参拾八ノ巻 ~階位
《 参拾八ノ巻 》 階位
――2月下旬。
《――ウォム・ヴァジューラ・ヤースカ・ウーン――》……――
――今日は土曜日である。
春休みに入ってからは、曜日の感覚というのが段々と薄れてゆく。大学の時間割確認といった作業から解放されているのがその要因だろう。
まぁこればかりは仕方がない。それが長期休暇というものだからだ。
そんな事を考えながら、俺は時刻を確認する為にテレビの上に置かれたデジタル時計に目を向ける。
今の時刻は午前9時55分を示していた。
時間を確認した俺は窓辺に視線を向ける。
カーテンの隙間からは、久しぶりであるお日様の暖かい光が射しこんでいた。
その眩しくも優しい日光は、この寒くて暗い雰囲気が漂う季節の中にあって、一筋の希望を持たせる光のように、俺の目には映るのだった。
まぁここ最近は雪や雨続きの毎日だったので、特にありがたく俺はそう感じているのである。
そうやって日の光に俺が思いを馳せている、丁度その時。
ピンポーンという呼び鈴の音が俺の部屋に響き渡るのであった。
どうやら誰かが来た様である。
昨日、この時間帯に来ると言っていた人物がいるので、恐らく、その人物であろう。
それを思い出した俺は、顔だけ動かすと玄関の方に向かい、大きめの声で言うのだった。
「あ、開いてるからどうぞぉ〜」と。
すると、ガチャっという扉のノブを回す音が聞こえてきたのである。
どうやら俺の声が聞こえたようだ。
その人物は扉を開いて中へと入ってきた。
そして扉を閉めると、玄関前で元気良く挨拶をするのである。
「日比野さぁん、おはようございま〜す」と。
俺は玄関に向かい再度口を開いた。
「お、おはよう瑞希ちゃん。……あ、上がってくれていいよ」
「は〜い。それじゃ、おじゃましま〜ス」
といった瑞希ちゃんの可愛らしい声が聞こえてくる。
そして瑞希ちゃんは靴を脱いで、俺が居るコタツのある所にまでやって来たのであった。
今日の瑞希ちゃんは、初詣の時に見た白いコートを着ていた。
こんな天気の良い日にはよく似合う服である。
その雰囲気は穢れの無い、白い天使といった感じだ。念の為に言うが、俺は天使なんぞ見た事は無いから、あくまでも想像内での話だ。
という訳で話は変わるが、瑞希ちゃんと沙耶香ちゃんはつい2日前に期末試験が終わったそうである。
2人共、試験が終わったその日に俺のアパートに来て、報告をしてくれたのを思い出す。
その時の2人の様子は、試験の束縛から解放されたかのような感じだったので、結構試験中は気を張っていたのかも知れない。
フトそんな事を考えていると、瑞希ちゃんは俺を見るなり、口元を押えて驚くと共に言うのであった。
「ひ、日比野さん。ど、どうしたんですか? そんな格好で……」
驚くのも無理はない。
だって今の俺は、紺色のジャージに身を包みながら、死んだ蛙のような格好で床に突っ伏しているからである。
ハッキリ言ってみっともない格好である。
というか、そんな事は重々承知している。
だが、どうにもならんのだ。
何故ならば、今現在の俺は体中が筋肉痛で痛いからである。最悪である。
(おお、娘子よ。おはようさん)
そこで鬼一爺さんが瑞希ちゃんに姿を現すとニコヤカに挨拶した。
「あ、オハヨー、お爺さん。ところで、日比野さんどうしちゃったんですか?」
瑞希ちゃんは俺と爺さんを交互に見ながらそう尋ねる。
それを聞いた鬼一爺さんは、俺に流し目を向けると事の顛末を説明し始めるのであった。
(実はのぅ。涼一に新しい術の修行をさせたら、体が付いて行かん様になって、この有様なんじゃよ。まったく、我が思っていた以上に軟じゃのぅ。こんなんでは先が思いやられるわい。もう少し、しっかりせぇ涼一!)
ぐぬぬぬ、おのれぇ爺!
軟なのは認めるが、こんなに身体へ反動が来るなんて聞いてねぇぞ!
と……そう言いたいのは山々だが、今は瑞希ちゃんも来ているので、とりあえず、俺は矛を収める事にしたのだった。
で、こうなった原因だが、鬼一爺さんから習った夜叉真言を完全に覚えたので、それを唱えてどんな感じになるのか検証してたからである。
結論から言うと術は成功はした……。だが、2分と持たずこの状態である。ガッデム!
