参拾六ノ巻 ~暗躍
《 参拾六ノ巻 》 暗躍
――1月中旬 某県某所
今はもう夕刻前。
とある地方の高い山々に囲まれた、とある場所での話である。
其処から見える周囲の山々や大地には、真っ白な白粉が塗られたかのように雪化粧が施されており、モノクロの風景画を思わせる黒と白の世界があたり一面に広がっていた。
先ほどまで、眩しい銀世界を創るのに一役買っていた日の光も暮れはじめており、外の様子は暗闇の世界をつくる為の準備段階へと入っていた。
光が届かなくなるにしたがい、周囲の気温も下がり始める。そして日が完全に沈む頃には、凍てつく暗闇が辺りを覆い尽くすのである。
今此処に、その闇の移り変わりを見届けるかのように、山の頂から日の光が消えていくのを見守る老人がいた。
その老人の名を土門 宗元という。
良く知る親しい者達からは、一族の長という敬意込めて土門長老と呼ばれている老人である。
紺色の着物姿で窓辺に立つ土門長老は、自身の住む屋敷内の一室から何かを憂うかのように外を眺めていた。
土門長老が佇む12畳の広さを持つその部屋は、座敷と呼ぶに相応しい造りになっている。
光沢鮮やかな漆塗りの床の間には、掛け軸や綺麗な花を生けた美しい模様の花瓶があり、静かに品の良い彩りが其処に添えられていた。
座敷中央には楡材で作られた褐色の美しい木目の座卓が置かれており、この空間をより格調高く演出している。
また、ふっくらとした座布団がその座卓を挟むように置かれており、片方の座布団の横にはA4サイズの封筒が置かれていた。
そんな様相をした座敷内で土門長老は無言で外を眺めながら、何かを待ち続けるのであった。
暫くすると、静寂が支配するこの座敷に向かい、廊下を歩く複数の足音が聞こえてくる。
すると足音の主はこの座敷の襖の前で立ち止まり、中にいる土門長老に向かい呼びかけたのである。
「宗元翁、宗貴にございます。ただいま、安土家の当主、安土 英章様がご到着しましたので、先程申されましたとおり、此方へとお連れして参りました」
外を眺めていた土門長老はその声に振り向くと、横にA4サイズの封筒が置かれた座布団のところへ移動する。
そしてその上に正座をすると、襖に向かい口を開いた。
「うむ、通してくれ」
土門長老の言葉が合図となり、スゥーとした静かな摩擦音と共に襖は開かれる。
すると其処には、かなり短くカットされたショートヘアスタイルが特徴の若い長身の男が一人と、太い眉と右目元にある小さな切り傷が特徴の40代くらいの男が居るのだった。
若い男は上下紺色のダブルスーツ姿で精悍な顔つきの男である。その男は開かれた襖の近くに両膝を降ろし、目を閉じて若干頭を下げるといった居住まいで、もう一人の男に座敷内への入室を促していた。
また、右目元に傷がある男も上下ダブルスーツ姿であるが、こちらは茶褐色の物で、背丈は若い男に比べるとやや低く、中肉中背といった体型の男である。
目元の傷の所為か、若干人相が悪く見えるが、悪人面というわけではなく凛々しい顔つきをしている。やや長めの黒髪は整髪料で後ろに流していた。
その目元に傷のある男は土門長老に一度、頭をたれると、ゆっくりとした動作で座敷内に入ってくる。
そして土門長老の前に置かれた座布団に静かに正座をした。
若い男はそれを見届けると一礼をしてから襖をソッと閉めるのであった。
襖が閉まり、静かになったところで土門長老は口を開く。
「すまぬな、英章殿。新年を迎えて忙しいところ、わざわざお呼び立てして」
「いえ、土門長老。それほど忙しい訳ではございませんので、大して問題はございません。それに、細かい事は下の者達に任せております故……」
10秒程度ではあるが暫し二人の間に沈黙が流れる。
すると英章と呼ばれた男の方から口を開いた。
「……して、土門長老。私を呼んだ、急ぎの用件とはなんでございましょうか?」
英章の問い掛けに土門長老は目を閉じる。
そして、座布団の横に置いてある封筒を手に取ると、英章に手渡した。
「その封筒内に例の男を取り調べた、ここ2週間のあいだの記録が入っておる」
