弐拾弐ノ巻 ~依り代
《 弐拾弐ノ巻 》 依り代
――大学祭から4日後の早朝。
俺はいつもと同じく、高天智天満宮の裏山にて霊術の修行に勤しんでいた。
ここ最近は雨なども降らない為、修練のしやすい日々がずっと続いている。有難い事だ。
また、今日の裏山は霧が深いという事は無く、非常に視界が良好である。
勿論、日の出の時刻ではない為、周囲はまだ真っ暗だ。が、霧によって視界が妨げられる事は無いので、そこに関しては気分的にもやや楽になっているのだった。
しかし、今は11月下旬に入ろうかという時季であり、外の気温はかなり低い。F県は中部地方の北側という事もあり、この頃になると場合によっては霜が降りる事もある。
昨晩、ネットで気象庁の発表する予想気温を調べたところ、この時間帯で0℃〜5℃と表示されていた。数字を見ただけで震えてしまったのを俺は思い出す。
以上の事から、今までの肌寒い感じから、霜焼けを起こしそうな凍てつく冬の寒さへと変りつつあるのだった。
そういった気候の変化に伴い、当然、俺の服装も上下共にかなり厚着になっている。ジャージの上から白いウィンドブレーカーを着るといった格好だ。
そんな冬の寒さに近い中、俺は術の修練をしている訳なのであった。
だが、そういった自然の厳しさばかりではなく、今の俺には別の苦しさも圧し掛かっていた。
それは、この間から修行方法がレベルアップしており、より身体と霊体への負担が大きなものに変っているからなのであった。
修行内容としては、障壁の符術を行いながら、真言術『浄化の炎』を同時に発動させる。といった単純な内容である。
しかし、この修行は正しく、『言うが易し、行うは難し』の内容で、今までの修行と比べるとそれは大変なものであった。
これまでの修行で、霊力を分散させる事はやってきた。だが、二つの術を同時に行使するというのは、それとは比較にならない程の負担が俺の身体に襲い掛かってくるのだ。
何故ならば、二つの術の霊力供給と維持、そして制御を同時に行わなければいけないからである。
そしてその行為は、今まで行っていた、一つの術を行使しながら霊力を分散させる事とは訳が違うのだ。
だが、これが出来なければ術の進化など絵に描いた餅である。
拠って、この先を見据えた場合に避けられない事項である為、俺は苦しいながらも頑張っているのであった。
この修行をやり始めたのは、丁度、大学祭の翌日からである。
その前日、五行相関の術の基礎である障壁の符術の成功率が上がってきた事から、鬼一爺さんが提案してきたのが事の発端であった。
その時の鬼一爺さんは修行の強制ではなく、あくまでも提案をしてきただけである。
また、俺自身も術の同時発動を行えば、かなり身体に負担が掛かる事は百も承知であった。
だが、俺は臆病者である。危険から身を護る術というのは選択肢が多いほうが断然良い。
そういった自己防衛の面から、爺さんの提案に自ら買って出た為に、こうなったという訳である。
さて、それでその修行であるが。
俺はつい先程、障壁の結界を周囲に張り巡らせながら、浄化の炎を発動させていた。
しかし、同時に術を行使してから30秒程経過したところで、俺はその苦しさのあまり両膝をつく。
そして、今は四つん這いになって肩で息をしているところであった。
額からは、外気にさらされた冷たい汗が筋を描いて鼻に伝い地面に滴り落ちている。
荒い吐息は白い煙を吐くかのように俺の口から勢い良く出ていた。
また、体からは物凄い熱気を発している為、白いオーラを纏う姿の様に見えるのだ。
そんな俺に鬼一爺さんは近づき、陽気な声で話しかけてくる。
