった。
「皆、聞いてくれ。俺がこのまま、少しの間、如月を押さえ続ける。だから一旦手を離して、皆は結界の外へ出てくれないかッ」
続けて一樹は、宗貴に視線を向けると言った。
「宗貴さん。皆が出たら、すぐに霊縛の陣を発動させてください」
「いいのか、一樹君? 君も巻き添えになるぞ」と宗貴。
一樹は頷く。
沙耶香も言う。
「で、でも、それではお兄様がッ」
一樹は笑みを浮かべると、沙耶香に言った。
「大丈夫だ、沙耶香。厳霊の行をやっていると思えばいい。修行の時に籠めた霊力よりも、幾分強いかも知れないが、ほんの少しの間だけだ」
「わ、わかりました。でも、気を付けてください、お兄様」
沙耶香はそう返事すると、押さえつけている手を香織の身体から離す。
そして霊縛の陣の外へ出たのだった。
他の者達も沙耶香に続いて、陣の外に出る。
一樹はそれらを見届けたところで、宗貴に視線を向ける。
そこで一樹は、宗貴に一度頷いた。
宗貴は言う。
「じゃあ、発動させるぞ、一樹君」
「お願いします」
返事を聞いた宗貴は、すぐに幾つかの印を組み始める。
そして組んだ印を、霊縛の陣を発動させる術式部分に向かって接触させたのだ。
その瞬間。
霊縛の陣全体が青い輝き放ちながら、眩く発光したのである。
それはまるで、青く発光する水溜りのような光景であった。
だがしかし、その現象が起こるや否や、香織は苦悶の表情を浮かべて奇声を発したのだ。
【イァァァァァ!】
一樹も若干ではあるが、険しい表情をする。が、堪えて、すぐに元の表情へと戻った。
そこで一樹は、術の効果を確認する為、香織を押さえつける手を緩める。
そして、完全に手を離し、香織の挙動を確認したのである。
香織は動く気配がない。
それどころか、香織は痙攣をおこしたかのように、プルプルと震えながら、動きが止まっていたのだ。
どうやら上手くいったようだ。
この香織を見てそう考えた一樹は、僅かに表情を崩す。
そして、ゆっくりと立ち上がると、霊縛の陣の外へ出たのであった。
一樹は霊縛の陣を出ると、宗貴に言った。
「とりあえず、これで彼女は、しばらく動けない筈です。今の内に、向こうへ行く準備に取り掛かりましょう」
「ああ。だが、急いだ方がいい。この霊縛の陣は、一般人にとって、かなり厳しい結界だ。あまり長引くと、彼女自身が危ない」
「ええ、わかっております。急ぎましょう」
一樹と宗貴は、部屋を出ようと入口へ向かい始める。
だがその時であった。
【アガァァァァァ】
縛り付けられている香織から、突如、奇怪で大きな呻き声が発せられたのだ。
2人は即座に、香織へ視線を向ける。
そして驚愕した。
いや、この2人だけではない。
他の4人も同様、信じられないモノを見るかのように目を見開いたのだ。
この場にいる6人の目に映る光景。
それはなんと、黒い煙の様なオーラを全身から発し、そして起き上がろうとしている香織の姿であった。
一樹は叫ぶように声を発した。
「なッ、そんな馬鹿な! 動ける筈はッ」
「き、如月先輩ッ」
瑞希は悲鳴のような声を上げる。
するとここで、宗貴が慌てて動いた。
「いけないッ!」
宗貴は霊縛の陣に駆け寄ると、霊力を練り、両手で印を組む。
そして結界を発動させた時のように、組んだ印を発動の術式に向かわせたのである。
宗貴は印が術式に触れたところで、「ハッ!」という掛け声を上げる。
またそれと共に己の霊力を更に高めたのであった。
宗貴は今、何故、この行動をとったのか……。
それは勿論、霊縛の陣に霊力を送り込む為である。
