仮面の下にある何か
あぁ……煩わしい。
朝、少し遅めの登校をしてから一番に思うことが、これ。おいおい朝からこんなんで大丈夫なのかよ、と思わず突っ込みたくなるような心の呟きだだけど、もちろん全然大丈夫ではない。
原因は一重に僕の持っている奇妙な能力にある。
――〝仮面〟を見破る能力。
いや、能力と呼べるほど大層なものではないのだけど、相応する言葉が見つからないので一応このように自称することにしている。
具体的には、顔を見ただけでその人が〝本性〟を隠していることが手に取るように解り、その上、隠されている本性でさえ完璧にとまではいかないものの、ぼんやりと把握できてしまうという不気味な力。顔色を窺う、という言葉があるが正にこういう事を言うんだろう。それは形としてではなく、また僕の意志に従うことなく、感覚的に勝手に捉えられる。
そう、ここが厄介なのだ。人間は他人と接するときに、よほど親しくない限り(家族や恋人など)大なり小なり本当の自分というものを隠す。それは例外なく、誰でも無意識に、又は意図的に行っている。本音と建前があるように。そして僕はそれを、顔を見ただけで例外なく全て見破ってしまう。知りたくもない、人の裏側を強制的に見せられる。僕の前では全てが、無条件にシースルーなのだ。本当に勘弁してほしい。
家はいい。仮面を被る必要のない人間、家族しかいないから。しかし、学校となると……どうしても、仮面に目が行ってしまう。そして、仮面の下にも。精神的に辛いものがある。
先程から仮面仮面と連呼しているが――いつか読んだ小説に出てきた表現、「仮面を被っている」というのが、あまりにも言い得て妙だったので自然と自分の中でこう呼ぶようになった。割と気に入っている。
この忌々しい能力――仮面を見破れるようになったのは、中学の時のとある事件がきっかけなのだが……今はまだ、それにきちんと向き合える自信がないので、意識して思い出さないようにしている。
仮面を見破れるようになったあの頃、僕はひどく憔悴していた。
気が狂いそうな毎日。……いや、実際狂っていたのかもしれない。人間の表裏なんて、それまで考えたことも無かったから。
人と接するのが怖かった。外に出るのが怖かった。そして、誰一人として他人を……信じることが出来なかった。
でも、僕は今こうして此処にいる。……慣れとは怖いものだ。
「よう、櫛部。朝からテンションが低いようで」
僕が憂鬱な気分で本を広げていると(誰とも顔をあわせずに済む、手っ取り早い方法)、クラスメイトである大塚が話しかけてきた。彼の仮面は、厚過ぎず、薄過ぎずといった、いたって平凡な仮面だ。……同じく、クラスメイトの市原さんと話しているときだけ極端に仮面が薄くなるので、彼女とはそういった関係なんだろう、と安易に予想ができる。こういう使い方もあるので、自分で制御できたら素晴らしい能力なのになぁ、と思わなくもない。
「……おはよ。テンションが低いことはいつものことだよ」
当たり障りなく返答する。なんだかんだいって、僕も仮面を被っているのだ。
大塚がせせら笑う。
「まぁそうだな。……それより、今日ウチのクラスに転校生が来るらしいぜ」
「転校生? こんな時期に?」
時期的に考えると、普通ではない。
「あぁ……それなら、此処だけの話だけどさ。家族が強盗に殺されて、親戚の家に引き取られたからだってよ」
「強盗? もしかして……この前の、例の強盗殺人事件?」
「当たり」
全国ネットで報道された、割と有名な事件だ。確かに、近隣の県で起きた事件ではあったが。両親と姉弟の四人家族で、姉だけが外出していて助かったとか。
ということはつまり、その姉が転校して来ると言うわけか。
「へぇ、そうなのか。……つーか、なんでそんな事知ってるんだ?」
「さぁな。企業秘密だ」
――キーンコーンカーンコーン……
ホームルーム開始のチャイム共に、教師が教室に入ってくる。その後ろには見覚えのない、一人の少女が立っていた。