そして自身の身体での検証結果であるが、とりあえず、霊力が肉体を補強するのは確認できた。
だが問題は、練った霊圧から導き出される身体補強度に、肉体が耐え切れず悲鳴を上げた、という検証結果に終わった事である。
早い話が、夜叉真言術に俺の身体が負けたという事だ。
練った霊圧が高いほど術の性能は上がるので、それも関係しているのだろう。
だが今回、俺が練った霊圧は、それ程高いわけでもない。
鬼一爺さんから前もって術の反動を説明されていたので、寧ろ弱めたくらいだ。
でも、この有様である。
要するに今回の検証結果で浮き彫りになったのは、術者自身の生身の肉体強化という課題なのである。
まったくもって予想外の上に溜息がでる展開だ。トホホ。
術の反動で生じた筋肉痛を和らげる為、俺は体全体に霊力を回しながら練りあげる。
すると、幾分か痛みも引いてきた。この分だと、もう暫く霊力を循環させれば大分良くなりそうだ。
そうやって、霊的治療を施しながら夜叉真言の課題を考えていると、鬼一爺さんは言うのだった。
(涼一、あの程度の霊力でそれなら、この先はもっと大変じゃぞ。充実した霊力と身体の良い調和が、この術を大いに強くするのじゃ。拠って、これからは身体も鍛錬せぬといかぬぞい。もっと精進せい)
「さっき身をもって体験したから、もうわかってるよ、そんな事……。イテテテッ」
俺は節々が痛いながらも、体を起こして鬼一爺さんにそう返事をした。
すると、そんな俺を見た瑞希ちゃんが心配そうに言うのである。
「日比野さん、大丈夫ですか……凄く辛そうですよ」
俺は心配かけまいと、爽やかな笑顔で答える。
「だ、大丈夫だよ。ハハハ。初めてだから、少し負担がかかっただけさ、ハハハ」
だが、瑞希ちゃんはまだ心配そうに俺の顔を覗きこむ。
とりあえず、一呼吸置くと、俺は瑞希ちゃんを安心させる為に言った。
「今、霊力を使って回復してるところだから大丈夫だよ。暫くすると元に戻るからさ。だから心配しないで、瑞希ちゃん」
続いて鬼一爺さんが瑞希ちゃんに言う。
(大丈夫じゃ、この程度の事なら今まで何回もあったからの。すぐ良くなるわい。フォフォフォ)
俺と鬼一爺さんの言葉を聞いた瑞希ちゃんは、ホッとした表情になる。
そして笑顔で言うのだった。
「本当ですか、良かったぁ。日比野さん、あんまり無理しちゃ駄目ですよ」
「心配してくれてありがとうね、瑞希ちゃん」
俺はそう言うと瑞希ちゃんの頭を撫でる。
撫でられた瑞希ちゃんは恥ずかしかったのか、頬を染めて顔を俯かせるのだった。
こういった仕草は歳相応の可愛らしさがにじみ出ているな――
などと思っていると、瑞希ちゃんは何かを思い出したのか、ハッと面を上げる。
そして俺に言った。
「日比野さん。そういえば今日、道間さん達のマンションに、土門長老が来るみたいな事を道間さんが言ってましたよ」
「ああ、そういえば昨日、俺にも連絡があったな。そんな事を言ってたよ。まぁ俺には声が掛かってないから、行かなくてもいいとは思うけど」
「ふぅん、そうなんですか。何かあるんですかねぇ。少し気になります……」
と言った瑞希ちゃんは、人差し指を下唇に当てて、何やら思案顔をするのであった。
そんな瑞希ちゃんを見た俺は少し考える。
そして、『鬼一爺さんによる人間観察と言う部分を伏せれば、まぁ別に秘密にするような事でもないだろう』と考え、俺は瑞希ちゃんに説明をする事にしたのだった。
「多分だけど。土門長老が来てるのは、土御門家と道摩家の合同修祓訓練の事でだと思うよ」
「合同修祓訓練? なんですかそれ?」
瑞希ちゃんはポカンとした表情でそう言った。
俺は続ける。
「去年のクリスマスに、厳重警戒中にも関わらず、大沢議員が呪殺されたのを瑞希ちゃんも聞いてたから知っているよね。それらの反省も含めて、一ヶ月程、両家の親睦を深める為の訓練をするみたいだよ」
だが、俺の話を聞いた瑞希ちゃんは、眉根を寄せて更に難しい表情になる。
すると、恐る恐る俺に尋ねるのであった。
「ひ、日比野さんも……その訓練に行くんですか?」
「うん。一応、俺も呼ばれてるんだ。で、2月末からそれに参加する事になってるんだよ。面倒だけど、仕方ないかな。俺もこの世界に深く入り込んじゃったからね。ハハハ」
だが瑞希ちゃんはそれを聞き、今度は何処か不安そうな表情になる。