この香織の様子を見た宗貴は、今の霊縛の陣に籠められている霊力では足りないと判断したのだ。
その甲斐あってか、香織は次第に動きが鈍くなり始めた。
宗貴も少しホッとした表情になる。
だがしかし……それも束の間の事であった。
暫くすると香織の身体からは、更に、ドス黒いオーラが噴き出し始め、またそれと共に身体も動き始めたのだ。
香織はしゃがれた声で絶叫する。
【ジャマヲスルナァァ!】
この香織の様子を見た宗貴は、眉を寄せて顰めると、一樹に視線を向ける。
そして、やや苦しそうに言葉を発した。
「お、俺の霊力だけでは駄目だ。一樹君、手を貸してくれッ」
「わかりましたッ」
一樹は頷くと、即座に印を組み、霊縛の陣に触れる。
そして霊圧を上げ、陣に霊力を送り込んだ。
するとその直後。
香織は動きを止め、先程同様、痙攣を起こした様に全身を震わせたのである。
一樹と宗貴が霊力を供給し始めてから、凡そ15分が経過した。
その間、香織は動く気配はなかった。
2人の力によって、一応は縛られている状態である。
だが、こうしていても、事態は一向に改善はしない。
そう考えた一樹は、宗貴に言ったのである。
「宗貴さん……。宗貴さんは、日比野君の所に向かってもらえますか。このままでは、何も改善しないです。もうこの呪術を解くには、直接、現場に行って叩くしかありません」
「それは分かるが、この子はどうするんだ?」
一樹は、痙攣する香織に視線を向けると言った。
「どうやら、俺達2人分の霊力でなら、如月を縛り付けられるみたいです。ということは、自分と詩織さん、そして明日香ちゃんの3人の霊力で、如月を縛り付けておく事が出来る筈……。ですから、宗貴さんだけでも日比野君の所へ向かってほしいのです」
「……わかった。確かに今は、そうする以外ないようだ」
「ええ。お願いします」
一樹はそこで詩織と明日香に視線を向ける。
そして申し訳なさそうに言った。
「詩織さんに明日香ちゃん。そういう事だから、手を貸してもらえないだろうか?」
「勿論よ〜」と詩織は頷く。
「任せて、一樹さん。私も知り合ったばかりの子を、みすみす見殺しになんてできないわ」
明日香もそう告げると共に、ニコリと笑みを浮かべた。
続けて明日香は言う。
「お兄ちゃん、交代よ。後は、私とお姉ちゃんが引き受けるわ」
「よし、では頼んだぞ」
その言葉が合図となり、詩織と明日香は、宗貴と交代したのである。
宗貴が自由になったところで、一樹は沙耶香に言った。
「それと沙耶香。宗貴さんは海神神社の位置を知らないから、道案内をしてあげてくれ。そして宗貴さんや日比野君のサポートも頼んだぞ」
「はい、わかりました。任せてください、お兄様」
それから一樹は、宗貴に視線を向けて頭を下げると、最後にこう告げたのであった。
「では、宗貴さん。宜しくお願いします。それと鬼一法眼様に、一応、事情の方を説明しておいて下さい」
宗貴は頷くと言った。
「ああ、わかっている。この事はちゃんと伝えておこう」
宗貴は返事をした後に沙耶香に視線を向けた。
沙耶香は無言で頷く。
そして2人はこの部屋を後にしたのであった。
宗貴と沙耶香は部屋を出ると、急ぎ駐車場へと向かった。
勿論、そこに宗貴の車があるからだ。
潮風の舞う暗闇の中を駆ける2人は、程なくして、外灯ポールに取り付けられた照明にライトアップされる、宗貴のランドクルーザーへと辿り着く。
そこで宗貴はドアロックを開錠すると、早速、ドアノブに手を掛けたのである。
だがその時。
2人の背後から、呼びかける声が聞こえてきたのだ。