「ほら、な。へぇ、まぁまぁのルックスじゃん」
得意げな顔をしながら大塚が自分の席に着く。
僕はそれを聞き流し、教室に入ってきた転校生の少女を観察する。そして、
「……なんだ、これ」
彼女の顔を見るや否や、思わずそう言葉を漏らしてしまった。
世界が、ぐらっと傾いた感覚。
地に足がついていないような、とても不愉快な感覚。
全身に軽い火傷を負ったような、ひりひりしてどうにもならない感覚。
……確かに、仮面は大なり小なり、個人差がある。そんなの当たり前だ。
でも、でも目の前の少女は――
――まるで、鎧の様な厳つい仮面をしていた。
◇
鎧の仮面を被る少女――神前早百合が転校して来て一ヶ月が経つ。
大塚から聞いた神前さんの過去は、転校してきたその日に学校中を駆け巡り、教師たちが「ふざけた言動は慎むように」と注意するほどに広まった。
勿論そのこともあって、転校初日から神前さんは有名人となったのだが、野次馬に囲まれて質問攻めにあうとか、そういうことは一切無かった。せいぜい、教室の外から珍しそうに遠目で見られるくらいだった。
教室内では最初から完全に孤立している。
……あれだけの仮面を被っているんだ。別に仮面を見破ることが出来ない一般人でも、神前さんを纏っている異様な雰囲気を無意識に認識して、好奇心だけで寄り付こうとはしないだろう。
かくいう僕は……神前さん、いやもっと言えば神前さんの仮面を見るたびに、これ以上に無いほどの嫌悪感を覚えた。
今までに見たことのないほどの、頑丈な仮面。
心を閉ざす、という言葉があるように、家族を殺されたショックによる、自己防衛のための一時的なものなのかもしれない。しかし、〝それ〟は薄れて行くどころか、日を重ねるにつれ厚くなっている様にさえ思える。
そもそも、家族を殺されたショックで心を閉ざしている人間が、毎日のように学校に来るはずが無い。良くて引篭もるか、悪ければ後追い自殺か。心を閉ざした状態を持続できる人間は、そういない。
頑丈な仮面で隠している神前さんの〝本性〟とは一体なんなんなのだろうか? 嫌悪感を覚える大きな理由は其処にある。
そう、神前さんの仮面の下をどうしても――見ることができないのだ。
いや、見ることができないと言ったら語弊が生じる。正確には見えている。でもそれは、
――ただ、〝闇〟だった。
いつしか僕は、その闇に惹かれていった。それは単なる知的好奇心ではないように思えた。その闇を理解したい。その闇に触れてみたい。そんな願望が僕の中でどんどん大きくなっていく。自分でも不思議だった。
仮面の下の闇にはこんなにも魅力を感じていると言うのに、仮面には嫌悪感を抱いている。それは、対となる感情。何処か、しちゃかちゃ感じがするが……僕から闇を遮って、遠ざけているのが紛れも無く仮面なのだから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。
恋路を邪魔する奴に対して持つ感情が、こんな感じなのだろうか?
あぁ、僕は……神前さんの〝闇〟を求めている。
ある日、神前さんと初めて会話をした。驚くことに彼女から話しかけて来た。
「……櫛部君、だよね?」
放課後。僕は帰宅するため昇降口で靴を履いていた。名前を呼ばれ、声のほうへと反射的に振り向く。
其処には神前さんの姿があった。自己紹介以来彼女の声を聞いたことが無かったので、一瞬声の主が神前さんなのか確信が持てなかった。が、どうやら昇降口には僕と神前さんしかいないようなので、神前さんが僕に話しかけてきたということで間違いないらしい。
小柄な体に似合わない、鎧の仮面。実際その仮面が形として見えているわけではないが……やはり、嫌な気分になる。しかしそれ以上に、仮面の下の闇に魅了されてしまう。
「え……うん。そうだけど」
「私が、何なのか……解る?」
「…………は?」
急に話しかけてきて、何を言っているのかよく解らなかった。家族が殺されたショックで少しおかしくなっているのか?
