拾七ノ巻 ~宗家
【壱】
今の時刻は午後10時。
風呂から上がって一息ついた俺は、机に置かれたノートPCを立ち上げ、WORDを起動した。
そして、幽現成る者に目覚めてから、これまでに体験してきた数々の出来事の記録を始めたのである。
こんな記録をつけ始めたのは5日前からだが、理由は二つある。一つは、あの日以降、怒涛のように押し寄せてくる霊的事象が、俺自身、把握しきれなくなってきたからだ。
まぁこれは仕方がない。もう次から次へと妙な現象に巻き込まれるので、現世と幽世の区別も曖昧になってきているからである。
そして、もう一つ……これが一番の理由だったりする。
実は数日前、俺以外にも同じ体質の人間がいるのかどうかを鬼一爺さんに訊ねた事が、そもそもの発端であった。
その時、鬼一爺さんはこう言っていたのだ。
世の中には生まれつき俺のような境遇の人間が極僅かだがいるかもしれない。もし、そんな人間に出会う事があったら、俺がその人間を守り導いてやれ、と。
考えてみれば、鬼一爺さんの時代にも『幽現成る者』の伝承が既にあるので、俺のような境遇の人間はいたという事だ。なので当然、現在でも俺以外の幽現成る者がいてもおかしくはないのである。
そんな事を漠然と考えたとき、俺は今の自分が非常に恵まれた環境にいる事を知り、それに感謝したのだった。
何故ならば、鬼一法眼という霊術を授けてくれる師がいたお陰で、俺は今まで身を守る事が出来たからである。
俺がこの体質になったのは鬼一爺さんの所為ではあるが、同時に身を守れているのも鬼一爺さんのお陰なのだ。
だが、もしかすると他に居るかもしれない『幽現成る者』は、同じ境遇ではない可能性もあるのである。
誰にも頼れず、霊障等で苦しむ者もいるのかもしれないし、場合によっては、その為に命を落とす者もいるのかもしれない。
もし、そんな境遇の人に出会うことがあった時、俺の体験を記した記録があれば役に立つに違いない。俺はそういった思いから、今までの記録をつけようと決心したのである。
鬼一爺さんも俺のこの行動に賛同している。
そして『幽現成る者』という同じ境遇の者にだけは、鬼一爺さんも秘密の共有を認めてくれたのであった。
話は変わるが、鬼一爺さんにはその時、『お主が幽現成る者であるという事を誰にも話してはならぬぞ』と釘を刺された。
理由は分からないが、とにかく、秘密にしておかないと駄目なんだそうだ。
瑞希ちゃんと浅野さんは、俺がオカルトに関わる人間て事は知っているが【幽現成る体】という特異体質な事は知らない。つまり、今のところ、鬼一爺さんと当事者である俺以外知らない事なのである。話を戻そう。
そんなわけで、以上のことから俺は記録をつけるわけだが、さっきから隣で興味深そうにこの作業を見ている者がいるのだった。鬼一爺さんである。
今まではあまり気にしてなかったようだが、ここ最近、PCの作業を見だしてからこれにも興味を持ち始めたようだ。
俺が軽快にキーボードをタイプしてゆくと、鬼一爺さんが首を傾げながら話し掛けてきた。
『涼一、このぱそこんというのは一体どうなっておるのじゃ? 我にはまったく理解できぬわ。これといい、けいたいでんわ、とか言う物といい。なんちゅう世の中じゃ』
「どうなっていると言われてもなぁ。まぁこれもテレビと同じで文明の利器といったところだよ」
俺は鬼一爺さんのストレートな質問に、やや苦笑いを浮かべながら答えた。
だが、考えてみれば鬼一爺さんのいた時代から、凡そ800年以上も経過している為、こんな反応になるのは仕方ないかもしれない。
俺も爺さんの立場だったら、同じ反応をしていた筈だ。嫌、もっとカルチャーショックを受けているかもしれない。
『そう言えば涼一。このぱそこんちゅう奴を使えば、過去を調べる事も出来る、とか前に言っておったの?』
「ああ、そういえば、そんな話を以前したような気がするなぁ。で、何か知りたい事でもあるのか?」
すると鬼一爺さんは、難しい表情をしながら考え込む仕草をする。
そして、意を決した表情で口を開いたのだった。
『涼一、少し調べてもらいたい事がある。今から800年程前の人物なんじゃが、賀茂在憲と言う者の事を調べてくれぬか?』