「ま、待ってッ。宗貴さんに道間さん。私も行く!」
それは瑞希であった。
あれから瑞希は、2人の後を追ってきたのだ。
宗貴は言う。
「高島さん。これから先は危険だ。ホテルで待っていた方がいい」
瑞希は悔しそうな表情を浮かべると言った。
「で、でも、私、こんな時に何も出来ないのが歯がゆいんです。お願いしますッ。雑用でも何でも構いませんから、私も連れて行って下さい」
「高嶋さん……」と沙耶香は、しんみりと瑞希を見詰めた。
暫し、無言の時間が過ぎてゆく。
宗貴はそこで腕時計を確認する。
そして『こうしている間にも、事態は深刻になってゆくかもれない』と考え、宗貴は瑞希に言ったのであった。
「わかったよ、高島さん。それと本当に危険だから、俺や日比野君のいう事をちゃんと守るんだよ。いいね?」
「はい、ちゃんと守ります」
瑞希は真剣な表情で頷く。
「では乗ってくれ。急ごう」
そして3人は車に乗り込み、涼一のいる海神神社へと向かったのであった。
―― 海神神社 ――
時刻はもう午後8時半を回ったところだ。
俺がいるこの海神神社はもう、深い暗闇に包みこまれており、ヒッソリとした涼しい空間となっていた。
その為、周囲のどこを見渡しても、闇の世界しか入ってこない。
また俺自身も、懐中電灯等の簡易照明を使っていないので、今、この神社は本当の意味で闇に支配されているのである。
だがしかし、それは表の世界である現世の場合だ。
幽現成る者である俺の目には、その裏にあるもう一つの世界、幽世も見えている。
そして、その幽世には、淡い光を放つ大小様々な霊魂が、まるで蛍の様に、辺りに漂っているのであった。
というわけで、俺の場合は、暗闇とはいってもそれほど暗い印象はない。寧ろ、幻想的な光景にすら見えるのである。
また、1時間ほど前まで、境内全体に響き渡っていたヒグラシの切ない鳴き声も、何時の間にか既に聞こえなくなっていた。
今はヒグラシに代わり、虫達の奏でる小さな鳴き声が、申し訳程度に聞こえてくるだけであった。
俺はそれらの鳴き声を聞く為に耳を澄ます。
すると、「チィチィ」や「スーイ、スーイ」といった鳴き声が、絶えず聞こえてくるのに、不思議と静かなのだ。
それだけじゃない。
この鳴き声を聞いている内に、緩やかな美しい旋律を聞いてる気分になり、心身が癒されてゆくようにも感じたのである。
俺は、この虫達の奏でる、癒しの調べを聞きながら考えた。
これから本当に、あんな凄惨な事件が如月さんの身に起きるのだろうかと……。
また、そう考えると共に、俺は嫌な現実に戻されるのであった。
話は変わるが、7時頃に沙耶香ちゃんから連絡があった。
内容は修祓調査班からの同級生についての報告であった。
俺が思っていた通り、如月さんの鐘浦中学の同級生で、県外の高校に通う者が数名いるようである。
そしてやはり、既にその内の3人は、自殺で亡くなっているそうなのだ。
また、死亡状況も、今回の一連のものとほぼ同じだそうである。
これはもう、倉石由佳という少女の中学時代に起きた、何かに対する呪いとみて間違いないだろう。
当時、倉石由佳という少女に、一体、何があったのだろうか?
この報告を受けた時の俺は、暫しの間、そう考えずにはいられないのであった。
というわけで話を戻す。
坊さんが倉石家に入った後、家からは明かりひとつ漏れてはこなかった。
外の暗さもあるのだとは思うが、あれ以降はまた、動きが感じられない状況が続いているのである。
家の中で、一体、何が行われているんだ……。
それと、如月さんの身は大丈夫なのだろうか?
