拾伍ノ巻 ~剣道愛好会 二
【壱】
今の時刻は午後5時半。
俺は武道場の隅っこにあるやや薄暗い壁際で、1人寂しく剣道愛好会の練習を見学していた。
今日は本当に災難であった。この愛好会に顔を出して、入会の断りを入れて帰ろうとしただけなのだが、本人の意思に関係なく、いつの間にか会員にさせられたのだ。
姫会長の有無を言わせぬ迫力に、俺の心が負けてこうなったわけであるが、なにか納得のいかないモヤモヤしたモノが俺の胸の中で渦巻いていた。が、すべては俺の意思の弱さが原因なので、自己責任以外何者でもない。諦めるしかないのである。
そして、そんな複雑な心境である俺の隣には、嬉々とした鬼一爺さんがおり、感心した様子で剣道の練習風景を眺めているのだった。
『コリャえぇわい。涼一の心身を鍛えるにはもってこいじゃわい。フォフォフォフォ』
好い気なもんである。俺の気も知らないで。
まぁそれはさておき、姫会長は恐ろしい迫力を持った女性であった。
見た目は美しい方なのだが、その美貌から飛び出す暴言や威嚇の数々はハッキリ言って初対面の人には想像できないであろう。
俺自身、最初は腹話術で別の人間が喋っているのでは……と思ったほどだ。
気の弱い人間なら、軽い発作か失禁をしていたかもしれない。それ程に見た目と言動のギャップが凄いのだった。これも陰陽の理か? と思ってしまうほどである。
で、その姫会長はというと、今は男子4人と女子2人に構えや足裁き等を細かく指導をしているところであった。
姫会長の本名は姫野由香里さんと言うらしい。現在、西田さんと同じく3年で、学部も同じ経済学部のようだ。そして、姫会長は剣道の有段者らしく、高校時代は県の大会で1・2を争うほどの武芸者だったようだ。そういう経緯もあり、この剣道愛好会では会長兼監督といった立場のようである。
また、これは西田さんからあの後に聞いた話だが、高天智市にある姫野興産株式会社の社長令嬢だそうである。因みにこの会社、893さんと繋がりがあると言われているヤバい雰囲気を持った会社だそうだ。その為、西田さんはこの話をした後、本人の前では絶対にするなよ! と念押ししてきたのである。どうも実家の話をされるのが嫌いなようだ。
俺は自分の身に危険が及ぶと思った為、言われたとおり、今の話は絶対にしないようにしようと硬く誓ったのだった。
話は変わるが、あの後、俺は西田さんに「こうなると分かっててココに連れてきたのですか?」と問い詰めた。
すると西田さんは「そうだよ。ゴメンな、日比野君。俺も辛かったんだよ。……スマナイ」
と、声を噛殺すようにそう言い残して練習へと向かったのだった。
そういう風に返されると俺も辛いが、これはある意味詐欺のようにも思えたので、言う事は言っておくつもりである。
つーわけで、話を戻す。
見学を始めてから暫くすると、姫会長が竹刀を片手に俺の方へとやってきた。
その足取りは物凄く重量感が感じられる。
俺は姫会長が近づいてくるにつれ、心臓の鼓動が早くなる。
そして、姫会長は俺の前に来ると、高圧的に言い放ったのであった。
「オイ、お前。日比野といったか。立ちなッ」
「ハ、ハイッ」
逆らったら竹刀でシバかれる可能性が高い為、俺はすぐさま背筋を伸ばし立ち上がった。
姫会長は、立ち上がった俺の周囲をまるで品定めをするかのように眺めてゆく。
一通り眺めたところで、姫会長は口を開いた。
「へぇ……思ってたよりヤワな身体じゃなさそうだ。オメェ剣道の経験はあんのか?」
「い、いいえ。ありません」
俺の返事を聞き、姫会長は右肩に竹刀を預けながら、何やら考え出した。
少し間を空け、姫会長は訊いてくる。