「かものあきのり……一体どんな字だ? まぁいいや。ちょっと待っててくれるか? この一文だけ打たせてくれ」
俺はそう答えると、タイプ中の一文を打ってゆく。
それが終わると記録を一旦上書き保存し、俺はブラウザを起動したのである。
俺は検索ページを開き、さっき鬼一爺さんが言っていた名前を打ち込み変換する。
ここで爺さんに確認をしてもらった。
「賀茂の明憲って出たけど、これ絶対違うよな?」
『賀茂は良いが、下が一文字違う。明ではなく、存在の在という字じゃ』
今の説明で何となく分かったので、俺はとりあえず修正した。
「ン? てことはこれか。賀茂在憲っと。どう、これであってる?」
『オオッ、そうじゃ、これじゃ。これで調べられるのかの』
「OK。じゃあ、これで検索してみるよ。えっと、今から800年程前というと丁度、平安時代だから、それもキーワードに追加して検索っと」
俺は軽いノリでそれらをタイプするとenterを押す。
そして、キーワードに引っかかったサイトがずらっとモニターに表示された。
というわけで、俺はとりあえず、その先頭にあるサイトをクリックした。
次の瞬間、えらい長い年表がモニターに現れる。
俺はそこで鬼一爺さんに確認をした。
「こんなの出てきたけど、爺さんはこの人の一体何が知りたいんだ?」
すると鬼一爺さんは遠い眼をして口を開いたのである。
『この名は……我の真の名じゃ。鬼一法眼の名は、鬼や物の怪等を見抜く智慧の眼力が、賀茂一族の中で一番抜きん出ていた為についた号のようなものじゃからの』
「へぇ、そうなの? じゃあ、鬼一法眼てあだ名みたいなもんか。ふぅん、なるほどねぇ。おっ、爺さん、ここに陰陽頭って書いてあるけど。何だこれ?」
鬼一爺さんの名前が書いてある欄にそう記述されていた。
すると鬼一爺さんは当時を振り返っているのか、穏やかな表情で話し始めたのである。
『陰陽頭とは、その昔、国を律令法に基づき治むる八省の一つ、中務省に属した陰陽寮を取り仕切る官位の事じゃ』
「え! てことは……爺さん結構エリートなのか? 今の話を聞く限りだと大臣とか長官のように聞こえるぞ」
国を治むる八省という件が、俺にそういう先入観を抱かせる。
『フォフォフォ、その昔と言ったであろう。我のいた世では、平家や源氏といった武門の棟梁が台頭しておったから、そのような力はもう失っておったわい。まぁ、陰陽寮は祭事や吉凶の卜占、星見の天文道、暦を作る事がある為に、以前と変わらず存在はしていたがの』
鬼一爺さんの話を聞いて行くうちに、俺の中で陰陽師というものの考え方が若干変わった。
どうやら陰陽師というのは当時の政治機関の一つだったようだ。
映画とかの影響で、呪術集団のイメージが強いが、どうも違うようである。
「へぇ、色々と勉強になるなぁ。で、爺さんは自分の事が後世に残っているかどうかを知りたかったのか?」
『それもあるが、今の世の賀茂一族はどうなっておるのかと思うての。我の事が今の世でも記されているのは分かった。次は賀茂の一族のことを見てくれぬか?』
「了解っと」
そして、俺はまた軽いノリで検索をする。
しかし、サイトを検索して暫くすると、あるサイトのところで意外な記述が、俺の目に飛び込んで来たのであった。
俺は鬼一爺さんに、サイトの内容を説明をするかどうかを迷った。
何故ならば、賀茂家の本流の家系は永禄八年(1565年)に、勘解由小路在富という人を最後に断絶してしまっていたからだ。
因みに賀茂家は室町時代から勘解由小路と称したらしい。理由は良く分からん。それとは別だが、安倍家もこの時期に土御門と名を変えたそうだ。ややこしやぁ〜である。そして、この土御門家も、その後の世で衰退していくようだ。
だが、江戸時代に入るとこの両家に救いの手が差し伸べられる。江戸幕府が陰陽師を統括する理由で、賀茂家の分家である幸徳井家と土御門家を復興させたのだ。
しかし、それでもまた両家は、歴史に翻弄される事となるのだった。
明治時代に入ると、明治政府は陰陽道を迷信として廃止したからである。要するにこの両家は、衰退と繁栄を繰り返して今に至るのだ。
このネット上に書かれた歴史を辿ると、凄く山あり谷ありで記録されていたのである。
俺は正直にそれを説明するかどうかを悩んだ。恐らく、鬼一爺さんもショックを受けるだろうと思ったからだ。