この疑問に応えてくれる判断材料は、一向に、あの家から現れてこない。
「フゥゥ……」
その為、俺は溜息を吐く回数も増えるのである。
だが俺が溜息を吐いた、その直後。
神社の前方から、小さな動く明かりが1つ現れたのである。
その明かりは徐々に俺へと近づいてくる。
明かりは、どうやら懐中電灯のようであった。
誰かが来たみたいである。
恐らく、宗貴さんと一樹さんだろう。
なぜなら、人払いの結界を施してあるので、一般人は入ってこれないからだ。
俺はやってくる人物を静かに待った。
程なくして、その人物は俺の前へ辿り着く。
そして俺に懐中電灯の明かりを向け、労いの言葉をかけてきたのであった。
「ご苦労だったね、日比野君。1人で大変だったろう」
「待ってました。宗貴さん」
思った通り、此方に来たのは宗貴さんであった。
またよく見ると、宗貴さんの背後には、瑞希ちゃんと沙耶香ちゃんの姿もあったのである。
2人は俺に微笑むと、早速、労いの言葉をかけてきた。
「夜遅くまで、お疲れ様でした。日比野さん」
「ご苦労様です、日比野さん」
俺も2人に微笑むと言った。
「こんばんは、瑞希ちゃんに沙耶香ちゃん。なんか、久しぶりという感じだね。今朝、会ったばかりなのに」
「エヘヘ、本当です。瑞希もそんな感じです」
そこで鬼一爺さんが周囲を見回しながら口を開いた。
(一樹の姿が見えぬが、どうしたのじゃ?)
すると宗貴さんは、やや言いにくそうに話し始めたのであった。
「ええ、それが実は――」
―― 鐘浦地区 ――
その後、俺達は宗貴さんの車に乗り、目的地である鐘浦地区へと向かった。
海神神社から鐘浦地区への道順は、やや入り組んだ道を通る為、少しややこしかったが、俺達はその都度確認しながら進んで行く。
そして海神神社を発ってから約20分。
俺達はようやく、目的の鐘浦地区へと辿り着いたのであった。
地区内に入ったところで、俺は窓ガラスの向こうに見える街並みに目を凝らす。
俺の視界に入ってくる夜の鐘浦地区は、非常に静かで質素な街並みであった。
飲食店などの電灯看板も無ければ、パチンコ店等のネオンライトの看板もない。
また、人通りもほとんどなく、視界に入ってくるのは、家屋から漏れる明かりや外灯、そして自販機の明かりくらいだ。
その為、人が住んでいる気配はあっても、ヒッソリとした寂しい街並みのように、俺には見えたのであった。
多分、住宅街の夜というのは、何処もこんな感じなんだろう。
鐘浦地区に入った俺達は、倉石家から100m程離れた所にある小さな公園に移動する。
因みにこの公園は、第2の被害者である嶋田祐司という少年が自殺した現場でもあった。なので、やや薄気味悪いところではある。
まぁそれはさておき。
宗貴さんには、そこで車を止めてもらう事にした。
この公園で止めて貰ったのは、勿論、理由がある。
それは、あの家から遠過ぎず近過ぎずという、非常に良いポジションにあったからだ。
これは俺が監視していた時から、そう思っていたので、早速、利用する事にしたのである。
宗貴さんは、ランドクルーザーを公園脇の路上に駐車するとエンジンを切る。
それから静かになった車内にて、俺達は最終確認をすることにした。
まず、鬼一爺さんが口を開いた。
(……さて、では涼一と宗貴は術具の用意をし、それから慎重にあの家へと向かうのだ。恐らく、二重三重の罠が仕掛けてあるだろうでな。準備は十分せよ)
「はい」
「はい、了解」
俺と宗貴さんは頷くと返事をした。
次に鬼一爺さんは、沙耶香ちゃんに視線を向けると言った。
(それと沙耶香よ。さっきも言うてたが、一将殿はこちらに、術者を1人、向かわせておるのだな?)