「オゥ、お前……今日からこの愛好会に入るに当たり、これから知っておかなきゃならねぇことがある。いいか、良く聞けよ。この剣道愛好会に入ったからには、学校側に部として認めさせるのが皆の目標だ。その為には人員と活動実績がいる。よってお前にはその実績作りのためにも、これから頑張ってもらわなきゃならねぇ。ここまでは理解できたか?」
「え? え、え~と……」
凄い剣幕で言うので俺はどもってしまった。
しかし、そんな俺を見て、姫会長は大きな声ですかさず凄んできたのである。
【理解できたのか? どぉなんだ?】
「ハ、ハイッ。理解できましたぁ」
今のドスの利いた一声でキン○マが半分くらいに縮み上がったような気がした。
「よし! 続けるぞ。で、その実績作りの一環として、お前には来月の終わりにあるF県・剣道県民大会の団体戦に出場してもらうつもりだ」
「ええ!? あのぉ、俺、剣道の経験無いのに大会なんか出ても良いんでしょうか?」
俺はなんとか勇気を振り絞り、問いかけてみた。
「心配するな。それまでにある程度は鍛えてやる。覚悟しとけよ。あとの細かい事は西田とか他の部員に聞いとけ。それと、今日のところは皆の練習風景をしっかりと目に焼き付けておけ。以上だ」
姫会長はそれを言うなり、また皆の所へと戻って行ったのである。
俺は今の緊迫した空気から解放されたので、とりあえずフゥと大きく息を吐いた。
そして、今の説明をもう一度頭の中で復唱したのである。
そこで鬼一爺さんが小声で俺に話しかけてきた。
『涼一、今の世でも剣の腕を磨く事があるのじゃのう。我は武士はもう居らんと思うておったが、意外な形でそれらの名残を見つけたわい』
鬼一爺さんは感慨深い表情で、皆が竹刀を振る光景を眺めている。
恐らく、嘗ての懐かしさが込み上げているのだろう。
「まぁな。先人達の残した遺産は、スポーツや学問の中で継承している部分が多いからな。無くなるというより、少し形を変えて今の世の中に溶け込んではいるよ」
『フム、なるほどのぉ。おっと、これ以上話をすると不味いの。我は暫く口を噤んでおくとするかの』
鬼一爺さんはそう言うと、ユラユラと浮かびながら、隣の柔道部の方へ見学に行ったのだった。
そして俺は、一人寂しく皆の練習風景を眺めたのである。
――それから1時間後。
練習も終わり、皆は武道場の中央に集まっていた。俺も西田さんに呼ばれその中に加わった。
そして、男女合わせて7人が横に整列すると正面にいる姫会長に向かい「ありがとうございましたぁ」と挨拶をして解散となったのである。
そこで西田さんが申し訳なさそうに俺に声を掛けてきた。
「日比野君、今日は本当にゴメン。俺も悪気は無いんだよ」
「西田さん……理由ぐらいは聞かせてもらえますか?」
本当は怒鳴ってやりたい気分だった。
だが、だいぶ時間は経過していたので、俺も冷静に物事を見れるようにはなっていたのだ。
「り、理由かい……理由は姫からも聞いたと思うけど、この愛好会を部に昇格させる為にどうしても人が必要だったからさ」
「でも、俺じゃなくても他に人はいますよ」
俺がそう言うと、西田さんは困った表情で話を続けた。
「実はさ、もう既に色々と当たっては見たんだけど、全部駄目だったんだよ。おまけにこの時期になると、大概の奴は他のサークルや専攻科目の研究、バイト等に落ち着いてしまってるからね。昨日、日比野君を呼びに行った時も駄目元で行ったんだよ。そしたら、まだ身の振り方が決まってない感じだったからさ。コリャイケル! と思って、こうなったというわけさ」
西田さんは言い終えると肩の力を抜き、深く頭を下げて謝ってきた。
「すまない。悪いのは俺だ。それと姫の事はあまり恨まないでやって欲しい。こんな事言うと虫が良すぎるかも知れないけど」
そんな西田さんを見ていたら俺もどうでも良くなってしまい、とりあえず許す事にした。
「もういいですよ。あそこで姫会長に断れない俺にも責任があるんで。頭上げてください」
俺の言葉を聞き、西田さんは少し明るい表情になった。