俺はそれが気になったので問い掛けた。
「どうしたの瑞希ちゃん。なにか気になる事でもあるの?」
すると瑞希ちゃんは弱々しい声で言うのだった。
「日比野さぁん、瑞希はそれに行ったら駄目なんですか……」
俺は鬼一爺さんに視線を向ける。
爺さんは言う。
(ふむ……別にエエじゃろ。問題ないと我は思うがの。それに例の件とは関係がないからの)
鬼一爺さんの意見を聞いた俺は、少し思案する。
まぁ確かに、瑞希ちゃんも道間家の関係者だから行っても問題は無い。
だが他の面子と違い、瑞希ちゃんは学校というものがあるので、全面参加は難しいだろう。
その代わり、休みの日や学校の終わった後なら問題ないと思い、そう告げる事にしたのだった。
「沙耶香ちゃん達はお父さんの指示で学校を休むようだけど、瑞希ちゃんの場合、全面参加は難しいよね。でも、学校の終わった後とか休みの日なんかは大丈夫だと思うよ。もし来るのなら、俺から土門長老に言っておいてあげようか?」
すると瑞希ちゃんは、パァッと明るい表情になって言うのだった。
「ほ、本当ですか? ぜひお願いします」
「分かった。それじゃあ、そう言っておくよ」
そして瑞希ちゃんは色々と考える事があるのか、やや俯き加減で言うのである。
「……本当は瑞希も全部参加したいけれど、お父さんとお母さんにこんな事、言えないですもんね……」
「……まぁね。俺もそうだけど、幾ら両親でもこの事は言えないからなぁ。瑞希ちゃんの気持ち、よく分かるよ」
俺の言葉を聞いた瑞希ちゃんは、ニコリと微笑み言った。
「エヘへ。でもそう考えると、日比野さんと瑞希って、よく似た境遇なんですよね」
「ハハハ、言われてみればそうだね」
と、そこで俺は瑞希ちゃんが此処に来た理由を思い出す。
そして言った。
「ところで瑞希ちゃん。霊術修行の方だけど。もう少しすると俺の調子が戻るから、そしたら霊力を練る練習を始めよっか」
「はい、日比野先生。今日も指導をよろしくお願いしますね」
瑞希ちゃんはそう言うとペコリとお辞儀をするのであった。
実は俺、この霊術修行の時だけは先生などと呼ばれているのだ。
最初、この呼ばれ方をしたときは背中がこそばゆくなったものだが、今ではもう慣れたものである。
という訳で、俺の指導による瑞希ちゃんの霊術修行が始まるのであった。
―― 一方、その頃 ――
土門長老は道間兄妹の住むマンションへ訪れていた。
その土門長老は沙耶香と一将の2人と共に、リビングにて何かの打ち合わせの最中のようである。
3人が打ち合わせをするリビングの窓辺からは、カーテンが開ききっている事もあり、暖かく優しい日の光が降り注いでいた。
その日光がリビング内の隅々まで行き届いている為、室内の照明は点いていない。
拠って明かりはその日光のみである。
その所為か、このリビング全体が爽やかで心地よい雰囲気の漂う空間となっているのであった。
だが、打ち合わせをしているコタツの置かれた室内中央は、やや違った様相を見せていた。
その原因は3人の服装であった。
土門長老と一将は共にスーツ姿で、沙耶香は学生服姿である。
3人の衣服の所為か、其処だけ室内の陽気さが若干薄れ、やや堅苦しい雰囲気の様相となっているのただった。
そんな3人は、コタツの上に置かれている何かの予定が書かれたA3サイズの紙と、卓上カレンダーを見比べながら何かの打ち合わせをしており、お互いの反応を確認しあっていた。
時には難しい表情を。時には笑顔を。
色んな表情を浮かべながら3人は話し合いを続ける。
そんな一幕の話である。
「それで道間殿、両家の親睦を深める為の合同修祓訓練じゃが。先ずは、日替わり方式の2人一組になってもらい、修祓を行う方法で行こうと思うんじゃが、どうじゃろ?」
一将は卓上カレンダーに一度目を向ける。
すると顎に手をやり、思案顔で答える。
「土門長老。日比野君も入れてなので、この際、全員が彼と一度は一緒にやってもらった方がいいですな。日比野君にとっても色んな術者との修祓は、貴重な経験になりますし。とりあえず、最初の一週間はそれでいきましょう」
一将の意見を聞いた土門長老は、二カッと笑みを作ると言った。
「おお、そうじゃとも。儂もそれを考えておったのじゃよ。ヒョヒョヒョ」
2人がそんなやり取りをしている中、沙耶香はカレンダーを眺める。
だがそこで気になることがあった為、沙耶香は2人に問い掛けた。