「はい。ですが、先程連絡したばかりなので、今しばらくはかかると思います」
(フム。ならばそれまでの間、あの家の付近に人が近づかぬよう、我が教えた人払いの符を施しておいてほしいのじゃ。お主らが使う、結界は時間がかかる。じゃから、今回はそれを使え)
「はい、畏まりました」
鬼一爺さんはそこで瑞希ちゃんにも言った。
(瑞希も沙耶香を手伝ってやるのじゃ。まぁこれも、勉強じゃわい)
「はい、分かりました。お爺さん」
(それが終わり次第、二人はここで待っておるのじゃ。それと応援の術者が来たならば、宗貴か涼一にケイタイデンワとやらで連絡してやってほしい)
【はい、わかりました】
2人は声を揃えて返事をする。
(では、はじめようかの)
そして俺達は、早速、指示された事を実行に移すのであった。
俺と宗貴さんは車内で修祓霊装衣に着替えると、他の術具を装備してゆく。
そして一応、念の為、霊刀も背負っておいた。
もしかすると、邪魔になるかも知れないが、これが俺の修祓スタイルなので持っていく事にしたのだ。
宗貴さんも、槍の方は一応持っていくみたいである。
だが、宗貴さんの月夜見という槍は、三節棍の様に折ることが出来る構造なので、さほどは嵩張らないようであった。
俺はそれを見て、少し羨ましく思ったのは言うまでもない。
まぁそれはさておき。
俺達は念入りに準備をすると、車の外に出た。
そこで鬼一爺さんは言う。
(涼一よ。式を我等が進む反対側に移すのじゃ。そこであの家の後ろも見ながら進め。何があるか分からぬからの)
「ああ、わかった」
俺は鬼一爺さんの指示通りに、早速、放った式を俺達の逆側に移動させた。
配置を終えたところで、俺は宗貴さんに視線を向けると言った。
「終わりました、宗貴さん」
「よし。では行こうか、日比野君」
「ええ」
そして俺達は、目的の倉石家へと向かって歩き始めたのだ。
公園から倉石家までは、真っ直ぐとした一本道である。
また、進む先には十字路もカーブもなく、その上、この道路を歩く者も皆無であった。
あるのは、軒を連ねた民家と路肩にある電柱、それと俺達だけだ。
その所為か、非常に寂しい感じがする道であった。
恐らく、倉石家に施されている人払いの結界や、沙耶香ちゃん達が今施している符の力が、人を寄せ付けないからだろう。
しかし、俺は今、そういった事よりも気がかりな事があった。
それは、あまりにもストレートな道なので、向こうからすると、俺達の姿が一目瞭然かも知れないという事である。
おまけに人払いの効果もあって、より一層、俺達の姿が目立つのだ。
だがとはいっても、一応、この黒い修祓霊装衣は、周囲の暗闇に溶け込むような色合いの衣服である。
なので、視覚的には分かりにくいようにはなっている。が、しかし……。
恐らく、あの坊さんに、こんな子供だましは通じないだろう。
この時の俺は、何故かそんな気がしていたのである。
何せ、鬼一爺さんが警戒するほどの術者だ。当然である。
また隣を歩く宗貴さんも、俺と同じ事を思っているのか、非常に鋭い目つきとなっていた。
俺はそんな宗貴さんを見て、今一度、気を引き締める。
そして周囲や式に気を配りながら、慎重に歩を進めてゆくのであった。
歩き始めて1分程経過すると、俺達は既に、倉石家のすぐ近くまで来ていた。
もうあと15m程行けば、玄関に辿り着けるくらいの所だ。
目の前に迫る倉石家を見た俺は、『いよいよだ……』と更に気を引き締める。
またそう考えると共に、俺の脈打つ鼓動も早まりだしたのだ。
だが、その時だった。
突然、妙な霊波動が俺達の周囲に漂い始めたのである。
それだけじゃない。
隣にいる宗貴さんも突如顔を顰め、やや戸惑ったように口を開いたのであった。
「なッ……こ、これは、幻覚か?」
宗貴さんはそう言った後、足元がフラフラとおぼつかない感じになる。
それから片膝を地に着けて伏せると、右手を額にやって頭を押さえたのだ。
この宗貴さんの突然の変化に、俺はビックリとした。が、俺には妙な霊波動以外、特に何も感じなかった。