そんな風に脳内で色々と考え中であるが、隣では鬼一爺さんが真剣な表情でこう聞いてくるのだった。
『涼一、一体何が書かれておるのじゃ。早く教えてくれぬか?』と……。
そんな爺さんの真剣な表情を見ると、とてもじゃないが俺は嘘などつけない。今まで散々世話にもなってるし。
その為、俺はサイトに書かれている内容を正直に説明する事にしたのであった。
「分かったよ、爺さん。でも、ここに載ってるのはあくまでも第三者が記録したモノだ。ビックリするような事が書いてあっても、悪意とかそういうのは無いから、それだけは頭に入れといてくれよな」
俺は一応、念を押す意味も込めてそう言った。
鬼一爺さんは頷く。
『分かっておる。さぁ、説明するのじゃ』
「えっと、ここにはこう書かれているんだ」――
―― それから10分後。
思ったとおり、鬼一爺さんはやや元気をなくしていた。当然だろう。
子々孫々と受け継がれていると思っていた自分の家系の本筋が途絶え、挙句の果てには、分家の方もどうなっているか分からないという現状であれば、そうなるのも仕方が無いように思える。
当時の賀茂家というのが、どういった状態であったかまでは流石に分からないが、俺が今開いてるサイトの画面にはそう表示されているのだ。
まぁそれはさておき、少し元気付けてやらねばなるまい。
「鬼一爺さん……まだ、完全に分家の方は途絶えたわけじゃないだろう。今もどこかで陰陽の技を伝えているはずだよ。元気だしなよ」
俺の言葉を聞き、鬼一爺さんは目を閉じるとやや低いトーンで答えた。
『……そうじゃな。確かに、本筋が途絶えてしまったのは残念じゃが、これも世の理と思うしかないの。しかし、今の涼一の説明を聞くと、どうやら他の陰陽道の大家も衰退を繰り返しておるようじゃな。激しい歴史の動乱に抗ってゆけるほどの力が、当時の陰陽師達には無かったという事か。まぁ、これも時勢なのじゃろう。寂しい話じゃがな』
鬼一爺さんは、そう総括すると目を開き、俺に顔を向けた。
その表情は先程までとは違い、幾分か元気を取り戻したようである。
それを見て少し安心した俺は、サイトの中で気になる記述があった為、それを訊いてみる事にした。
「ところで、爺さん。聞きたい事があるんだけどさ。この賀茂家というのが陰陽道の宗家と記述してあるけどそうなのかい?」
『そうじゃ。我のいた時代では安倍氏も台頭していたが、それ以前の陰陽寮を仕切る陰陽頭は賀茂氏が代々担っておったからの』
「へぇ、由緒ある家柄って感じやね。おッ! これを見ると、爺さんの後に安倍泰親って人が陰陽頭になってるね」
『そうじゃ。優秀な陰陽師であり、術者でもあったの。じゃが、源氏と平家の戦いが終わると、自分も役目を終えたかの様にこの世を去って仕舞いおったがの……』
鬼一爺さんは当時の事を懐かしんでるのか、遠い目をしてそう言った。
「ふぅん、そうだったのか。まぁ色々とあったんだね。あ、それはそうと、さっき爺さんの話を聞いてて思ったんだけど、陰陽寮って今で言う国立天文台のような所なんだな。当時の天文学や暦を計算してたところを見るとそんな気がするよ。呪術のイメージの方が、色濃く感じるから想像つかなかったけどさ」
『以前も言うたと思うが、我等の呪術は秘匿とされていた部類のモノじゃ。当時の帝ですら、この事は僅かな部分しか知らぬ話じゃからな。それに陰陽道とは、あくまでも大陸から来た陰陽五行説という自然思想に基づいた学問の事じゃ。陰陽道は霊術や呪術とは違うのじゃよ。まぁ我等が祭事や修祓も行っていたから、そういった呪術の面も色濃く伝えられておるのじゃろ』
鬼一爺さんはそこで言葉を切ると、何かを思い出したのか、思案顔になった。
そして、少し間を空けて話を続けたのである。
『ついでじゃ、賀茂氏の祖先の話もしてやろう。遥か昔に大陸から伝わった道術や密教、そして日ノ本古来からある霊術等が元ではあるが、それらを組み合わせ完成された術の領域にまで高めたのが、賀茂氏の祖 役小角と呼ばれる方じゃ。正しくは賀茂役君小角という。我も若い頃は祖先の色んな説話を良く耳にしたわい。鬼を二匹従えておったとかの。まぁ、そんな話は殆ど作り話ではあるが、ただ……とてつもない霊力の持主であったようじゃな。そういった記述を我は陰陽寮の書物でよく見かけたのを憶えておる。恐らくは本当にそうだったのじゃろう。そのくらいでなければ、あのような数々の高等な呪術は到底扱えぬからの。まぁそういうわけで、涼一に教えておる術は全て、役小角様が編み出した秘術なのじゃよ。これは憶えておいて欲しい』