「日比野君、今日は悪い事をしたから、帰りに飯を奢るよ。着替えてくるから、ちょっと待っててくれるかい?」
「あ、はい……」
西田さんはそう言って、部室の中へと入っていった。
一人になった俺は、武道場の壁に寄りかかり、腕を組んで目を閉じる。
そして、これからの学生生活を憂いながら溜息を吐いたのである。
(はぁ……なんかここ最近、今までの俺には無かったような展開が怒涛のように訪れるなぁ。まさか、サークル活動で剣道をやる事になるとは。トホホホ。しかも、夜の悪霊退治と入れ替わるかのようなこの展開。勘弁して欲しいわ。けど、剣道って色々と揃えなアカン物とか多そうやし金もかかりそうやなぁ。まぁこの辺の事は西田さんに聞いておくかぁ。あぁぁ憂鬱や……)
俺がネガティブにこれからのキャンパスライフを考えていると、部室から袴姿の女子三人が出てきた。勿論、その中には姫会長の姿がある。
しかし、その時の姫会長の表情は、非常に穏やかな笑顔を作っており、練習中のような夜叉の雰囲気は纏っていなかった。
寧ろ、その辺の女子学生といった感じで、三人は冗談を言い合っているところであった。
そんな姫会長を見るなり、ある一つの仮定が俺の脳裏に過ぎった。そう……それは二重人格なのではないかという事である。まぁこんな事を訊こうものなら折檻されるのは目に見えているので、心の中に留めておくつもりだ。触らぬ神に祟りなしである。
俺がそんな風に考えていると、三人の内の一人が俺に気付き、挨拶をしてきた。
「あ、新入り君。それじゃあ、また明日ね。さようなら」
ショートヘアの子で、眼鏡を掛けた女性だ。首にはタオルが掛かっている。
顔はやや幼さの残る童顔で、先程の練習風景を見る限りでは初級クラスの腕前のようだ。
因みに名前は知らない。
何故なら自己紹介をまだしてないからだ。
「お疲れ様でございました。どうぞ、お気をつけてお帰りくださいませ」
俺は頭を下げ丁寧に挨拶をした。
その様はどこかの執事のように、他の人には見えたかもしれない。
恐らく、視界に入った姫会長に恐怖する俺の深層心理がそうさせたのだろう。
そして、その女性が俺に挨拶を終えると、姫会長達三人は武道場を後にしたのだった。
彼女達に続いて、男4人がゾロゾロと部室から出てきた。服装は皆、普段着になっている。
男連中がここで着替えているという事は、女子は別の場所で着替えるのだろう。
ふとそんな事を考えていると、西田さんが俺の元にやってきた。
「お、すまんね、待たせてしまって。それじゃあ、行こうか。安くて旨い飯屋がこの近くにあるんだよ」
「はい、それじゃ、宜しくです」
西田さんは先程の申し訳なさそうな表情から一転、インテリっぽい雰囲気に戻っており、昨日と同じようなテンションで俺をその店に案内してくれたのであった。
【弐】
外は日もすっかり沈み、暗い夜空がこの高天智市を包み込んでいた。
今の時間帯は、仕事を終えたサラリーマンの姿等も多く、歩道は若干混雑している。
大通りには沢山の自動車が行き交っており、辺りに漂う車の排気ガスの臭いが、時折、俺の鼻を刺激した。
そんな夜の学園町を進んで行くと、西田さんは途中やや狭い路地に入ってゆく。
そして、その路地を進み、西田さんは古い民家のような建物の前で立ち止まったのだった。
建物の玄関には青い暖簾が掛かっており、その上にはライトアップされた看板があった。その看板には『大衆食堂 大権現』と、江戸書体で力強く大きく書かれていた。
色んな意味で凄い名前の飯屋であった。
何故なら、大権現という大層な名前と、大衆食堂という微妙なカテゴリーが一致してないからだ。
(ここ最近、ギャップの激しい物ばかり目にするな……)
ふとそんな事を思いながら、俺は西田さんの後に続いて暖簾を潜り、店の中へと入っていったのである。