英章はその言葉を聞き太い眉を動かすと、手に持った封筒に視線を向ける。
視線を土門長老に戻し聞き返す。
「といいますと、光民党議員の連続呪殺を行った男の調書でございますか?」
「さようじゃ。そしてお主を呼んだのも、あの男についての事じゃ」
土門長老は少し間を空けてから続ける。
「あの男……『吐露の秘薬』を用いても、なかなか口を割らぬのじゃ。もう既に、並みの術者ならば耐えられず廃人になるに近い量を用いておる。それでも口を割らぬ、厄介な相手じゃ。弱っているにも関わらず、恐ろしく強い精神力と霊体を持っておるわ」
「なんと『吐露の秘薬』を用いたのでありますか……。そして、それでも口を割らぬと」
英章は驚きを交えながら相槌を打つ。
「そうじゃ。それで話は変わるのじゃが、ここから先はお主等にあの男から暗殺の首謀者を聞き出してもらいたいのじゃ。安土家にはこういった難事や禁忌を破った者の懲罰を成し遂げてきた実績も多くある故にな。これが英章殿を此方へお呼び立てした理由であるのじゃよ。儂の所におる者達の中にも、ここから先は安土の手に委ねた方がよい、と言う者もおる故にな。どうじゃ引き受けてくれぬかの? 」
土門長老の話を聞いた英章は、暫し目を閉じて腕を組むと思案する。
すると柔らかい表情になり言った。
「……分かりました、土門長老。その役目、お引き受けいたしましょう」
「おお、やってくれるか。すまぬの。相手は、恐ろしくしぶとい。なんとか、あの男から素性や暗殺首謀者を聞きだして欲しい」
土門長老はそう言うと丁寧に頭を下げる。
そんな長老を見た英章は言う。
「土御門宗家たっての願いとあっては、我等分家の者は断る事などできませぬ。お顔をお上げくだされ。そして、安土の培ってきた技をもって、必ずや聞き出して御覧に入れましょうぞ」
「宜しくお頼み申す、英章殿」
土門長老は再度丁寧に頭を下げる。
そして話を終えた英章は封筒を手に抱え立ち上がると、土門長老に深く一礼をしてこの座敷を退室したのであった。
その時、ほんの一瞬ではあるがニヤリと黒い笑みを浮かべて……。
―― 高天智市 ――
日にちの経つのは早いもので、気が付けば、もう1月の中頃である。
年が明けてすぐは天候にも恵まれて暖かい気温が4日ほど続いたが、此処はやはり雪国。
徐々に天候が悪くなって寒冷前線の訪れと共に、この高天智市にもようやく40cmクラスの積雪が伴う日々がやってきたのである。
お陰で寒い寒い。朝からガンガンエアコンで部屋を暖め、そしてコタツに入りびたりの毎日である。
そんな本格的な冬の訪れと共に、高天大は今月末から後期定期試験になっており、色々と俺も慌しい日々を過ごしている。
まぁ俺の通う工学部は他の文系学科と比べると、普段から宿題やレポート提出頻度が多いので余計にそう感じる。おまけに俺の場合、霊術修行もプラスされるし……。
それは兎も角、試験成績が不合格になり単位が貰えず留年というのは流石に嫌なので、俺もやる事はやっているのだ。
再試という救済手段もあるにはあるが、俺は何回も試験するというのが嫌だし、お金かかるし、まず第一に長い春休みを迎えたいので、全科目一度でカタをつけるつもりだ。
根拠は無いが、多分、イケルと思う。前もって計画的に、空いた時間を復習にあててきたし。
そういったわけで学業に専念する時期なのである。
だが、そうは問屋が卸してはくれず、鬼一爺さんとの呪術修行も平行して、一応、俺はやっているのであった。
一方、現代霊術の修行はというと、コッチの師匠である一樹さんは5日前に『後期試験が終わるまでの間は、鎮守の森からの修祓依頼は気にしなくてよい』と言っていたので、その心遣いに感謝しているところだ。
まったく、鬼一爺さんにも見習って欲しいところである。口に出してはいえないが……。
さて、話は変わる。
実は年が明けてから、俺は一樹さんに同行して二人だけで修祓依頼を3件こなしている。
まぁその内容は一緒に修祓を行うというよりは、実戦の中での現代霊術というものを肌で見て・感じて・理解するといった見学に近いものである。