(フォフォフォ。涼一、昨日よりは長く術を発動させられたの。といっても僅かなもんじゃがの)
「ハァハァハァ……そんな簡単に……出来るとは思ってないよ」
と、やや荒い呼吸をしながら俺は言う。
そして喋り終えた後、大きく深呼吸をしながら徐々に心拍を落ち着かせていくのだった。
そんな俺を見ながら鬼一爺さんは言う。
(まぁ、それでも良くやっとる。お主が術を扱える様になる速さは、これ以上ないくらいじゃ。じゃが、あまり背伸びをした修練は、身体に負担が掛かりすぎて良くはない。あまり慌てても碌な事にはならんぞ。今日はもう此の位にしておいた方が良いじゃろう)
鬼一爺さんは、俺の身体を心配しているようである。
そのせいか、どこか諭す様な感じで俺に言うのだった。
爺さんに忠告をされた俺は荒い息を整えながら考える。
そして、鬼一爺さんの提案を受け入れる事にしたのである。
「そうだね。あまり無理をすると実生活に支障が出てくる感じがする。今日はもうやめとくよ」
と答えた俺は、地面にドカッと座り込み身体をリラックスさせる。
(その方がええ。時は沢山ある。無理せぬ様に続けて行くのが大事なのじゃ)
そんな訳で、俺は爺さんの意見に従い、今日はもうこれで術の修練は終わりにする事にしたのだった。
俺は深呼吸を繰り返しながら空を見上げると、眼を閉じて心も落ち着かせる。
それから5分後。
心身ともに、だいぶ落ち着いてきたところで、鬼一爺さんに向かい俺は話しかけた。
「なぁ、鬼一爺さん」
(何じゃ?)
「今、俺がやろうとしている『浄化の炎』の進化だけど、符術の他にも併用できる術とかってあるの?」
(フム。勿論、符術以外にも併用できる術や依り代はあるぞ)
「よりしろ? なんだそれ?」
俺は眉根を寄せて問い掛ける。
(依り代とは、本来の意味するところは神霊が依り憑く物という意味じゃが、ここで我が言う依り代は己以外の霊力源だと思えば良い。色々とあるんじゃよ。例えば、樹齢が何千年と経た霊木や、悠久の年月を経て生まれた霊石とかの。また、大地を駆け巡る地脈も、一応、そういった類に入るかも知れんの)
「へぇ〜。早い話が、霊符の効果を秘めた天然物があるって事か。なるほどねぇ、それは良い事を聞いたよ」
俺は顎に手を当てて色々と考えを巡らせる。
しかし、鬼一爺さんはやや固い声色で、こう付け加えてきた。
(じゃが、己の霊力とは波長も違うから、そのまま使える訳ではない。依り代の力を使うのも、ある程度修練を必要とするのじゃよ)
「エ、そうなの? なんかややこしそうだね」
俺が難しそうな表情で言うと、爺さんはニコやかに答える。
(フォフォフォ。まぁ、今の涼一なら、大概の霊木や霊石はもう扱えるじゃろ。それらが発する波長と己の霊力の波長を合わせれば良いだけじゃからな)
「鬼一爺さんは簡単に言うけどさ、それって結構難しそうな気がするぞ」
(何を言っておる。お主には我が今までに散々その修行を課してきたぞ。霊力の扱いを)
「ウ〜ン。でもなぁ、実物を見ないと俺も自信ない。それに一度は体験しないとなぁ」
俺は腕組むと唸りながら不安な声で言う。
そんな弱気な俺を見た爺さんは、溜息混じりに言うのだった。
(フゥ、仕方ないの。それじゃ今度、我が依り代のある場所を探して案内してやろう)
「おお、マジで? 悪いな鬼一爺さん」
と、爺さんの話を聞いた俺は、やや高めのテンションで答える。
(まぁ仕方あるまい。実物を見た事ないのであれば、お主も実感が湧かぬじゃろ。おっと、そうじゃ。一つ言い忘れとったわい)
「言い忘れてたこと?」
(今言った霊木は大丈夫じゃからよいとして。問題は霊石のほうじゃ)