「それって、どういう意味?」
神前さんは、虚ろな、それでいて強い眼差しで僕を見つめる。いや、射貫くと言ったほうが正しいのだろうか。
まるで、僕ではなく、僕の中身を見られているような感覚。……気持ち悪い。思わず目を逸らしてしまう。
「……そう。なら……いい」
そして、僕の質問に答えることなく、ボソリと消え行くような声でそう呟くと、唖然として立ち尽くす僕を尻目にスタスタと何処かへ行ってしまった。……よく解らない人だな。
――でも、神前さんと接してみて解ったことがある。表情は鉄面皮なのでよく解らないのだが……苦しんでいるように感じた。どうやらあの仮面は本性を“隠している”わけではなさそうだ。隠している、というより、意図的に抑え付けてるのではないのだろうか?
それとも隠しているという事と、抑え付けているという事には、あまり違いはないのだろうか。
……神前さんの質問が〝仮面の下〟の事を指していると気がつくのに、時間は余りかからなかった。
どうやら神前さんは、ある程度の事は理解している人間のようだ。ということはやはり、あの仮面は意図的に作っている。
そして僕は相変わらず……神前さんの〝闇〟を求めている。
◇
最近、毎夜のように同じ夢を見る。
夢の中には仮面を被っていない神前さんが出てくる。仮面を被っていないにも関わらず、神前さんは闇のままだった。
そして、神前さんは不敵……いや、魅惑的とも呼べる笑みを浮かべ、手招きをして僕を誘う。僕は招かれるままに神前さんへと近づくが、歩けど歩けど神前さんの元へ辿り着けない。そして、いつの間にか闇の中には僕一人だけが取り残されている。ただならぬ不安と恐怖に心の中が蹂躙され、無価値なものへと壊されていく。僕は為す術も無く、闇の中でただ呆然と立ち尽くす。
そこで、目が覚める。それの繰り返し。精神的に異常な状態であることは、自分でも自覚できるほど明確だった。
――僕はふと、窓側の席に目をやる。そこには、悪夢の元凶の……神前さんが座っている。その瞳は、横から見てもピントが合っていないのは明らかだ。一体、何を見ているのだろう?
…………はて、何を見ている? 我ながら意味が解らない。何を見ているってそりゃあ、黒板に決まってる。今は授業中なのだから。どう見ても視線は黒板へと向かっている。……でも、なんだ、この気持ちの悪い違和感は。
――――。
――ああ、そうか。神前さんは確かに黒板を見ているけど、でも見ていないんだ。
そもそも神前さんは――〝此処〟を見ていない。
神前さん、いや……神前さんの闇に見惚れて、どのくらい時間が経っただろうか。それは永遠にも、一瞬にも感じられた。
僕の視線に気がついたのか、神前さんがこちらを向く。
だけど、僕は目を逸らさない。その必要性を感じなかった。
二つの視線が交錯する。相変わらずの虚ろな目。しかし、全てを見透かしている目。
あぁ、陰鬱な気分になる。その、全てを諦観したような目で僕を見るのを止めてくれ。
鎧の様な仮面の下に隠された〝闇〟は日増しに、よりどす黒く、魅力的な色になってゆく。
神前さん、君は何をそんなに隠している? どうか、僕に教えてくれないか?
…………そうだ。神前さんがこのままその〝闇〟を隠し続けると言うのなら――僕が、暴いてやる。
◇
「……こんな所に呼び出して……なに?」
クラスメイトを使って試行錯誤を重ねた結果、気がつけばあれから一ヶ月が経っていた。
どうやれば本性を露わにさせられる――つまり、仮面を剥がせるか? 具体的には、どうやればそう仕向けられるか?