しかし、完全に見学という訳ではなく、その都度、現代版の霊籠の符とでも呼べる破邪の符を使い、一樹さんのサポートをしながらである。
また、破邪の符以外にも、燃え盛る炎の玉となる火霊珠と呼ばれるものや、悪霊から身を隠すための隠行結界などといった術具を実習訓練のような形で俺は学んでいたのだった。
だが、これらの術具の扱いは、それ程難しいものではないので俺はすぐに使えるようになった。
鬼一爺さん曰く、霊力を扱う俺の技量は既に一人前に近いと言っていたので、それも大いに関係してるのだろう。
ついでにそのあと「まだまだヒヨッコには変わりないがの」と付け加えられたが……。褒めて落とすことを忘れない爺さんである。
それは兎も角……。
以前、鬼一爺さんから聞いた事だが、幽現成る者は霊体と肉体の波長が完全にシンクロしてしまっている為、霊力の扱いが他の者と比べると数段しやすい身体なのだそうだ。
それらを踏まえた俺は、霊力の急成長は身体の防衛機能の一種なのかもしれない、と考えているのであった。何と言っても幽現成る者は霊的被害が加算される体質だからだ。
まぁ要するに、カメレオンや雨蛙が厳しい自然界を生きてゆくために擬態という能力を手に入れたのと同じ様な感じに思った訳である。ちょっと飛躍しすぎかもしれんが……。
とりあえずそんな訳で、現代霊術の方の修練もやり始めながら俺は今に至るということである。
因みに、この修祓には瑞希ちゃんや沙耶香ちゃんは同行していない。
理由は夜遅くに行うものばかりなのと、一樹さんの判断からくるものである。
で、その現代の修祓法であるが。
総括すると、多種多様な呪術具を操る霊力制御の技量と、軸になる戦闘方法の中で、それらをどう組み合わせて修祓していくか、に焦点が置かれたものとなっているようだ。
実際、一樹さんは鵺と自ら呼ぶ、強力な霊刀を扱う剣術を戦闘の中心に据えており、また、剣術に潜むデメリットを幾つかの術具で補佐しながら戦うというのを実践していた。
そして、それらを見た俺は「ほぉぉぉ」と感心すると共に、一樹さんの刀捌きにも感心していたのであった。
流石、剣道の有段者である。ハッキリ言って強い。内心、カッケェェとも思った。
一樹さんの振るう霊刀によって悪霊共が遠慮なくバッサバッサと切り捨てられていく様は、鬼一爺さんが大好きな捕物帳時代劇のクライマックスのワンシーンに出てても違和感が無いくらいである。
その鬼一爺さん曰く、切り倒してゆく一樹さんの様子は『上様』みたいだそうだ。余りに分かり易い比喩表現である。
因みに鬼一爺さんがそう呟いたとき、周囲に悪霊がいるにも拘らず、俺の脳内では月代をした丁髷姿の一樹さんが再生されていたのである。
お陰で、込み上げる笑いを必死に押え込み、尚且つ、妄想を振り払うのに凄く苦労したのを思い出す。
こんな時に余計な事言うなよ、爺! と、その時は心の中で呟いたものである。
まぁそういった実戦を目の当たりにした訳ではあるが、それらの戦闘以外に俺が注目した事が一つあった。
それは……鎮守の森による修祓には、ユニホームとも呼べる専用の着衣が存在するということである。
更に、一樹さんの話では昼と夜とでは着衣が違うとも言っていたので興味深いところである。
俺が見た修祓は夜なので、その時に一樹さんが着ていた着衣は、当然、今でも鮮明に覚えている。
全体の感じとしては日本古来の狩衣と呼ばれる装束をもう少し現代的なアレンジを加えて、更に機敏な動きも出来るように余計な部分は削ぎ落とした黒い衣であった。
俺の主観だが、忍者みたいな黒装束と狩衣を足して2で割った様な着衣である。結構カッコイイ着衣で、俺的には気に入ったデザインだ。
それと色が黒色なのは、恐らく、人目につかないように闇に紛れる為だろう。
一樹さんが修祓の前に人払いの結界を張っていたところを見ると、一般人に見られるのは極力避けている様だからだ。
まぁ鎮守の森自体が秘密結社だそうなので、こればかりは仕方ないのかもしれない。
だが、一樹さんは「場所によっては私服の場合もありうる」と言ってたので、必ずしも着なければいけないという訳ではなく、例外もあるみたいである。