鬼一爺さんはやや難しい表情で言う。
「霊石がやばいのか?」
(霊石の中には強い思念が渦巻いておる事もあるから、安全という訳ではないのじゃよ。要するに、強い念に打ち勝てる精神力も必要という事じゃな。これも一応、覚えておくのじゃ)
「強い精神力か……。それは兎も角、今の思念で思い出したけど。さっき、地脈も同じ類に入るっていってたよな?」
ここで俺は、先程、爺さんが言っていた地脈の事が気になり問い掛けた。
「地脈って、大地の霊力だろ。そんなもん人間が扱えるの?」
(一応、扱えるのじゃが、地脈の力を操るのは結構難しいんじゃ。大地の霊力は所々で波や強さ等がバラバラじゃからの。まぁ、今のお主でも場所によっては出来るかもしれんが)
「フゥン。なんか知らんけど。面倒そうやなぁ」
(それに色々と危険な面もあるしの……)
鬼一爺さんは顎に手を当てながら言うと、俺の顔を難しい表情で見る。
俺はその様子と言葉が気になり、問い掛けた。
「な、何だよ。なんかあるのか、爺さん」
俺の問い掛けに、暫く眼を閉じて考えた鬼一爺さんは、何かの結論をだした様に言うのだった。
(今のお主になら話しても良かろう。それに何れは避けて通れぬ日が来るかも知れぬしの)
「何だよ、避けて通れぬ日って……」
(まぁもしかしたらという話じゃ。という訳で続けるぞい。実は、地脈を操る為には、一つ大きな問題があるのじゃよ)
「大きな問題?」
(そうじゃ。以前、お主にも話したとは思うが、地脈とは霊魂が大地に帰る為の道の事じゃ。つまり、其処には大きな霊力と共に膨大な思念が渦巻いておる。その比は霊石どころの話ではないのじゃ。という事は、術者自身が地脈の思念に取り込まれん様に、術を施す事を先ずはせねばならんのじゃよ)
俺は爺さんの説明を聞くうちに自分の体質を思い出す。
そして、念の為、聞いてみた。
「それって、幽現成る者の特異体質で乗り切るのは無理なの?」と。
しかし、鬼一爺さんは首を縦には振らずに続ける。
(嫌、幽現成る者でも思念の影響はやはり受ける。憑依とはまた違うんじゃ。思念とは生き物の様々な願望や欲望の集まりじゃからの。まぁ、そういった強い思念は殆どが人のものであるが)
「ウゥゥ。なんか、爺さんの話を聞く限りだと、やばそうな方法の気がするな……」
俺は顔を引きつらせてそう言うと、鬼一爺さんはそんな俺を見ながらニコやかに話し出す。
(フォフォフォ。要するに、思念に取り込まれん様な強い精神力と、それを防ぐ術が必要という事じゃわい。すまんの、驚かせるつもりは無かったんじゃ)
「いや、気にしなくていいよ。これもまた勉強になったし」
爺さんの笑顔で幾分か恐怖感は和らいだ為、俺はホッとした表情でそう答える。まったく、心臓に悪いジジイだ。
そして、鬼一爺さんは、今言ったことの総括をするのだった。
(ま、何にせよ。自分以外の霊力を使うには、色々と知っておかねば成らぬ事があるという事じゃな。それと、精神面をもう少し鍛えれば、お主にも扱える日が来るという事じゃ。嫌、そうならねばならん時が来る筈じゃ。精進する以外ないの。フォフォフォ)
「まぁとりあえず、俺の歩む道は長く険しいという事が良く分かったよ」
(そういう事じゃの。涼一は割りと物分りがいいから楽で良いわい。フォフォフォ)
鬼一爺さんはそう答えると陽気に笑い出す。
「まったく、爺さんも嫌味を言うようになるとはね。フゥゥ」
俺はそんな爺さんに苦笑いを浮かべながら時計を確認した。
時刻は5時50分である。
「まぁ、今の自分にはまだ地脈を扱うのは早い気がするから、記憶の片隅に留めて置くよ。さて、それじゃ、そろそろ戻るかな」