仮面を剥がす方法は、僕が考え尽くした結果二つある。どちらも多分、完璧に剥がせると言うわけではないが……完璧に剥がすなんてこと、神前さんを相手に無理のような気がする。
大体誰にでも適応できる方法は、上手く取り繕って親密になり、仮面をつける必要の無い関係になる方法。つまりは打ち解けるということ。
さて、仮にこの方法を行ってみるとしよう。果てして、成功するか否か。
答え、否。学校で今現在、誰一人として友達がいない……いや、自分から距離を置いて、誰にも関わろうとしていない神前さんだ。そんな神前さんが、急に接近してきた僕に心を開くだろうか? 僕が異性であるということも手伝って、怪訝に思い、仮面をより厚くすることはあったとしてもだ。
そもそもこの方法では時間がかかり過ぎる。僕は、自分がそんなに待つことのできない状態であることを自覚している。
だからこの方法は却下だ。それなら残る方法は一つ。
仮面を剥げ、と直接言えばいい。
勿論、仮面という言葉は出さずに「気を使わなくていいよ」や「遠慮しなくていいよ」等の言葉に置き換えるのだが。
この方法で本性を見せる人間は案外多い。特に、意図的に本性を隠している人間は、隠す必要がないと解った途端、態度をガラッと変えてくる。実際、実験に使ったクラスメイトの中に、この手の人間は結構いた。神前さんはこの手の人間では無さそうだが……意図的に本心を抑え付けている彼女になら、これが一番効果的のように思える。
あとは、頭の中で何度も何度もシミュレートして――。
そして今、僕は計画通りに放課後、神前さんを屋上に呼び出した。普通、屋上への扉の鍵は閉まっているのだが、何のことはない。職員室から無断拝借した。
「あぁ、うん。えーっと、まず何から話せばいいのかな……」
本人を前にして、緊張してしまう。駄目だ、落ち着け。シミュレート通りにすればいいだけなんだ。台本は僕の手によって用意されている。僕はこの舞台で、華麗に役を演じれば良いだけだ。
「今から僕が言うことは、神前さんの世界観と少しズレているかもしれないけど……神前さんなら、多分補正出来るだろうから、僕の世界観に手を加えずに、そのまま言うね」
家族を殺されたことによって、心を壊され――つまり主体性を失い、全てにおいて受動的になった神前さんなら、僕の世界観を理解することなんて容易い事だろう。何よりも彼女は僕に自ら接触してきた。既に僕と言うものを把握している。
「…………」
無言の肯定、と捉えていいのだろうか。いくら待っても返答を得られそうに無いので、構わず続ける。
「仮面、被ってるよね? もの凄く厳つい――そう、まるで鎧のような」
「…………」
早速、核心を突く。しかし、相変わらずのノーリアクション。
「僕はさ、仮面を見破れるんだよ。顔を見ただけで、本性をどの程度隠しているかとか、隠されている本性そのものが。いや、視覚的に見えるっていう分けじゃないんだけど……まぁいいや。とにかく顔を見るとその人間の仮面の度合いと本性が、僕には解る」
「…………」
「でもさ、神前さんは違ったんだよね。仮面の度合いも……そして何より、仮面の下の本性が解らなかった。……いや、具体的に言うと、果てしなく広がる“闇”が見えた。こんな事は多分、今まで見てきた人間の中で、神前さんただ一人」
僕は今までに無い位に興奮している。あともう少しで、神前さんの闇を暴くことが出来る!
でも僕は出来るだけ、平静を装って淡々と話を進めていく。こんな所で失敗してしまっては元も子もない。
「…………だから?」
「ん?」
神前さんが初めて返答をした。戸惑っている様子はないので、話は理解できているようだ。
「……だから、なに? あなたは……何が、したいの?」
「僕かい?」
なにって、決まっているだろ?
ずっと求めていた、〝闇〟。こんなにも近くにあるのに、届かない。
何故こんなにまで惹かれているのだろう。……理由なんて必要ないし、どうでもいいか。僕は〝闇〟を欲している。それだけで動機は充分だ。
あぁ……〝闇〟を遮る仮面が邪魔だ。〝僕〟と〝闇〟を引き離す、無駄にゴテゴテした醜いその仮面が邪魔すぎる!