「お父様に土門長老。この訓練は一週間後に予定されておりますが、私やお兄様は学校がまだありますので、全面参加は難しくないですか?」
一将は口元に軽く笑みを浮かべながら答える。
「ああ、それについては、私の方から理事長に家の事情と言っておこう。心配するな、あそこの理事長は私の良く知る鎮守の森の関係者だ。そのかわり、卒業式や終業式は出てくれ。一樹の立場上、流石にそういった式典には出席してもらわんとな。ハハハハ」
「そ、そうなのですか……」
沙耶香は、いつもの沈着冷静な父と違って、やや強引な感じがした為、若干驚きつつもそう答えた。
そして今度は、土門長老の手元にある仮の日程表に目を向けるのである。
すると、初日の訓練予定のところに【修験霊導の儀】と書かれているのが、沙耶香の目に留まる。
沙耶香は確認の為、土門長老に問い掛けた。
「土門長老、此処に【修験霊導の儀】と書かれているのですが、これは修祓者の技量を見極めて階位を決める、あの【修験霊導の儀】の事でしょうか?」
「うむ、そうじゃが。それがどうかしたかね?」
土門長老の返事を聞くなり、沙耶香はやや驚いた表情になって尋ねる。
「えッ! ですが、この儀式は最低でも、鎮守の森が定める修祓者階位の最高階位 第一位【浄衆元帥】の称号を持つ者1名と、その次階位である第二位の【浄将】の者達4名の立会いの元によって行われるのが決まりなのでは?」
沙耶香の言葉を聞いた途端、土門長老と一将は互いに顔を見合わせるとニヤリと笑う。
そして土門長老は言うのだった。
「ヒョヒョヒョ、そうじゃとも。それが正規の決まりじゃ。じゃがの、そんなもんは如何とでもなるんじゃよ。のう道間殿?」
思わせぶりな言い方で土門長老に話を振られた一将は、やや硬い笑いを浮かべながらも頷く。
一将は沙耶香に視線を向けると言った。
「沙耶香、お前も社会に出ると分かると思うが、世の中には表の道があれば裏の道というものも当然あるのだよ。ハハハ、まぁそういう事だ。あまり余計な詮索はせん方がいい」
「そ、そうなのですか。で、では気にしない事にします。ハ、ハハ……」
口元を引き攣らせながら、沙耶香はそう返事する。
また、沙耶香はそれと同時に、2人の妙な態度を見て『この人達は、何らかの、不正をやらかす気だ』と判断するのだった。
そして、父と土門長老の遣り取りから危険な匂いを感じた為、肩を窄める仕草をしながら、この事についてはもう触れないでおこうと考えるのである。
すると土門長老は、そんな風に萎縮する沙耶香へ向かい、付け加える様に言った。
「ヒョヒョヒョ、まぁそう心配しなさんな。それに無理をしてでもコレをするのは理由があるのじゃよ。沙耶香ちゃんも分かるじゃろ?」
土門長老の問い掛けに沙耶香は冷静になって考える。
そこである男の存在が沙耶香の脳裏に浮かび上がった。
沙耶香は真剣な表情になって言う。
「日比野さんと鬼一法眼様の事ですね……」
「ヒョヒョヒョ、その通りじゃ。今はまだ、彼の事をあまり露出する訳にはイカンのじゃよ。それに、この【修験霊導の儀】で決まる日比野君の修祓者階位は、儂等が責任を持って穏便に且つ、確実に登録を済ませるつもりじゃ。じゃから、お嬢ちゃんはそんなに心配しなさんな。儂とお父上に全て任せなさい」
土門長老に優しく諭すように言われた所為か、沙耶香はホッとしたような表情になる。
そして、笑顔を浮かべて言うのだった。
「勿論、信用しております。御二人は共に【浄衆元帥】と【浄将】の称号を持った方ですので、私なんかよりもそういった緒事情に精通しておられる筈ですから」
そんな沙耶香の言葉を聞いた一将は、娘の頭を優しく撫でながら言った。
「まぁそういう事だ。心配は無用だ。私達に任しておきなさい。ハハハ」
撫でられた沙耶香は恥ずかしそうにするが、同時に、そんな父の気遣いに安心するのであった。
―― それから5日後 ――
今は午前10時。
俺はトレンチコートにジーンズ、頭には茶色柄のニット帽といった出で立ちで、丁度今、アパートの外に出たところである。
外は流石に寒いが、空を見上げれば眩しくて暖かいお日様が、この学園町を優しく抱擁するかのように包み込んでいた。
朝のそんな空模様に気分を良くした俺は、心地よい日光を全身に浴びながら、大きく背伸びをする。
また、それと共に大きく深呼吸もするのだった。