なので、宗貴さんが何故そうなったのかが、よく分からないのである。
とりあえず、俺は言った。
「ど、どうかしましたか? 宗貴さん」と。
すると宗貴さんは、眉間に皺を寄せ、やや苦しそうに口を開いたのだ。
「ああ……。突然、目の前の空間が歪んだと思ったら、次は先の見えない真っ暗な回廊になった。日比野君には、これが見えないのか?」
宗貴さんはそこで前方を指さした。
「ええ、……、み、見えないですね」
本当に何も見えなかったので、俺は首を傾げながらそう答えたのである。
とりあえず、俺は今の状況を俺は考えてみた。
宗貴さんの身に、一体、何が起きたのだろうかと。
確かにこの空間に入ってから、妙な霊波動を感じるようになった。が、ただそれだけなのである。俺には特にこれといった害が無いのだ。
その為、幾ら考えても、よく分からないというのが、正直なところであった。
と、その時。
鬼一爺さんが俺に言ったのである。
(涼一よッ。お主の前と後ろにある道の脇を見よッ。左右合わせて八つある丸い石じゃ)
「へ? 丸い石?」
と言いながら、俺は鬼一爺さんの言葉に従い、前後の道路脇に視線を向けた。
周囲が暗いのでよく見ないと分からなかったが、そこには直径15cm程度の小さな丸い石が、俺達の左右に4個づつ、均等な間隔で置かれていたのである。因みに、結構な範囲であった。
だがこの石を見た瞬間、俺にはこれが、ただの石ではないのというのはすぐに分かった。
何故なら、奇妙な霊波動が互いに干渉するかのように発せられていたからだ。
間違いない。この妙な霊波動はここから生まれている。
俺は言った。
「この8個の石、なんか変だ……。まるで石同士が共鳴し合っている感じがする」
鬼一爺さんは頷く。
(ウム……。この八卦の石の並びを見る限り、恐らく、神仙の幻術じゃろう……)
すると鬼一爺さんは、そこで8個の石の内、前方にある1つの石を指さす。
そして目を鋭くして言ったのだ。
(あれじゃな、あの石が、この幻を作り出す結界の起点になっておる。あの石を飯綱の太刀で切り裂くのじゃ。さすれば、この結界も解けよう)
「お、おう、分かった」
俺は早速、その石へ駆け寄ると印を組み、刃を出現させる。
そして霊力の刃を振り下ろし、石を真っ二つに切断した。
その瞬間。
この空間一体にあった妙な霊波動も、霧散するように消え去ったのであった。
石を切断した直後。
宗貴さんは楽になったのか、肩の力を抜き、大きく息を吐いた。
どうやら、この様子を見る限りだと、幻から解放されたみたいだ。……よかった。
だが、安心しつつも俺は今、1つ疑問が脳内で渦巻いていた。
それは勿論、何で俺は大丈夫だったのか、という事である。
というわけで、俺は早速、鬼一爺さんに聞くことにした。
「鬼一爺さん。なんで、俺には幻が見えなかったんだ?」
(決まっておるじゃろう。お主だからじゃよ。……じゃがこの事は、今は言うてはならぬぞ。よいな)
鬼一爺さんはそう告げると、シーと言わんばかりに、口の前で人差し指を立てた。
「ああ、そういう事か……分かったよ」
俺は理解した。
鬼一爺さんの言葉を察するに、幽現成る者として体質だからなのだろう。
どうやらこの体質は、幻や隠行とかいった類の呪術は、ほぼ無効なのかもしれない。
だが、これは嬉しいようで悲しい事実であった。
なぜなら……幽現成る者というのは、ある意味、毎日が幻術にかかっているようなものだからだ。
とまぁそれはさておき。
俺は宗貴さんに近寄ると言った。
「宗貴さん、大丈夫ですか?」
「ああ、だいぶ良くなったよ。しかし、日比野君、よくあの強力な幻術の中で動けたね」
宗貴さんはそう言うと、首を傾げて俺を見た。
とりあえず、適当に誤魔化すことにした。
「何か知らないんですけど、俺って幻術に耐性があるのか、そっち系には強いんですよ」
と気楽に言いながら、俺は後頭部をかいた。
「そうだったのか。それは心強いな」
宗貴さんはそこで立ち上がる。
そして目と鼻の先にある倉石家へ視線を向け、俺に言ったのだ。
「よし、では行こうか。家はすぐそこだ」