だから、僕は――
「神前さんの仮面を……剥したい、ね」
――もう、戻れない。
◇
もう、三年も前の話になるのか。あの忌まわしい事件――仮面を見破る能力が覚醒するきっかけとなった事件が起きたのは。
思い出したくも無い、出来れば忘れてしまいたい――でも、その事件は僕の中で色褪せることなく鮮明に残っている。
高校受験をあと数ヶ月に控えていた頃だった。幼馴染で、当時付き合っていた彼女が死んだ。……自殺だった。
警察では、遺書も残されていなかったし、時期が時期だけに精神的疲労が原因だろう、となんなく処理された。
……でも、僕は知っている。警察や、親までも知らない事実を、僕は知っている。
――クラス全員で彼女をいじめていたこと、そしてそれを担任までグルになって隠蔽したことを。
彼女に何度か相談された。でも、僕は何もしてやれなかった。所詮僕は一人の非力な人間だ。クラス全員、四十人近くの人間を前に何も出来なかった。
クラスの中には、彼女と小学校からの付き合いの女子も居た。中には親友と呼べる存在も居た筈だ。それなのに――彼女はクラス全員からいじめられて、自殺した。
クラスの中心の女子グループが、ある日突然彼女に執拗に絡みだしたのが、事の発端だそうだ。原因はよく解らないらしい。そしてそれは教室と言う狭い密室空間の中、女子、男子へと瞬く間に感染していった。ついこの前まで友達、又はただのクラスメイトだった存在が、掌を返したように敵になった、というわけだ。
信じられなかった。人間関係とはこんなにまで脆いものなのか。まるで、砂で作られた城のようだ。一見丈夫そうに見えて、でも砂で作られているからひどく脆く崩れてしまう。人と人を結ぶ絆なんて所詮こんなものなんだ、とその時はそう思っていた。
でも、それは間違った考えだと、彼女が自殺をしたと聞いてから解った。
――クラス全員、〝仮面〟を被っていた。ただ、それを剥いで醜い〝本性〟を表しただけだ。
人間関係なんて立派なもの、はじめから其処には無かった。あるのは、見てくれだけの関係だけ。彼女にきっと非は無い。ただ――運が悪かっただけだ。
クラスの中心の女子グループが何故彼女を標的にしたのかは、今でも解らない。暇潰しなのかもしれないし、他に理由があったのかもしれない。でも結局は、どうしようもなく運が悪かった、それだけ。
それからだった。それに気がついてしまってから、僕は――“仮面”が見破れるようになった。
「私の、仮面を……剥がしたい?」
「うん。僕自身の手で神前さんの仮面を剥がす事は出来ないから、神前さんが自ら剥ぐことになるけど……お願いできるかな?」
「…………」
沈黙。そして、
「……なんで?」
至極当然の疑問を口にした。というか、本当に不思議な会話しているな。これに順応している神前さんはやっぱり凄い。
さて、本当の事を言うべきか、否か。まぁ、此処まで話したのだから、隠す必要は無いか。
「さっき神前さんの仮面の下に、闇が見えるって言ったよね? 僕はそれを、求めているんだ。理由は解らない。でも、どうしようもないくらいにそれを欲している。それが理由じゃ駄目、かな?」
「……そう」
神前さんはそう相槌を打った切り、考え込むような顔で黙り込んだ。もう、言うべきことは全て言った。一応、筋書き通りに此処まで来れている。さて、僕は闇に触れることが出来るのだろうか?
…………
ああ、この沈黙。闇を目前として、狂いそうになる。今や僕は、肉を目の前にお預けをされているライオンだ。
早く早く早く早く早く、早くしてくれ! 焦らすな! 躊躇うな! 噛殺されたいのかお前!
あぁ、駄目だ駄目だ、落ち着け、落ち着け、落ち着け。落ち着かなければ。僕らしくない。
思えば、仮面を見破れるようになって、何時だって落ち着かなかったし、生きている心地がしなかった。でも、神前さんの“闇”と出会って変わった。闇を見るたびに、意味も無く嬉しかった。楽しかった。何もかもが素晴らしく思えた。……そんな闇をもう少しで暴ける。近づける。触れられる。あぁ、素晴らしい。
「……いいよ」
あまりにも唐突に返答が来た。
「…………へ? 今、なんて?」
僕は一瞬何がなんだかよく解らなかったで聞き返した。
「仮面を、剥いでも……いい。そう……答えた」
――勝った。
僕は意味も無くそう心で呟いた。
「なら、早速……」
「その前に、一つ……聞きたいことがある」
神前さんは僕の言葉を遮って、抑揚の無い口調でそう言った。
「ん? なに?」
「後悔は……しない?」
「――――」
後悔? 仮面を剥させて、後悔しないかって事か?