そういった感じの着衣だが、正式には修祓霊装衣と呼ばれているそうだ。
で、この修祓霊装衣、今言った外見的な特徴だけでは勿論無い。
この着衣の最大の特徴は、なんといっても、衣自体に霊力を通す事が出来るという点にある。
更には術者の弱点である霊体中心部分を守るために守護の術式が着衣に編み込まれているのである。
その為、弱い悪霊程度なら仮に襲い掛かってきても、衣に触れた瞬間、消滅するという事らしい。
修祓を行う者達にとっては、とても頼もしい衣なのである。
そしてこの修祓霊装衣も、勿論、鎮守の森と天目堂が共同開発した物だそうで、なんでも、霊力を通しやすい特殊な合成繊維を天目堂が開発し、それをふんだんに使っているそうなのだ。
因みに、この修祓霊装衣の値段は、それ一着で結構良い車が一台買えるほどの恐ろしい値段である。
値段を聞いたとき、【高ッ!】と思わず心の中で叫んだのを覚えている。
まぁそんな素晴らしい衣であるが、実は今日、俺の修祓霊装衣を作る為に一樹さんと沙耶香ちゃんが服の採寸をしたいというので、この後、沙耶香ちゃんのマンションに行く事になっているのだ。
二人はお金の事など気にしなくていいと言ってたが、あの値段を聞いたら流石にそれは無理というもので、なんか後ろめたさを感じる今日この頃である。
また、俺と同じく瑞希ちゃんも沙耶香ちゃんのマンションに向かうそうだ。
まだ修行を始めて間もないが、この先、現場に出る可能性を考慮して瑞希ちゃんの採寸もとらないといけないそうなのである。
それを聞いた俺は、瑞希ちゃんを巻き込んでしまった罪悪感で苛まされた。
だが、俺の苦悶の表情を見ると瑞希ちゃんは笑顔で言うのである。
「気にしないで下さい。それに、こういう世界を知る事が出来たので、寧ろ日比野さんに感謝してるくらいです」と。
その言葉に若干救われた気がしたが、この子の身に危険が及ばないよう俺がしっかりしないといけないとも、同時に思ったのであった。
俺はテレビの上にあるデジタル時計に目を向ける。
時刻は午前9時。正午までに着くように沙耶香ちゃんのマンションに向かえばいいので、まだ少し余裕がある。
因みに、なんで昼飯時の正午に向かうのかというと、沙耶香ちゃんが俺と瑞希ちゃんに手料理をご馳走したいからだそうである。
かなり張り切っていたので、今から楽しみではある。
という訳で話を戻す。
出かけるまでに2時間ほど空き時間があるので、俺は時間を有効利用するために試験勉強をそこに割り当てる計画を立てていた。
そして優先的にすべき事を把握する為、もう一度、試験日程と共通及び専攻科目の不安箇所の確認をする事にしたのだった。
鞄に入っている後期試験の日程をメモった手帳を開くと、俺は早速確認を始める。
するとその時……何気ない生活を送っていた以前の自分の姿が、フト、頭を過ぎったのだった。
それと共に、『変わったな……俺……』と心の中で呟いた。
何故ならば、以前の自分は時間を有効に使うなどといった事からは、無縁の生活を送っていたからだ。
普段の生活において、時間というものをそれ程意識していなかったのである。
御迦土岳で鬼一爺さんと出会い、不憫な体質となってしまった俺は、生きる為に必死になって霊術を覚えはじめた。
だが、現世の理と幽世の理という、普通の人間ならばありえない業を背負う事になった俺は、同時に二つの生活も余儀なくされたのだった。
現実社会での生活と霊異社会(とでも言っておく)での生活をである。
この相反する性質を持った二つの社会を生き抜いていくのは、言うほど生易しいものでは無い。
しかし、鬼一爺さんの存在があったとはいえ、できなければ俺には先が無いような状態であった。
そういった事から、現実社会での学業と霊異社会での霊術修行を苦しいながらも両立させる為に俺は奔走する様になる。
そしていつしか俺は、限りある一日を無駄なく有効に使う為に、日々の時間割システムを普段の生活に取り入れる様になったのであった。
……そんな今までの涙ぐましい苦労を映画のワンシーンの様に俺は思い返していた。