店の中は一般的な大衆食堂なので、そんなに広くはなかった。
間取りはカウンター席と通路を挟んで、壁面側に座敷といった感じのよくある定食屋だ。
時間帯がちょうど夕飯時な為、それなりに客は入っていた。まぁまぁ繁盛しているようである。
まぁそれはさておき、俺達は奥のカウンター席が空いていたのでそこに移動した。
席に着くと西田さんのお勧めメニューである、天麩羅大権現定食という物を注文した。恐らく金比羅大権現にかけた名前だろう。
注文を終えたところで、西田さんは俺に話しかけてきた。
「日比野君、剣道の事で分らない事があったら、なんでも聞いてくれよ」
「自分は何も分らんので、何から聞いてよいやら……」
「そうだねぇ……まず、自前で用意したほうがいい物を言うよ。剣道着と竹刀は自分の物が欲しいね。防具類は愛好会の物を使えばいいからさ」
「剣道着は分りますが、竹刀は借りれないんですか?」
「まぁ、一応予備でそういう竹刀も部室にあるんだが、皆、自前のを使ってるよ」
「そうですか。因みに、剣道着と竹刀で幾らくらいかかるんですか?」
この質問に西田さんは困った表情を浮かべた。
「う~ん……それは難しいな。ピンキリだからね。姫に頼んでみた方がいいかもな。姫ならこの業界良く知ってるから、良くて手ごろな値段の物を取り寄せてくれるよ」
「姫会長ですか……俺、恥ずかしい話なんですけど、あの人コワいです」
「はは、ははは、まぁね……俺もだよ」
西田さんは乾いた笑いをした後に、ボソッと呟くように同調した。
「でも、姫は悪い子じゃ無いんだよ。ただ、剣道着に着替えると一段、いや二段ほど性格がきつくなるんだ。そこは大目に見てやってほしい」
「へぇ……それじゃ、いつもはお淑やかなんですか?」
「まぁ流石に、そこまではいかないよ。普段から男勝りだからね。ただ剣道に関しては、今まで真剣に取り組んできた経緯が、彼女をそういう風に駆り立てているんじゃないかな。あくまでも俺の推論だけど」
どうやら、竹刀を持つと性格変わるタイプのようだ。よく覚えておこう。
「あ、そうそう。言い忘れてたけど、この愛好会を立ち上げたのも姫だからね」
「そうなんですか?」
「実はそうなんだよ。大学に入った後に剣道部が無い事に気付いたとか言ってたからね。姫は、ちょっとオッチョコチョイなところがあるんだよ。お、来た来た」
そんな話をする中、俺達のカウンターに注文した定食がやってきた。
そして、俺は目を見開いたのである。
なんとそこには、エビゾリになった巨大な海老天が真中に鎮座し、その周りに、これまたデカイ芋天や椎茸等の野菜天麩羅が海老を称える様に盛り付けられていたからだ。
敢えて宗教の構図のように例えるなら、海老天が教祖で野菜天が信者という感じだろうか。ちょっと違うか……。まぁとにかく、そんな感じの天麩羅定食がやって来たのだ。
パッと見、全部食べれるかな……なぁんて思ってしまいそうな程、ボリューム感たっぷりなのである。
「凄いだろ、この定食。このボリュームで700円だよ。しかも旨いしね。遠慮せず食べてよ。今日は俺の奢りだからさ」
「すいません。少し感動してしまいましたよ。この威圧感に」
「俺も初めて来た時、何じゃコリャアって驚いたからね。分かるよ、その気持ち」
俺達はそんなやりとりをした後、早速その巨大天麩羅をパクついたのだった。
その後も色々と愛好会の事や大学の事、弟さんの事等を話しながら食事を進め、俺達は親睦を深めていった。
最初の方こそ若干ヨソヨソしかったが、この定食屋を出る頃には、大分気軽に話せる感じになり、俺ももう愛好会での出来事についてはあまり深く考えないようになっていたのである。
【参】
―― 愛知県 名古屋市 ――
名古屋市の高層ビル群が建ち並ぶ中心街から北に10km程離れた住宅地の一角に、この辺りでは珍しい四方を林と石垣に囲まれた古い屋敷がある。