「役小角様か。了解、憶えておくよ。でも、途方もない話だなぁ。なんか、爺さんの話を聞いてるとJHKの『その時、歴史が動いた!』のナレーションを思い出すよ」
俺はとりあえず思った事を口にした。
因みにJHKとは、ジャパン放送協会の略である。
『フォフォフォ、JHKというのは良く分からぬが、まぁそういう事じゃわい』
「秘匿にしていた理由は以前聞いたけど、当時は陰陽師が悪霊や物の怪を退治してたんだろ? しかも以前の話を聞く限りじゃ、俺の習う術は極限られた人間だけしか伝えてないようだから、術者は色々と忙しそうだね」
『フム、確かにそうじゃが、そういった修祓を行うのは何も陰陽師だけではないぞ。当時から呪禁道や密教者、霊術に長けた者等が沢山いたからの。そういった民間の者達も修祓を行っておったのじゃ。陰陽師だけでは流石に無理じゃわい』
聞きなれない言葉が出てきたので、俺は訊いてみた。
「なぁ、今出てきた修祓って言葉は何? 何となく前後の話から意味は想像できるけどさ」
『ああ、修祓というのは、宮中で使われておった言葉で御祓いの事じゃ。まぁ、あまり深く気にせんでも良いぞ』
「あ、御祓いの事か。へぇ、色んな言い方があるんだね。オッ、もうこんな時間だ」
俺はそう納得すると、テレビの上に置いた時計に視線を向かわせる。すると、時刻はもう10時45分を刻んでいた。
もうそろそろ寝ないと流石に明日の朝が辛い為、俺はPCの電源を落とした後、洗面所へ移動して歯を磨き、この日は床に就いたのであった。
【弐】
―― 11月1日 高天智聖承女子学院 ――
学園町の西側に位置するこの女子学院が高天智市に創設されたのは、今から30年前の事で、比較的歴史の浅い学校法人である。
外壁はレンガ造りを思わせる赤い壁で、屋根はビザンティン建築様式を思わせる丸いドーム状となっている事もあり、この周囲にある現代建築の建造物と比べると、一際目を引く存在であった。
建物自体も大きく、4階建ての大きな校舎が、川の字のように並んで3棟建てられている。
また、校舎の裏には大きなグランドや体育館に加え、テニスコートや弓道場、そして武道場やプールといった施設が整備されており、様々な部活動に対応できる学校法人であった。
だが、この学校は他の公立学校とは違い、私立校である。しかも、ミッション系の学校である為、そういった公立校とは一線を画している部分があった。
それは、体育館の付近に大聖堂を思わせる建築様式の礼拝堂が建てられているという事であった。
外壁一面が純白で、礼拝堂の天辺は鐘塔となっていた。そこには、金色の大きな鐘が設置されている。そんな、美しく神秘的な建造物があるのであった。
また、この高天智聖承女子学院は中・高一貫校で、校舎もそれぞれ別棟となっている。中等部と高等部を含めた全生徒数は1200人程といったところで、この近辺の教育機関としては、かなり大きな部類に入る学校であった。
制服は中等部と高等部でデザインが違っており、学校関係者じゃなくても一目でどちらの制服か分かる仕様になっていた。
これは、そんな高天智聖承女子学院中等部での話である――
「瑞希、オッハヨー」
中等部の廊下を歩いていた瑞希は、その声に反応し、振り返る。
すると、思ったとおりの人物だったのか、瑞希は優しく微笑みながら口を開いたのである。
「オハヨー、由梨。どうしたの? 今日はいつもと違ってテンション高いけど」
由梨と呼ばれたこの女子生徒は、瑞希と良く似た背格好の子である。
髪は短くカットされたショートヘアをしており、黒縁の眼鏡が特徴のややボーイッシュな雰囲気を持った女子生徒であった。
由梨は目を大きくしながら瑞希に言った。
「ビ、ビッグニュースがあるのよ!」
瑞希はいつもと違うテンションの友人を見て興味が湧くが、由梨はその時々によってお調子者のような時もある為、あまり期待はしないではいた。
しかし、知らない事は知りたくなるのが人間というものである。