思い返せば思い返すほど四苦八苦していた当時の自分の姿が脳裏に映し出される。
それらの姿に苦笑いを浮かべながらも、気持ちを切り替えて、俺は今すべき事に意識を向かわせるのであった。
―― 1月下旬 某県 某施設 ――
今は午後3時。
雪が深々と降り続ける、とある日の話である。
そこは外洋に面した臨海工業地帯。
この地域には巨大な煙突や鉄塔といった背の高い建造物や、とてつもなく広い床面積の工場施設等や倉庫がいたるところにあり、どの施設も忙しく稼動している最中であった。
外洋に面した場所は港湾や波消しの堤防になっており、また、港湾になっている場所には外国籍のタンカーや幾つかの船舶が停泊していた。
停泊中の船舶の中には、クレーンに吊り上げられて四角い貨物輸送用のコンテナボックスが積み込まれている最中の船も確認出来る。
また、その港湾地域近くには石油化学工業や鉄鋼業等のプラント施設があるせいか、大きな煙突が立ち並んでおり、その口からは絶え間なく白い煙を吐き出しているのであった。
そして工業地帯全域に碁盤の目の様に張り巡らされた道路には、大型のトラックやトレーラーが絶え間なく行き交っており、それらのマフラーが吐き出すディーゼル排気ガス臭が周囲に飛散して漂っていた。
その為、目に見えない大気の淀みがこの地域一帯を覆っているのであった。
だが、そんな淀みを埋めてしまうかのように、空からは沢山の雪が深々と降り続けている。
その雪の影響か、排気ガスにまみれたこの工業地帯に僅かばかりの清涼感を今日はもたらしているのだった。
しかし地面に降り積もった雪には、それらの煙突や車からの排気ガスと共に吐き出された排塵が混ざって、やや黒っぽい雪へと変化した部分もある。
それらの黒っぽい雪はこの地域一帯で働く者達全てに警告するかのように、日々の汚れをまざまざと見せつけているのであった。
そんな工業地帯の内陸に面した一画にヒッソリと佇む建物があった。
白い3階建ての四角い建物で、周囲にある工場や倉庫群に紛れるように佇んでいるのである。
施設の規模としては1ha程の土地面積を持っており、この臨海工業地帯の中では中規模クラスに分類される施設であった。
建物の周囲にはやや高い白い塀があり、その入口部分には鉄製の格子門が設けられている。
門の脇には守衛所があり、其処には黒い警備服に身を包む中年の男が一人、椅子に腰掛けて待機していた。
また、格子門には白い看板が縦に掛けられており、そこにはこう書かれているのである。
【神代総合商事株式会社】と。
今、其処へ一台の黒いセダンタイプの高級車であるSクラス・ベンツが向かっていた。
車には三人の人物が乗っており、運転席と助手席には若い男女が座り、後部座席に一人といった組み合わせである。
その車は建物の近くに来ると減速して、格子門の前で止まる。
守衛所にいる男は車が止まったのを確認すると、雪の降りしきる外へと出る。
そして傘を差して車へと向かったのだった。
外は相当に寒いのか守衛の男が息を吐くたびに、白い煙が舞い上がる。
守衛が車に近付くと後部座席のウインドウが開いた。
ウインドウが開いた先には男が一人乗っており、守衛はその男に向かい、丁寧に頭を下げて挨拶をしたのだった。
「これはこれは、英章様。お勤めご苦労様です」
後部座席に座っていたのは安土 英章であった。
英章は守衛に向かい笑顔を向けると言った。
「うむ、ご苦労。ところで、鎮守の森から話は聞いてますかな?」
「はい、承っております。只今、門を開けますので暫しお待ちを」
守衛の男はそう言った後、手に持ったリモコンを塀の上に取り付けられた黒い電子ロック装置に向ける。
するとゴゴゴゴという音と共に格子門は右にスライドしてゆくのであった。
運転手の男は車が通れる幅まで門がスライドしたところでアクセルを踏む。
すると、遠くで聞こえるかのような静かに唸りを上げるV12気筒エンジンの音が僅かに発せられ、黒いベンツはゆっくりと敷地内へ入っていったのだった。