屋敷の周囲に建つ住宅は、最近建てられた現代建築の建物ばかりで、ここだけが別世界のように古めかしい空間となっていた。
敷地正面入口には威風堂々とした佇まいの長屋門があり、その入口には『道間』と書かれた表札が掛かっている。
石垣と屋敷の間には広い日本庭園があり、色彩鮮やかな錦鯉が泳ぐ瓢箪のような形の池や、綺麗に刈り込まれた松などが美しく彩っていた。
そんな庭園の奥には、大きな屋敷が静かにひっそりと佇んでいた。
屋敷の壁は白塗りで、黒い古木の外梁が白壁に線を引いたかのように剥き出しになっている。
また、大きな玄関戸の左右には、黒光りする立派な丸柱が門番のように立っていた。
そして、日本古来の伝統家屋に良く見られる木製の重厚な玄関戸には、碁盤の目のような細かい格子細工が施してあり、繊細さと豪胆さを訪れる者に知らしめていた。
今、その屋敷に向かい、歩を進める一人の少女がいた。
以前、霧守高原の山中に親子三人で来ていたあの沙耶香と呼ばれていた少女である。
沙耶香は学校帰りのようで、右手には学生鞄を持っており、赤いブレザーとグレーのスカートという組み合わせの制服を着ていた。
時折吹くやや強い風が、彼女のトレードマークである左右に垂らした長いツインテールの髪を強く靡かせる。
しかし、沙耶香はそんな事など別段気にした様子も無く、寡黙な表情で屋敷の玄関に向かい、凛として歩を進めているのだった。
沙耶香は玄関に到着すると一旦立ち止まり、そこで衣服に付いた埃を払うと、木製の分厚い玄関戸を引いた。
「ただいまぁ」
沙耶香は玄関戸を閉めると靴を脱いで家に上がる。
そして、広い廊下を進んで、二階にある自分の部屋へと向かったのである。
沙耶香は自分の部屋に鞄を置くと、母屋の隣にある蔵へと向かった。
だが、蔵の入口に近づくなり、沙耶香は思わず立ち止まったのである。
何故なら、入り口が若干開いていたからだ。
「あら、戸が少し開いてる。お兄様かしら?」
沙耶香は少し首を傾げながら、自分も蔵の中へと入って行った。
蔵の中は先客がいるのか、照明が点いており、周辺は明るく照らされていた。
また、蔵は二階建てになっており、一階部分には、年代を感じさせる古い木箱等が納めてある棚ばかりであった。
しかし、沙耶香はこの一階には用がないのか、目もくれずに奥の階段へと歩を進める。
そして、階段を上がり、左側にある棚の方へと向かったのである。
沙耶香が目的の場所に着くと、そこには黙々と何かを調べている男がいた。沙耶香の父である。
その男は灰色の長着に茶色の羽織という時代劇に出てきそうな格好をしており、周囲の風景に溶け込むような出で立ちであった。
男は沙耶香の接近には気付いてないようで、手に持った書物をめくり、ただただ没頭している。
そんな様子の父を見て、沙耶香は肩の力を抜き声をかけた。
「お兄様かと思ったら、お父様だったのですね。どうされたのですか。調べ物ですか?」
男は頭を上げ、沙耶香に振り向いた。
「ン? 沙耶香か。もう帰ってたのか」
「ついさっき帰ったばかりです。でも、お父様、私が近づくのに気付いておられなかったところを見ると、相当、熱心に調べ物をなさってたのですね」
「まぁそんなところだ。だが、そのお陰でここ最近、色々と分かってきた事があるのだよ。この先祖が記してきた古い文献を調べて行く内にな」
男はそう言うと、右手に持った紫色の古い書物を沙耶香に見せた。
「お父様、その書物は一体なんですの?」
「ああ、これか。これにはその昔、我が道摩家が請負った妖怪退治の数々の記録が記されておるのだよ。年代としては800年程前のものだがな」
「妖怪退治の記録ですか? へぇ、そんな書もあったのですね。それで、どんな事が分かったのですか?」