そんなの、決まってる。僕は〝闇〟が僕にとっての唯一の救いであることを既に確信している。
だから――
「するわけないよ」
「……そう。なら、お望み通り剥がしてあげる」
神前さんがそう言った瞬間、神前さんの周囲の空気が変わった。
そして、仮面が――今、剥がれた。
瞬間、闇が広がり僕はそれに飲み込まれた。
少しだけ、恐怖を覚えた。でも、それはすぐに掻き消された。全てが闇に染まる。闇色に染まる。僕の体、心、思考、感覚、知覚、存在、全てが闇に染まる。闇になる。
あぁ、なんて心地良いんだろう! なんて優しいんだろうか! こんなもの、僕だけが味わってしまっていいんだろうか? いや、誰にも渡さない! これは僕だけのための〝闇〟だ!
「ふははは……ははは……あはははははははははははは!」
堪らず大笑いしてしまう。今までの人生は何だったのだろう。今この瞬間以外が全て矮小な存在に感じる。
これが僕の望んだ〝闇〟
僕の欲した〝闇〟
僕の――
気がつけば、神前さんが目の前にいた。仮面を剥いだにも関わらず、夢と同じく、闇のままだ。そして、その顔に不敵な笑みを浮かべ――
ぶすり
「――――っ!」
体中に衝撃が走った。
よろけて倒れる、体。
腹に突き刺さる、ナイフ。
流れ出す、真っ赤な血。
言葉を出そうにも、声が出ない。
「あなたが求めていた闇。それは私の、殺人願望」
神前さんが僕を見下ろしながら話し始めた。その口調と表情はまるで……別人のそれだった。
「私は家族が殺された時、心が空になった。魂が抜け落ちた。……そして、其処に隙を見て入ってきたのは――犯人を殺したくて殺したくて殺してくて殺したくて殺したくて殺したくて、いや犯人じゃなくてもいい、誰でもいいから殺したくて殺したくて殺したくて仕方が無い、というどうしようもない感情、いえ願望だった」
あぁ、血が抜けてゆく。
たらたらたらたら――
「辛うじて理性は保てた。だから、あなたの言う〝仮面〟とやらで、その願望を抑え付けていた」
同心円状に広がってゆく、赤。
「一度、私からあなたに接触したことがあった。……教室に居ても何もすることが無かったから、やる事と言ったらクラスメイトの観察くらいしかない。そして、その中で私はあなたを理解した。だから」
抜けてゆく、抜けてゆく、僕の血が、抜けてゆく――
「私は、私を理解できているだろうあなたに……殺して欲しかった。理性という名の〝仮面〟を被っている内に、殺人願望で満ち溢れている私を、殺して欲しかった」
魂が、抜けてゆく。無に――還っていく。
「だけど、あなたは漠然としか私を理解できていないようだった。唯一の希望が絶たれた。……でも、だからといって私には自殺をする勇気が無かった。大人しく、壊れるのを待つことしか、私には出来なかった。だけど」
……頭がぼうっとしてきた、神前さんの言葉が上手く頭に入ってこない。
「こうしてあなたが、私の願望の犠牲になると、自ら出向いてきてくれた。私はもうすぐ――あなたを殺せば救われる。最期に、もう一度聞いていいかしら?」
僕は力無く頷く。
命を灯火に喩えるのなら、僕の灯火は消える直前なのだろう。
「私の仮面を剥いで……後悔してない?」
「――――」
声にならない声を出す。神前さんまで届いたかどうかはわからない。でも、答えなんて決まってるだろ?
だって、僕は――
「そう、やっぱり。……初めてあなたに接触したとき感じた、私と同じような匂いは――思い違いではなかったのね」
――死にたかった。彼女の自殺からずっと――死にたかったんだ。
今なら、〝闇〟に惹かれたのも解る気がする。神前さんと同じく、自殺できない僕は……他の誰かに殺して欲しかったんだ。
あぁ、やっぱり僕は、仮面の下の本性を、例外なく――把握できるみたいだ。
「なら、今楽にしてあげる」
神前さんが僕の体に突き刺さっているナイフの柄を手に取り、ゆっくりと引き上げる。
どぼどぼどぼ……
血が噴出す。どこまでも赤い。あぁ、綺麗だなぁ。
今更になって、空の色に気がつく。黄昏。異様なまでの赤。まるで血のよう。
……僕は、誓う。この世界が、この世界であり続けるのなら――まるで仮面舞踏会のような、そんな醜い世界がいつまでも続くというのなら、僕は――
「……ありがとう。そして――さようなら、櫛部君」
――いつまでも、呪ってやる。
ぶすり