神代総合商事と看板が掲げられたこの施設は分厚い鉄筋コンクリートで建築されており、外を走る大型トラック等のエンジン音や周囲にある工場から聞こえてくる機械音といった物音はあまり中には入ってこない。
窓や勝手口といった外との接点を持つものが周囲の建物と比較すると少ない為、外界から切り離されたような雰囲気が施設内の至る所で感じられる構造となっているのである。
その他にも内壁や天井はすべて白色で統一されているので非常に清潔感の漂う感じとなっており、それらがより一層、外の薄汚れた世界と切り離す演出をしているのであった。
そして外との接点を持つ数少ない場所のひとつである、建物裏側の資材搬入路と思われるところには天目堂と書かれた貨物トラックが数台止まっており、厳重に梱包された積荷を荷台から慎重に降ろす者達の姿があった。其処では搬入した大小様々な物を台車に載せて所定の位置に移動する者も当然おり、それら幾人もの者達が非常に忙しく動き回っているのだった。
また、施設各所に設けられている通路には、スーツを着た者や白衣を着た者等が頻繁に行き来しており、初めて見る者によっては学校や病院といった公共施設のような印象を受けるかも知れない。
現在の神代総合商事の建物内はそんな様相をした施設となっているのであった。
そんな施設内を車から降りた英章達3人は、先頭に立つスーツ姿をした2人の案内人と共に、ある場所へと向かい移動していた。
英章の両脇には車を運転していた男と助手席にいた女がおり、2人は英章をガードするSPの様な感じで共に歩を進めていた。
男は20代後半から30代くらいで、黒く長い髪を後ろで纏めており、やや鋭く細い目付きながらも美しい顔立ちをした長身の男である。
女の方も男と同様の年齢といったところで、こちらは赤くウェーブのかかった長い髪が特徴であり、そのスッとした鼻の輪郭とやや気の強そうな目付きながらも美しい顔立ちをした長身の女性である。また、肩には黒いバッグを下げていた。
案内人2人は地下フロアに降りてゆく為の階段へ英章達を案内する。
そして5人は地下へと下って行った。
地下へ降りた英章達は、やや入り組んだ廊下を抜けると、様々なセキュリティーが施された灰色の壁が特徴の区画へと進んで行く。
すると【厳重管理区域 許可無き者の立ち入りを禁ずる】と書かれた、分厚く物々しい紫色をした鉄扉の前へと案内されたのであった。
案内人の一人がカードキーを使い、壁に取り付けられたカードリーダーへと通す。
カードを通した途端、ピピッという電子音と共に扉が横にスライドした。
扉が開いたのを確認すると案内人の2人は英章達をその奥へと誘うのだった。
物々しい鉄扉の奥は物音が極端に少ない空間になっており、人の気配が殆ど感じられない非常に静かで重々しい雰囲気のする区域となっていた。
その為、5人が歩を進めるたびにカツカツッとした革靴と床の衝突音が通路の隅々まで響き渡る。
そんなヒッソリとした区域を暫く歩いて行くと、案内人の2人はある扉の前で立ち止まったのである。
其処には【罪穢の間】というプレートの掲げられた黒い鉄製の扉があり、そこで案内人の一人が口を開いたのだった。
「英章様、此方でございます。あの者は鎮守の森に所属する者ではございませんが、土門長老の指示により、この罪穢の間の一番奥の部屋にて拘束しております。今、この間にはあの男だけしか拘束しておりませんので、場所は直ぐにお分かりになるでしょう」
英章は無言で扉の前に立つと案内人の男は続ける。
「これがあの男のいる部屋の鍵でございます。私共は外におりますので、何かございましたらご連絡下さい。」
案内人の男は番号の書かれた鍵を同行者の男に手渡すと言った。
「それでは、後は宜しくお願い致します」
「うむ。では参ろうか、二人共」
英章は案内人二人に軽く会釈をした後、同行している男女二人に視線を向けそう言った。
「はい」と返事をした後に男女は頷く。
そこでもう一人の案内人の男は前に出て、壁に取り付けられた認証装置に暗証番号を幾つか打ち込む。
打ち込みが終わるとカチャリという音と共に鉄扉は解錠される。