「ええ。ですが、この分だと、他にもまだ何かありそうですね。お互いに、気を付けて行きましょう」
「ああ」
返事をした宗貴さんは、口を真一文字に結び、目を鋭くした。
俺もそれに習い、また気を引き締め直す。
そして俺達は移動を再開したのであった。
―― 一方…… ――
倉石家の仏間では、印を組み、真言を唱え続ける男の姿があった。
それは勿論、僧侶姿のあの男である。
男はあれからもずっと笠を被ったまま、何かの術を行使し続けていたのだ。
背筋を伸ばして禅を組み、そして術を行使するこの男の口からは、一定のリズムで発せられた真言が聞こえてくる。
それはまるで機械が唱えているかのようであった。
だがある時、その真言を唱えるリズムが、突如、途絶えたのである。
【ウォン……キリーカ……ウォン…ダキーニ…ギアチ……むッ!】
男はそこで、暫しの間、無言になる。
そして玄関の方向に視線を向け、ニヤリと笑みを浮かべたのであった。
笑みを浮かべたまま、男は言う。
「来たか……。何者かが、八卦の無限回廊を破ったようだ。面白い……。我が無限回廊の結界を破るとは、かなり腕のある術者であろう」
するとそこで男は、周囲を窺うかのように口を噤む。
その様子はジッとしながらも、何かを探っているような感じであった。
5秒、10秒と時間が経過する。
暫くすると男は口を開いた。
「術者は2人か……。もう少し、大人数で来ているかと思うたが、他にはいないようだ。少々術を中断する事になるが、よかろう……。2人ならば、私が直に相手をしてやる」
男は意気揚々と立ち上がる。
そして襖をあけると、玄関へと向かい歩き出したのであった。
―― 涼一と宗貴は ――
幻術の結界を解いた俺達は、程なくして、倉石家に辿り着いた。
俺達は一旦、玄関前で立ち止まると、大きく深呼吸をする。
そして俺は目の前にある倉石家に、今一度、視線を向けたのであった。
ここまで来て分かったことだが、倉石家は普通の民家だというのに、非常に禍々しい異様な霊波動が感じられた。
その所為か、この家のある空間自体が、まるで別世界の様に感じられたのである。
俺はこの波動を感じるなり思った。
この家の中では、よくない事が確実に起きていると。
だが俺はそこで、1つ気になる事があったのだ。
それは、この霊波動の感じが、どこかから漏れ出てくる波動のように感じられたからだ。
その為、決して強い霊波動ではないのである。
これは俺の予想だが、恐らく家の中では、何らかの結界を施した中で呪術が行われているのだろう。
そして、その中には、侵入者に対する罠も潜んでいるに違いない。
俺はそう考えると共に、少しナーバスになってきた。が、ここまで来た以上は、もう後戻りはできない。
その為、内心嫌ではあったが、俺も覚悟を決める事にしたのである。
俺は小さな声で、宗貴さんに言った。
「宗貴さん、行きましょうか」
「ああ」
宗貴さんは頷く。
そして俺達は玄関へと向かい、一歩前に足を踏み出したのだ。
だがその時だった。
ガチャリ……――
なんと、玄関の扉が開き、中から僧侶姿のあの男が現れたのである。
俺達はこの突然の展開に驚いたが、すぐに身構え、臨戦態勢に入った。
男は玄関から出ると、ニヤッと不敵な笑みを浮かべる。
そして俺達に向かい、低く自信に満ちた声色で話し始めたのであった。
「ほう……。そこにいるのは、土御門宗家の嫡男、宗貴だな。ふふ、大きくなったものよ。……まさか、この道摩家の地で、土御門宗家の者に出遭うとは思わなんだぞ」
「な、貴様。俺の名を知っているのか。何者だッ!」
宗貴さんは声を荒げた。
だが男はそんな宗貴さんを無視すると、次に俺へ視線を向けたのである。
男は言う。
「そちらは誰か分からぬが、中々に強き霊波動を感じる。ふむ……まぁよかろう」
すると男はそこで、手に持った錫杖を俺達に向ける。
そして語気を強め、言い放ったのであった。
【さて……まずは、お前達という邪魔を排除するとしようか。私は今、新しい術の実験している最中なのだ。とっとと、消えて貰おうッ!】