すると、刺すように冷たいながらも、清涼感が感じられる澄んだ空気が俺の体内に入り込んでくる。
そんな風に感じる所為か、吸入した空気が全身を清めてくれるような錯覚を俺は覚えるのだった。
とりあえず、そうやって外の空気を満喫した俺は、筋肉痛で痛い肩口を回しながら、歩き出した。
実は俺、4日前から筋トレを始めたのである。
理由は勿論、夜叉真言対策だ。
だが、鍛えるといってもマッチョになる必要は無い。が、それなりに筋力を上げておかないと術に負けてしまうのだ。
コレばかりは仕方が無い。
そんな訳であれ以来、筋肉痛が続く毎日なのである。
だが、筋トレばかりが原因というわけではなく、剣道愛好会での練習も多少は加算された結果だろう。
おまけに、今日も昼から2時間ほど剣道練習の予定がはいっていたりするのである。
まぁそうは言っても、ここ最近は他の皆も色々と事情がある所為か、そう頻繁に剣道の練習もないので助かっているところである。勿論、姫会長にこんな事は言えないが……。
とまぁそんな事はさて置き。
俺は今、一樹さんからお使いを頼まれたので、目的地である天目堂 高天智支店へと歩を進めているのであった。
一樹さんも学校の教師と部活動の副顧問をやっているので、色々と大変な様である。
中々、自由な時間が作れない。という様な事をこの間の修祓に同行してたとき聞いたし。
女子校なので、違う意味でも大変そうだが……。結構、一樹さん男前だしね。
まぁそういった事情もあって、春休み中の俺に白羽の矢が立ったというわけだ。
因みに、鎮守の森所属の修祓者である事を証明する俺のカードも、2週間程前に一樹さんから手渡されているので、俺一人で行っても大丈夫という事だ。
だが、カードは貰ったものの、元旦以来、俺はまだ天目堂には行っていない。勿論、用が無いからだ。
まぁそんなわけで、一人で行くのは今回が初めてな為、実は結構緊張していたりするのである。
正しく、『初めてのお使い』といったところである。
しかし、同時に術具類への好奇心もあるので、『天目堂に行ったら、じっくりと見てくるか』とも考えているのであった。
話は変わるが、年が明けてから修祓を数件、俺も同行しながらとはいえ達成している。
それもあり、今年の1月に開設したばかりの俺の預金口座に、つい先日、報酬が振り込まれていたのである。
因みに開設した口座は、鎮守の森が指定する都市銀行である。
日本かむなび銀行=通称・かむ銀というのだが、どうやらこの都市銀も鎮守の森の関係する所のようだ。
都市銀クラスの金融機関をも掌握しているとは……恐るべし、鎮守の森ッ!
とまぁそれは兎も角。
で、その金額を確認して驚いたのだが、時給換算すると1時間2500円くらいの報酬が振り込まれていたのだ。
思わず『エッ?』と口に出して通帳を見入ってしまったほどである。
そして金額を見た俺は、思わず一樹さんに確認をしたのであった。
それは勿論、見習い修祓者のような俺がこんなに貰っていいのか、と思ったからである。
だが一樹さんは、「見習いとはいえ、命の危険もあるからだよ。それにその金額は一応、見習い術者への報酬相場だから別に気にしないでいい」と言ったのである。
その説明を聞いた俺は、『この業界の最低賃金と最高賃金は一体幾らなんだ!?』とカルチャーショックを受けたのだった。
知らぬが仏なのかも知れない。
まぁそんな訳で、呪術業界賃金事情にも色々と思いを馳せつつ、俺は天目堂へ向かって歩を進めるのだった。
歩きながら周囲の景色に目を向けると、つい最近までは雪に埋もれていたとは思えないほどである。
ここ五日ほどずっと晴れが続いており、気温も上がっているからだろう。
お陰で、数週間前までは辺り一面が雪で真っ白だったこの高天智市も、本来の姿を取り戻しつつある状況なのであった。
日陰になるような所にはまだ多少は残ってはいるが、道路や歩道はもう完全に雪が無くなっているので、ほぼいつも通りの姿に戻っているのだ。
まぁそのかわり、雪に隠れて見えなかった犬の糞が、時々、転がっている時があるので注意が必要だが……。
その他にも、夜などはまだまだ冷え込む日が続くので、朝は路面の凍結に注意が必要である。
というわけで今の俺は、犬の糞と路面凍結に注意しながら天目堂へと向かい歩を進めるのであった。
そしてアパートを出てから歩く事30分。