俺は立ち上がると身体に付いた土埃を払う。そして周囲を見回した。
東の空を見ると、薄っすらとではあるが明るくなってきていた。
どうやら、もう暫くすると夜が明けるようだ。
それを確認した俺は、周辺に散らばった五行の霊符を回収した後、アパートへと帰るのだった。
―― 11月24日 日曜日 ――
此処はF県立総合体育館。時刻は午前10時半である。
俺は今、体育館の一角にある控え室の様なところで正座をしている。入口の向こうからは「メェェン」とか「ドォウ」とか言った景気の良い掛け声が聞こえてくる。体育館では試合の真っ最中のようだ。何処の誰が、どのような相手と試合をしてるのかまでは、此処からでは分からない。
この控え室の広さは大体6畳くらいの部屋で、周囲には薄いマット等が積み上げられていた。どうやら用具室も兼ねている部屋のようだ。
周囲の壁は白い塗装がされており、汚れはあまりなく純白といった感じの内壁である。
しかし、入口扉のすぐ横にある電灯のスイッチがある壁周りだけは、手垢で黒っぽくなっていた。だいぶ不特定多数の人間が、手探りでスイッチを探した様である。
だが、今はこの部屋の電灯は点いてない。外壁に面した部屋である為、窓から外の光が入ってくるからだ。
また、外に耳を澄ますと、ポタポタと落ちる雨音が聞こえてくる。
此処に来る前までは嫌な感じの曇り空ではあったが、どうやら、体育館の中で時を過ごす内に本降りになった様である。
そんな来た時との状況の違いを感慨深く感じながら、俺は今、この用具室で背筋を伸ばして沈黙しながら正座をしているのであった。
かといって、別に此処で精神統一をしているという訳ではない。
何故、此処で正座をしているのかというと、唯単に、姫会長からお叱りを受けている最中だからなのであった。
勿論、俺だけではない。今回の大会に出場した男子団体戦のメンバー5人全員である。
こんな展開になっている理由はというと、早い話が初戦敗退したからだ。
試合の展開としては2勝3敗という負け方で、一応、その内の一勝は俺だったりする。
そう言うと俺が頑張った風に聞こえるかも知れないが、実情は相手も初心者に近かったからである。拠って、あまり勝ったからといって自慢にはならないのである。
という訳で、団体戦に早々と散った俺達は、その後、此処に呼び出されて姫会長からこっ酷くお叱りを受ける事になったというのが、これまでのあらましである。勝った人間も負けた人間も同様にである。連帯責任というやつだ。
そして只今、姫会長は不甲斐無い俺達男衆に渇を入れるべく、説教をしている真っ最中なのであった。大きな声で言うから結構頭に響く……。
「いいかお前等ぁ、負けちまったもんは仕方がねぇ。明日からまた出直しだ。練習もこれまで以上に厳しくやっていくからそのつもりでいろよ。良いなッ! 返事ハァッ」
「「はい、仰る事は御尤もであります。また、明日から性根を入れ替えて切磋琢磨しながら精進致します」」
と声を揃えて俺達男衆は姫会長に誓いを立てる。
大関昇進した相撲取りが行う、伝達式での口上の様に……。
まぁそんな訳で、午前中の内に予定が無くなった俺達男衆は、個人戦にエントリーしている女子3人のサポートをする為、労力の提供と応援をこの後は行う予定である。
そして、説教部屋を出た俺達は次の戦場に移動すべく体育館内を進軍するのだった。
進軍の途中、西田さんが俺に声をかけてきた。
「日比野君、一勝おめでとう」と。
そう言われると俺も照れる。
だが、相手が弱かったという事実があるので、それを盛り込んで答えた。