それを確認した案内人の男は、鉄扉の取っ手を掴むとゆっくりと開くのだった。
扉が開いてゆくに従い、蝶番の辺りからギィィィと金属同士の擦れる音が通路に響き渡る。
そして扉が開ききると英章達3人は其処を潜り、罪穢の間へと足を踏み入れたのであった。
英章達が入ったところで入口の扉は閉められる。
罪穢の間へ入った英章達3人は先ず最初に室内を見回した。
この罪穢の間は床や壁、そして天井に至るまで全面茶色の塗装が施された奇妙な空間であった。
更にそれらの床や壁には何らかの霊術が施されているのか、奇妙な術式模様が描かれており、またそれらの影響か、室内全体が圧迫感の漂う異様な雰囲気を醸し出しているのである。
またこの罪穢の間は一本の通路を境に幾つかの小部屋があり、その一つ一つが牢獄の様に厳重な鉄扉が設けられており、物々しい様相となっている。
その為、刑務所の様な雰囲気も同時に感じられる所であった。
そんな空間を英章は無表情で見回していると、同行している若い男が英章に向かい口を開いた。
「英章様。先程聞いた話では、恐らく、あの一番奥の部屋で拘束されていると思われます」
男はそう言うと通路の先を指差した。
「そうか……行くぞ」
男が示す指の先にある扉を見詰めた英章は、そう答えると鋭い目付きになり通路の奥へと歩み始めた。二人もそれに続く。
通路奥の部屋の前に辿り着いた3人は監視窓から室内を覗く。
すると其処には、奇妙な法陣の描かれた床の上に両手足を鎖で固定された白髪の男が一人いるのであった。
そう、あの男である。其処には眩道斎が拘束されているのだ。
中の様子を見た英章は、眩道斎の変貌に驚きながらも男に言う。
「……鍵を」
「はい」
男は先程渡された鍵を手に持ち鍵穴に差し込み解錠する。
そして中へと入るのだった。
眩道斎が拘束されているこの部屋は広さ12畳程の正四角形スペースで、壁から出ている鎖に眩道斎は繋がれていた。
室内の様相は、監視カメラが入口付近に取り付けられているのと、天井に設けられた照明と通気ダクトだけの他には何もない部屋である。
そんな室内に入った英章達3人は、10秒ほど無言で眩道斎を見詰める。
同行してきた男と女は扉の付近で待機した。
そして英章はゆっくりと眩道斎に歩み寄るのであった。
眩道斎に1mくらい近付くと、英章は微笑を浮かべてやや小さい声で話し出した。
「今から私は独り言を話します。後ろに監視カメラがございますので、眩道斎殿が口を動かすと読唇術で読まれてしまいますからね」
「…………」
眩道斎は無言で英章に視線を向ける。
それを肯定と受け取った英章は続ける。
「先ずはお久しぶりです。といっても、お会いしてから1ヶ月程しか経っていませんが……。手短に言います。今日、私が来たのは、あなたをお迎えする為の準備に来たのですよ。【エールの御国】は貴方をまだ必要としておりますからね」
英章はそう言った後、後ろにいる女へ視線を向かわせる。
そして言った。
「摩耶、例の物を此処へ」
摩耶と呼ばれた女性は、肩に掛けたバッグから丁寧に折畳んだ紫色の布を取り出すと英章に手渡した。
それを受け取ると英章は眩道斎に言う。
「それでは安土家古来からの罪穢れを祓う形式に則り、貴方の頭上に祓いの衣を掛けさせて頂きます」
英章はそう言った後に紫色の祓いの衣をフワッと広げて、やや蹲った格好をした眩道斎の頭部を覆いつくす様にかける。
そして顔全てを覆い隠し、監視カメラから見えない様にすると言った。
「さぁ、これでカメラからはもう口元は確認できませんので、貴方に話をして頂いても問題はありません。どうぞ御発言なさって下さい」
二人の間に暫しの沈黙が流れる。
すると眩道斎は弱々しく小さな声ながらも言葉を発した。
「……そ……組織は……何と言っている?」
「貴方には暫くのあいだ日本を離れてもらい、聖樹様の元へ向かっていただく手筈となっております」
「……聖樹様の元?」
「はい。今、聖樹様は日本を離れており、遥か中東の地において【エールの御国】の者達と【契約の書】の解読に勤しんでおられます。そこへ向かっていただきます。しかし、理由までは私も聞かされておりませんので、ご容赦の程を」