俺は大通り沿いにある天目堂へと、ようやく辿り着いたのだった。
バスや電車を使えばもっと早く来れたのだが、身体を鍛える意味合いも込めて歩いて来たのである。これについては、自分でも、要領が良いのか悪いのか悩むところだ。
まぁそれは兎も角。
俺は早速、天目堂の入口へと向かった。
自動ドアを潜り、真っ直ぐと突き進む。
そしてその先にあるカウンターへと行き、それの上に置かれた呼び鈴を鳴らすのだった。
チリーンという甲高い音が鳴り響く。
すると、カウンターの奥にある扉が開き、以前見た初老の男性が、その時と同じ服装で現われたのであった。
その人は俺の顔を見ると、頭を下げてニコヤカに言った。
「おお、これはこれは、いらっしゃいませ。元日に来られた方ですね。覚えておりますよ。今日はどのようなご用件でしょうか?」
「どうも、お久しぶりでございます。え〜と……コッチの方です」
俺はやや緊張しつつ、そう返事すると、財布からカードを取り出して見せるのであった。
「では、こちらの方にそれを」
男の人は俺のカードを見ると、前回と同じ様にカードリーダーをカウンターの下から出してきた。
俺は若干ドキドキしつつ、そこにカードを通す。
すると以前と同じ様に、右奥の扉からピピッと電子音が聞こえてくる。
そして男の人は俺をその扉の前へ案内すると、この間と同じ様に対応するのであった。
扉を開き「それでは、ごゆるりと」と言いながら、丁寧に頭を下げて……。
俺は扉を潜ると、その先にある地下階段を降りてゆく。
すると其処には、以前と変わらぬ一つ目妖怪の姿をした天目一箇神像のお出迎えがあるのだった。
この一つ目妖怪の像を見るのは今日で2回目だが、相も変わらず妙な威圧感を放っている。
ややもすれば、目から怪光線が飛び出してきそうな雰囲気である。
あの時、沙耶香ちゃんの説明が無かったら、俺はただの妖怪の銅像だと今でも思っていた事だろう。
それ程に神様っぽくないのである。
俺はそんな守護神像との再会をまずしてから、呪術具の置かれた陳列棚の間を通って、奥にあるカウンターへと向かうのだった。
カウンターには、仙人のような風貌をした白い着物姿の、通称 源さんが「フワァァァ」と大きな欠伸をしながら佇んでいた。
なんか知らんが緊張感のない爺さんである。
俺はとりあえず、源さんの前に行くと気楽な感じで挨拶をした。
「おはようございます、源さん」
まだ会って2回目だが、この爺さん自身がそう呼べと言ってたので、俺はフレンドリーに言ったのである。
すると源さんは、欠伸で出た涙を拭いながら挨拶してきた。
「おお、この間の若いのか。おはようさん。で、今日はどうしたんじゃ?」
「今日は、道摩家の注文した術具を受け取りに来たんですよ。なんでも、昨日、此方に届いたと連絡があったらしいので」
「おお! そういえば、なんか届いておったわ。ちょっと待っとれ」
と言うと源さんは、カウンター横にある物置と書かれた扉へと移動する。
そして20秒ほどすると、かなり頑丈そうな金属製のアタッシュケースを持って、其処から現われたのだった。
源さんは、カウンターにそのアタッシュケースを置く。
それから伝票などの確認を始めるのだった。
間近で見ると結構大きいケースである。ついでに少し重そうな感じもした。
俺がマジマジとゴツイそのケースを眺めていると、源さんは言う。
「これじゃ、これが昨日届いた道摩家の荷物じゃ。さて、それじゃ受け取りのサインと認証をさせてもらおうかの」
そう告げた源さんは、B5サイズの納品・受領書と他に、一階で見た物と同じタイプのカードリーダーを出してきたのだった。
俺は納品・受領書にサインをすると、俺のカードをそのリーダーへと通すのである。
それらの確認をすると源さんは言う。
「ほい、ありがとさん。もう、持っていって貰ってもええわい」
「そうですか、ありがとうございます……」
返事をした俺は、とりあえず店内を見回した。
そして源さんに言うのである。
「あのぉ、少し店内の術具を見させて貰ってもいいですか?」と。
「そりゃ構わんよ。何か気になる物でもあったかいの?」
「ハハハ、いや、そういう訳じゃないんですけど。俺、実は見習い術者なんですよ。それで、どんな呪術具があるのかなぁと思って」
今の言葉を聞いた源さんは、眉根をピクッと動かす。