「嫌、あれは相手も初心者みたいなもんでしたから、唯のごっつぁん勝利ですよ」
「ハハハッ、まぁそうはいっても勝ちは勝ちだよ」
西田さんは爽やかに笑いながら言う。
しかし、もう一つの一勝は西田さんだ。
そんな訳で、俺は素直に西田さんの勝利を褒め称えた。
「でも、西田さんも凄いじゃないですか。相手の大将に勝ったんですから。流石ですよ」
「まぁ、こうみえても高校時代からやってるからね。ハハハ」
と、西田さんは上機嫌で言う。一瞬、キラッと金縁眼鏡の端が光った気がする。
どうやら、まんざらでもないようだ。団体戦で負けはしたが、気分は良い様である。
こんな会話をしながら俺達は進んで行くと、体育館の中二階にある観客席から俺を呼ぶ声が聞こえてくるのだった。
「日比野さぁん。お疲れ様でしたぁ」と。
俺はその声の発信源を見上げる。
すると、其処には剣道着姿でテンションの高い瑞希ちゃんがいた。
絵的には、中二階の端に設けられた格子状の柵から顔をヒョッコリと出すような感じである。
また、いつもと変らず、屈託のない笑顔が印象的だ。
だが、今日の瑞希ちゃんは何時ものサイドテールではなく、ポニーテールになっていた。
これは俺の想像だが、恐らく、面を被るときに邪魔になるからに違いない。俺はこの結論に絶対の自信を持っている。
という訳で話を戻す。
実は瑞希ちゃんもこの大会に出場していたのだ。知ったのは一週間前である。
この県民大会には学生の部で、中学生と高校生に別れており、それに瑞希ちゃんの通う高天智聖承女子学院もエントリーしていたという訳だ。
因みに俺達は一般の部で出場していた。勿論、大学生の部というのが無いからである。俺らは学生扱いはしてもらえないのが悲しいところだ。
そんな元気溢れる瑞希ちゃんに、俺は笑顔を向けて返事をした。
「オッ瑞希ちゃん。試合は順調かい」
「エヘへ、試合はこの後にあるんです。ちゃんと、応援してくださいね」
と瑞希ちゃんはニコニコとした表情で答える。
「頑張ってね、瑞希ちゃん。応援するよ。俺の分まで頑張ってね」
「ハイ。話は変りますけど、日比野さんの戦いぶりは、初心者に見えないくらい堂々としてましたよ」
「ハハハ、まぁビギナーズラックみたいなもんだよ」
「またまた、謙遜しちゃって」
といった会話をしていると、瑞希ちゃんの後ろから此方に近づく人物がいた。
そして、その人物は瑞希ちゃんの隣にやってきたのだった。
私服姿の可愛らしい女の子で、歳は瑞希ちゃんと同じくらいだ。
上は白いパーカータイプのジャケットで、下が青いデニムスカートといった格好をしていた。
また、特徴は何と言っても長く左右に垂らしたツインテールである。
というか俺はそのツインテールに見覚えがあった。嫌、訂正。その子に見覚えがあった。
何時ぞやのF県立図書館で見たあの子である。あの時と同じツインテールが特徴の子である。
そして、俺が霊力の扱いに長けた危険人物として記憶しているあの子なのであった。
それを思い出すなり、俺の中の何かが警報を鳴らす。鬼一爺さんの霊圧が下がっているかどうかの確認をしたいところではあったが、今、確認すれば確実に不審に思われる為、俺は平静を装う方に意識を集中するのだった。
「ン、日比野さん? どうしたんですか」
瑞希ちゃんは首を傾げながらそう聞いてきた。
多分、この子を見た俺の顔が、中途半端な表情になった為だろう。危ない危ない。
と、そこで隣にきたツインテールの子に瑞希ちゃんは気付く。
そして、話しかけた。
「あれ、道間さん。どうしたの?」
と瑞希ちゃんが話しかけると同時に、その子は俺に挨拶をしてきた。