「ウム、そうだな。まず、この間のF県の山中で見た妖怪は土蜘蛛という名前なのは沙耶香も知っていよう。鎮守の森からの説明をお前達にもしたからな。その土蜘蛛退治のある程度詳細な記録がこれに記されておるのだよ」
「え!? それにあの妖怪の事が細かく書かれているのですか?」
沙耶香は目を大きくしながら、その書物に視線を向けた。
男は書物をパラパラと捲り、土蜘蛛の姿が描かれた箇所を見つけると、それを沙耶香に見せたのである。
「沙耶香、ここにはこう書かれている」
――其の物の怪、土蜘蛛といふなり。
小さき頃は人や獣を干からびさせるほど養分を啜り、大きくなれば村や町を滅ぼす巨大な物の怪へと変化するなり。
この物の怪を、滅ぼすべく道摩と賀茂が共に手を取り立ち向かわん。
賀茂から使わされた頭の術者、鬼一法眼なる者と我、無月は幾夜を重ねて策を練る。
そして長い月日を掛け、数え切れぬほどの土蜘蛛を塩水と重湯を混ぜた汁で誘き寄せて霊籠の陣で葬り去り、見事、土蜘蛛を滅ぼす事に相成りにけり――
男が読み終えたところで、沙耶香は口を開いた。
「お父様……その中に出てくる鬼一法眼と言うのは、源義経に兵法を授けたと義経記に書かれた京の陰陽師ですわよね?」
「確かにそうだが、義経記はかなり後の世の人間が書いた創作物だ。『史料』としての価値は低いから信憑性は薄い。だが、この道摩家に伝わる書物にその名が記されているという事は、恐らくここにでてくる鬼一法眼は実在した人物なのだろう。流石にどういった人物かまでは分からぬがな」
「確かに、そうですわね。道摩家の書物に記されてるのですから」
「それは置いておくとして、私が注目しているのはこの『数え切れぬほどの土蜘蛛を塩水と重湯を混ぜた汁で誘き寄せて霊籠の陣で葬り去り』の一文だ。沙耶香、お前はこれについて何か気付かぬか?」
父の問いかけに沙耶香は天井を見上げて考える。
そして、山中での光景を思い返し、ある事に気付いたのである。
「お父様……その方法って、この間の山中で見た光景と似てますわね……」
「嫌、似ているのでは無く、恐らく同じ方法だろう。一樹にあの後聞いたが、転がっていた桶に妙な液体が入っていた形跡があるとも言っておったからな。それと法陣を照らし合わせると、構図がこれとまったく同じだ」
「確かにそうですわね。という事は、あの地で土蜘蛛を退治した者は、我等、道摩家か賀茂家の流れを汲む術者なのでしょうか?」
沙耶香の問いかけに、男は頭を振った。
「それは分からぬ。だが、無関係ではないのであろうな。まぁよい。これについては、これからじっくりと調べて行くとしよう。さて、沙耶香、ついさっきだが一樹から連絡が入ったぞ」
「お兄様から? それで、どうだったのです。例の修祓泥棒を現行犯で見つける事が出来たのですか?」
「それが、全然駄目だったそうだ。今日、こちらに戻ると言っておったから、細かい事はその時に聞くが良い。さて、私はそろそろ書斎に戻るとしよう。沙耶香、出る時は電灯の消灯と施錠を忘れないようにな」
男は沙耶香にそう言い残し、先程の書物を片手に蔵の階段を降りていった。
沙耶香はそんな父の後ろ姿を見送った後、父の居た棚の付近へと足を運ぶ。
そして沙耶香は、その棚に沢山置かれた木箱の中から、茶褐色の小さい箱を取り出すと、床に置いて封をしてある紐を解いたのであった。
木箱の中には焼け爛れた一つの赤い巻物が納められていた。
沙耶香はそれを大事に両手で取り出すと、丁寧に広げて行く。
そして、自分の上着のポケットから一枚の霊符を取り出し、巻物と交互に見比べたのである。
沙耶香はあの山中での出来事以降、ずっとこの作業を繰り返していた。
その表情は真剣そのもので、何かの使命に駆り立てられているようにも見える。
あの日から沙耶香は、失われた術の手掛かりを探すべく、こうやって毎日のように調べていたのである。
道摩家の失われた嘗ての秘術を取り戻す為に――