そして意外な物を見るような感じで言うのだった。
「なんじゃ、お前さん。見習いか? 今のお前さんから感じる霊波がそれなりに強いもんじゃから、もう既に【浄士】の階位を授かっておるものじゃとばかり思うとったわい」
今、源さんの口から聞きなれない言葉が出てきた。
俺はやや首を傾げつつも、聞いてみる事にした。
「あのぉ……【じょうしのかいい?】ってなんですか?」
すると源さんは、さっきと同じ様な表情になって言うのである。
「はぁ? お前さんそれも知らんのか? 見習いというより、入門したての若造と言ったところじゃのぅ。プッ、カカカカッ」
そして源さんは、珍獣でも見るような目で俺を見ると、噴出すように笑い出したのであった。
なんか知らんけど少し馬鹿にされてる気がする。
だが、そんな風に思う俺を無視して源さんは続ける。
「まぁええわい。で、階位のことじゃが。鎮守の森には確か、五つの階位があっての。上から順に【浄衆元帥】・【浄将】・【浄佐】・【浄尉】・【浄士】という階位毎の称号があるんじゃよ」
源さんはそう言いながら、カウンターに置かれたメモ帳にそれらの名前を書いてゆく。
そして書き終えると、俺が読めるようにメモ帳を見せるのであった。
俺はそのメモ帳に書かれた階位をじっくり見ると言った。
「なんか、軍隊の階級みたいですね……」
「まぁ修祓者は軍人ではないが、こういった戦闘集団の場合は基本的に『階級無くして軍隊は成立し得ず!』の精神がないと纏まらんからの。じゃから、鎮守の森を立ち上げた者達は、軍隊のような階位名称にしたんじゃろ。まぁこれは儂の想像じゃがの」
「へぇ〜……なるほど」
源さんは続ける。
「それは兎も角。さっき言った【浄士】じゃが、これは鎮守の森に一人前の術者と認められた者に授けられる称号じゃ。とりあえず、この称号を持ってさえおれば、鎮守の森が依頼する修祓を一人で行えるという事じゃわい。まぁこの階位自体にも更に幾つかの階級があるみたいじゃが、そこは儂に聞かんと、お前さんが厄介になってる道摩家の者にでも聞いた方がええじゃろ。ま、こんなとこかの」
「そうなんですか。う〜む……」
俺は源さんの説明を聞き、低く唸りながら腕を組む。
そして、新たに知った事実を頭の中で整理するのであった。
すると源さんはカウンターで頬肘を付き、そんな俺をジーと眺めるのである。
なんかその視線が気になったので俺は尋ねてみた。
「どうかしましたか?」
「そう言えばお前さん。以前も言うたと思うが、女難の相がでとるぞ。大丈夫かいの?」
グサッと、その言葉が俺の胸に突き刺さる。
また、それと共に嫌な汗が背中から出てくるのだった。
俺は若干どもりながらも聞き返す。
「ま、ま、前もそんな事を言ってましたが。ど、どう言う意味ですか?」
「どうもこうも、言った通りの意味じゃよ。儂はこう見えても、人相占いが得意なんじゃ。で、何も起きてないかの?」
俺は口元をひくつかせ、不自然な笑顔を作りながら言った。
「え、ええ。全然、何もありませんよ。多分、気のせいじゃないですか?」
源さんは顎に手をやり、俺の顔をもう一度ジーと眺める。
だが興味をなくしたのか、暫くすると緊張感の無い欠伸をしながら言うのであった。
「フワァァ……まぁええわい。そういえば店の商品を見るんじゃったな? 好きにすればええぞ」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
俺はとりあえずそう返事をする。
そして、このジジイの無責任な言葉で動揺した心を落ち着かせる為に、俺は頭の中で自分に言い聞かせるのだった。
――ったく、心臓に悪いジジイだぜ……人の気も知らないで……。
さっき、人相占いが得意とか言ってたが、所詮占いさ。
其処には確かな根拠なんてものは何も無い。
あるのは無意味な理屈と統計と推論だけさ。
大丈夫、そんな事にはならない。
もしあったとしても、偶然さ。
其処にはなんの因果関係もない。
それに鬼一爺さんとこのジジイ、そして御神籤で、同じ様な事を言われたり書かれたりしてたのも、ただの偶然さ。
そういう事もあるさ。
いや、そうに決まってる。ハ、ハハハハ――
俺はそう自分自身を納得させると、大きく息を吐いて身体をリラックスさせる。
それから店内の術具を見る為、俺は勢いよく後ろに振り向き、一歩前に進んだのだった。
だが、その時!