「あのこの間は、どうも」っと。
俺も返事を返さないのもどうかと思い、ニコヤカに挨拶した。
「ああ、こんにちは。えっと、そう言えば図書館の時の子だよね?」と、やや白々しくではあるが。
「図書館では変な声を出してすいませんでした」
あの時と同じ様に、この子は丁寧にまた頭を下げる。
「そこまでしなくていいよ。別になんとも思ってないからさ。ハハハ」
そう答えたところで、瑞希ちゃんがやや驚きつつも俺に聞いてきた。
「日比野さん。道間さんと知り合いなんですか?」
「ウ〜ン……知り合いというか。知らないというか。詳しい事はその子に聞けば分かるよ。っと、それじゃ向こうに行かなきゃならないから、またね。瑞希ちゃん」
向こうにある目的地を見ると、他のメンバーはもう先に行ってしまっていた。
遅れると姫会長から激が飛ぶような気がした為、俺は慌ててそう返事すると、逃げる様にこの場を去るのだった。
―― 瑞希と沙耶香は ――
二人は涼一が走って行く方向を見送る。
やや焦った感じの走り方ではあったが、皆のところに遅れる事無く涼一は辿り着いた様である。
そんな涼一の姿を見届けた瑞希は沙耶香に振り向く。
そして、今の涼一の態度が気になったので沙耶香に問い掛けるのだった。
「道間さん。日比野さんと何かあったんですか?」
沙耶香は瑞希に振り向くと、恥ずかしそうな仕草をしながら話し始める。
「実はこの間、F県立図書館に行った時の事なんです。その時に、あの方の前でビックリして大きな声を出してしまったんです。それで御気を悪くされたかな、と思ってもう一度謝ったんですよ。今、思い出しても恥ずかしい話です」
「なんだ、そんな事があったんですか。私、てっきり気まずい出来事でもあったのかと思っちゃった。テヘへ」
瑞希は涼一が普段と違う様子に見えたので心配したが、今の話を聞き大した内容ではなかったのでホッとする。
「高島さん。あの方のお名前は日比野と仰るんですか?」
「うん、そうだよ。私も最近仲良くなったんだけど、結構、面白い人なんだ。あ、勿論それだけじゃなくて、とても良い人だよ」
瑞希は涼一のいる方向を見ながら、今までの事を思い返して言う。
「そうですか……」
沙耶香は言葉少なにそう答えると、瑞希と同じく涼一のいる方向を見る。そして考えるのだった。
何故ならば、先日会った時に一緒に見かけた鬼一法眼の姿が見えない為である。
しかし、幾ら意識を集中させても姿が確認できない。その為、体育館周囲も見回すのだった。
だが、沙耶香は首を傾げる。見当たらないからである。
図書館で見たときは確かに涼一に憑いているように見えたので、沙耶香はおかしいなと思いつつ、また涼一の方へと視線を戻す。
しかし、涼一の周囲には鬼一法眼の姿が見えない為、沙耶香は悩むのであった。
沙耶香がそうやって難しい表情をしていると、瑞希が話しかけてきた。
「道間さん。此処に来たって事は剣道に興味があるの?」
「いいえ。今日、私が来たのは兄の付き添いなんです。兄が剣道をしているものですから」
と沙耶香は言うと、下のフロアに居る一樹の方へ視線を向けた。
その視線を瑞希も追う。
「アッそういえば、高等部の道間先生って、道間さんのお兄さんだもんね。私、すっかり忘れてた」
そこで瑞希はペロッと舌を出す。
そして続ける。
「でも、お兄さんが剣道部の副顧問なんだから、道間さんも剣道してみたらどう? 結構おもしろいよ」
「……そうですね。考えてみます」
沙耶香は穏やかな笑顔を作り瑞希に言う。
二人はその後も暫く会話をすると、観客席を降りて下のフロアへと移動するのだった。