当然、瑞希もそうは思っていても気になる為に、問い掛けたのだった。
「ビッグニュース? ってどんな話」
「それがね、私達のクラスに転校生が来るんだって! 勿論、情報は先生からだから間違いないと思うよ」
「へぇ、そうなの? じゃあ、今年は私を含めて二人目の転校生ということなんだ」
「あ、そういえば、そうだね。一年の内に二人、しかも同じクラスだなんて、珍しいよね」
「だよね。あ、由梨、そろそろ朝のHR始まっちゃうよ」
瑞希はそう言って腕時計に目を向けた。
するとそこで、天井に埋め込まれた丸いスピーカーからチャイムが鳴り出したのであった。
「あ、ホントだ。ダッシュだよ、瑞希」
「だね!」
二人はそのチャイムを聞くなり、教室へと駆け出したのである。
瑞希と由梨が教室に着くと、他の皆はもう席についていた。
だが、まだ先生は来ていない為、瑞希はその光景を見て安堵の表情を浮かべる。
そして、窓際にある自分の席へと向かったのである。
席に着くと、隣にいる女子生徒が瑞希に声を掛けてきた。
「瑞希、危なかったね。なにしてたの?」
「実は、購買から戻る途中、由梨と世間話をしてたの。そしたら、チャイムが鳴り出しちゃって。で、ダッシュで教室に戻ってきたんだ」
瑞希はそう言うとペロッと舌を出した。
「世間話って、なんかオバサンみたいだよ、瑞希」
「エヘへッ、いいのいいの。細かい事は気にしない、気にしない」
二人がそんなやり取りをしていると、教室の外に担任の女性教師がやって来た。
クラスの生徒達は、入口のスライドドアにある小さな窓ガラスに視線を向けている。そこからは廊下にいる担任の顔が見えるからである。
担任教師は入口の前で立ち止まると、廊下で隣にいる制服姿の少女と話をしていた。
他の生徒達も不思議に思ったのか、互いに顔を見合わせてヒソヒソと小声で話を始める。
瑞希もその一人であり、隣に座る加奈に小声で話しかけたのであった。
「加奈、なんか知らないけど、転校生が来るって由梨が言ってたよ」
「エッ、そうなの? 転校生が来るんだ。初耳よ」
加奈はやや驚きつつ、入口のスライドドアへと視線を向けた。
それから程なくして、その女教師はニコやかに頷きながら教室のスライドドアを引いたのであった。
ドアが開くと同時に、教室内のヒソヒソ話もピタリと止む。
スライドドアが最後まで引かれると、上下灰色のスーツに身を包む若い女性教師が姿を現した。
その教師はスラッとしたスマートな体型をしており、少しウェーブのかかった長い髪の毛は、肩のやや下辺りまで伸びている。
穏やかな表情と雰囲気が特徴の若い女性教師であった。
女性教師は爽やかな笑みを携えながら、教壇に立った。
と、そこで、このクラスの学級委員と思われる子が号令を掛けたのである。
「起立・礼・着席」と、大きな声が教室に響きわたる。
その後、女性教師はクラス全体を見渡し、口を開いたのである。
「皆さん、おはようございます。今日はホームルームを始める前に、皆さんに紹介したい転校生がいます。それじゃ入ってきてください」
女性教師はそう告げた後、廊下の方に向かって手招きをした。
すると、入口のドアが引かれ、長い髪をツインテールに纏めた女子生徒が入ってきたのであった。この生徒は勿論、沙耶香である。
担任教師は隣に来たのを確認すると、やや小さい声で沙耶香に言った。
「それじゃ、自己紹介を皆さんにして下さい。落ち着いてね」
「は、はい」
そう促された沙耶香は、やや顔を赤らめながらクラス全員に自己紹介をした。
「は、初めまして。この度、愛知聖承女子学院から転校してきました道間沙耶香と申します。よ、宜しくお願いします」
沙耶香の自己紹介が終わると、担任教師が付け加えをする。
「道間さんは、家族のご都合で愛知県名古屋市からこのF県高天智市に来る事になりました。まだ、この地の事はあまり分かりませんから、皆さんも道間さんに色々と教えてあげてくださいね」
担任教師が笑顔でそう言うと、クラス全員が笑顔で沙耶香を歓迎したのであった。
【よろしくね、道間さん】
そんな明るい生徒達を見て、沙耶香は若干驚きつつ、ホッと安堵の息を吐いた。
そしてもう一度、笑顔を携えながら皆に挨拶をしたのである。
【こちらこそ、宜しくお願いします】と――