丁度、俺の後ろに人がやってきていたのである。
考え事をしていた為、まったく人の接近に気付いていなかったのだ。
そして勢いよく振り向いて前に出た所為か、俺はその人物と衝突してバランスを崩すのだった。
向こうもそれと同時に小さく悲鳴を上げた。
「キャッ」
ぶつかった相手は、可愛らしい顔立ちをした、うら若き女性である。
髪の短いボーイッシュな感じの……。
服装は赤っぽいコートにジーンズといった着こなしで、コートの前ボタンは掛かっていない。
その為、コートは半開きの状態で、下に着ているボーダー柄のシャツが見え隠れしていた。
それらの影響か、パッと見は活発な感じに見える女性であった。
しかし、そんな事を考えていられたのも、つかの間。
バランスを崩した俺は、その人物を押し倒すような感じで倒れ込むのであった。
転倒中、衝突による怪我をさせない為に、俺は左手で女性の身体を抱き寄せる。
そして床へと倒れこんだ。
右手から着地した為、ドスンッという感じが右腕に伝わってくる。
だが腕の痛みよりも女性の無事が優先だ。
なので、それを確認する為に俺は言うのだった。
「イテテテ。あ、あのすいません……だ、大丈夫ですか?……ン?」
その時であった。
俺の右掌には柔らかくてプニプニとした物体が納まっていたのである。
なんだ、この柔らかくて気持ちのいい物体は、と思いながら其処へ視線を向ける。
するとなんと!
それはこの女性の胸であった。
俺の手は、コートの向こう側にあるボーダーシャツの膨らみにピタリと吸い付く様に張り付いているのである。
偶然の出来事とはいえ、ラッ……じゃなかった、恐ろしい事である。
俺は謝罪する為に女性の顔へと視線を向ける。
だが其処には、怒りでワナワナと震える女性の顔があったのだった。
これは不味い、と思った俺は急ぎ弁解をする。
「こ、これは不可抗力です。わざとではない。だ、大事な事なのでもう一度言いますよ。断じて、わざとではないです」
だが、必死に言い訳するも、女性は聞く耳持たずといった雰囲気である。
おまけに幽現成る体が有する高精度霊波探知機能が、次第に大きくなる怒りの霊波動を捉えており、俺自身に警告するのである。
……早く逃げろッ! と。
だがもう既に時遅し。
女性は俺の顔を見るや否や、震える右手で握り拳をつくる。
そして俺の顔面目掛けて思いっきりパンチを放ったのだった。
「このぉぉ! 変態エロ男ォォォ!」
女性が放つ渾身の右ストレートが俺の顔面に襲い掛かる。
「ノォォォ」
モロにパンチを貰った俺は、そう叫ぶと共に、痛みと衝撃で後ろの方へ転がった。
そして顔面を両手で押えて悶絶するのである。
女性は俺にパンチを見舞った後、直ぐに立ち上がる。
するとカウンターにいる源さんに向かい、叫ぶように言った。
「出直してきますッ!」と一言。
女性はそれだけ言うと、プンスカと怒りの波動を噴出しながら、物凄く力強い足取りで帰って行くのであった。女性が歩く度に床が揺れているような錯覚を俺は覚える。
そして俺は、床に這い蹲りながら、無言でその女性の後ろ姿を見送るのだった。
女性が去って行ったあとには、シーン……とした静寂が、暫くのあいだ店内を支配する。
そんな中、源さんが重々しく口を開いた。
「……お〜い、お前さん。生きとるか?」
俺は顔を押えながら弱々しく答える。
「た、多少は……」
すると源さんは、二カッと笑顔になって言うのである。
「どうじゃ、儂の人相占いは? 占った儂自身が言うのもなんじゃが、中々のもんじゃろ。ついでに言うと、儂の人相占いは、当たる確率が高くて有名なんじゃよ。カカカカッ」
占いが目の前で的中したのが嬉しかったのか、源さんは豪快に笑うのである。
そんな源さんを見た俺は、動揺を隠す為に無理して平常を装いながら言ってやった。
「た、ただの偶然ですよ。良くあることです、こんな事。アハハハ、ハハ」
だがこの時、俺の脳内では……。
【何の根拠も無い、人相占いが当たったくらいで調子に乗りやがって、このクソジジイがぁぁ!】と、怒りと悔しさを込めた怒号を叫んでいたのであった。