英章の言葉を聞いた眩道斎は身動き一つせずに無言でいた。
それを肯定と受け取り、英章は続ける。
「ところで眩道斎殿、一体何が起きたのでございますか? 貴方のこの変わり様は、只事ではありませんぞ」
今の言葉を聞くなり、眩道斎は暫しの間、噴出する怒りを抑えるかのように、霊圧を上げながら身体を震わせた。
暫くの間そうやって小刻みに身体を震わせていたが、10秒ほどすると治まリ始める。
そして震えが完全に治まったところで口を開いた。
「……気をつけろ……見た事もない術と呪術具を使う奴がいる」
「見た事もない術と呪術具を使う奴ですと……どういう事ですか?」
「どうもこうも、言ったとおりの言葉だ。……そしてあの後、土御門宗家の奴等はそいつと接触した可能性が高い。……精々、気をつけるんだな……計画の不安要素になるかもしれんぞ」
英章は今の言葉を聞き目を細める。
そして更に眩道斎に近寄ると鋭い表情で尋ねるのだった。
「今の話……もう少し詳しく聞かせて頂けますか」と――
―― 3時間後 ――
英章達3人はもうすでに神代総合商事を離れ、やって来た時のベンツに乗って日の落ちた暗い道路を走っていた。
このベンツが走る大通りは除雪車が走った後のようで、道路に積もった雪の大部分が壁の様に路肩に寄せられていた。その為、3人がやって来たときと比べるとかなり道の開けた状態となっている。
だが外は雪が依然と降り続けており、明るかった日中と比べると今は暗い為、フロントガラス前方の視界をより悪くしていたのだった。
そんな様相の道路を走っている車内での事である。
後部座席に一人座る英章は前にいる二人に話しかける。
「……秀真、眩道斎殿をあそこから出す為に、先程言った手順で準備に取り掛かってくれ」
運転席でハンドルを握る秀真はバックミラー越しに英章を捉えると、目配せした後に返事をした。
「はい、お任せ下さい。しかし、眩道斎殿の事は宗家にどう説明されるのですか?」
英章は秀真の質問に軽く笑みを浮かべると言った。
「フッ、秀真。今回の事は、そのまま宗家には報告するつもりだ。それにこのような場合、下手に捏ね繰り回すと碌な事がないからな。まぁそれだけが理由ではないが……(クククッ、長老自身が無視できない事実もあるしな)……」
「ですが、眩道斎殿の素性がばれると不味いのでは?」
「クククッ、いや、かえって好都合かもしれん。【封印の儀】が済めば、あの男は私の管理下に名目上置かれる事となるからな。わざわざ陽炎の存在を使うような、回りくどい遣り方も必要無くなるのだ。そして私の管理下になりさえすれば、後の事はどうとでもなる。フッ、まぁ強いて難を上げるならば、大神化工建設のODA事業に関わっている光民党の族議員がまだ一人残っているのが問題だが、それについてはもう手は打った。したがって問題はこの件の処理だけだ」
「そういう事ですか、なるほど。では【封印の儀】の根回しと他の調整を早急に取り掛かります」
「うむ。頼むぞ」
秀真の返事を聞いた英章は、助手席にいる摩耶に続けて言った。
「そして、摩耶。お前には眩道斎殿が言っていた例の男と妙な老人の霊の調査をお願いしたい。くれぐれも土御門宗家の者には気付かれんようにな」
摩耶は後ろに振り向くと鋭い目付きになり返事する。
「はい、畏まりました。眩道斎殿の話によりますと、その男はF県に在住の可能性が高いので、この後にも移動を開始してすぐに調査にあたります」
摩耶の意気込みを見た英章は頼もしくも思ったが、正体不明の術者な為、忠告もした。
「ハハハ、そう慌てるな。明日で構わん。だが、あの眩道斎をあんな風にした得体の知れない奴だ。慎重に調査してくれ」
「はい」
英章は二人を交互に見詰めると、最後にもう一度言うのだった。
「二人共、すまんが宜しく頼むぞ」
「「はい、仰せのままに」」
二人の息の揃った返事を聞いた英章は、口の端を吊り上げ黒い笑みを浮かべる。
そして後部シートの背もたれに寄りかかりながら、窓の向こうに見える暗闇に覆われた世界へ視線を向けるのであった。