常しえの道
常世の国というものがある。遥か海の向こうにあるとされる理想郷である。そこでは若返りや不老不死などのキーワードが躍り、常しえ生を謳歌できるのだという。沖縄のニラカナイとも類似性が強く、柳田國男は根の国と同一のものとしている。古くもとをたどれば、中国の神仙思想に説かれる三神山の影響で出来たものであるという。その中の一つ、蓬莱山などは日本各地に名があるので馴染みにの方もおられるのではなかろうか。
理想郷は世界各地にある。中国から西に足を向ければインドのシャンバラ(もしくは地下都市アガルタ)やブランマロークがあり、そこから北へたどればペルシャ歌の島があり、メソポタミアではディムルン、エジプトではアアル、ギリシャではアルカディアはじめエリュシオンなど、ローマ帝国で大盛況を誇ったミトラ教なら光の国だ。ケルト神話ならマグ・メルが有名であろう。イギリスのかの名高いアーサー王が最後にたどり着いた理想郷は林檎の地である。さらに海を渡り南米に目を向ければ、アステカのタモアンチャンがあり、マヤやインカにもやはり似たようなものがある。征服者スペイン人が夢を見たエルドラドは直訳すれば黄金の人という意味で、何とも俗物的なものである。
何も私はそういったものを信じているわけではない。あったらいいなとは思うが、だからといって私には何の関係もない。仮にあったところで、そこへたどり着くまでには苦難の道のりが待ち受けていると相場が決まっている。到底私には耐えられないだろう。
しかしそんな弱虫な人間でも理想郷への入り口を見つけてしまったとしたらどうだろう。理想の前では苦難など鳴りを潜め、どんな人間でも心惹かれるものではないだろうか。そう、私はそんな状況に居た。私は理想郷までの道のりを見つけてしまったのだ。いや、この物言いには語弊がある。理想郷までの道のりをついさっきから聞いているのだ。この私の目の前でぐでんぐでんに酔っぱらっている男の口から。
「本当だよ。ありゃ理想郷への道だね。俺だってさ、最初はどこにでもあるきったねー神社だと思ってたんだよ。糞田舎によくある手入れの行き届いていない神社だ」
私が疑問を呈すると、賽銭泥棒だと言い張る男は言った。場所は上野のガード下、安価でつまみと酒を提供してくれる労働者には優しい立ち飲み屋でのことだった。
「俺がよ、懐中電灯片手に賽銭箱を漁っていたときだよ。その日もよ、糞田舎の類にもれず、小銭にしかありつけなかった。十円玉をいくらかき集めても十円玉だっつーんだよ。一円玉や五円玉なんて論外だ、論外。たく、田舎にゃ信仰心っつーものがないのかね。神様だってお金がほしいだろ。いくら隙間からのぞいたってお札の一枚ありゃしない」
男ははダンッ、とテーブルを叩いた。私の隣にいた客があろうことか私を睨みつけてきたが、無視することにした。私だって合成酒がこぼれているのだ。被害としてはおあいこである。
「分かるかい? 俺がどれほどかけて歩いて行ったと思ってんだよ。半日だよ、半日!」
「そりゃ大変でしたね」
私は言った。
「大変どころじゃないよ……昔は良かったよ。この近くを歩くだけでもそれなりの上がりがあったからな。それがどうだい、クソッタレがよ、今じゃ猫も杓子も防犯カメラ何かつけやがって、手を出した途端お縄だ。俺の仲間だって何人パクられたかわかりゃしない。だから遠くにまで行くのに、こんなんじゃ商売あがったりだよ」
なー、と同意を求められても、泥棒ではない私には同意しかねるところがある。やはり泥棒は泥棒だ。防犯カメラを仕掛ける神社仏閣サイドの気持ちも分かる、というかそれが当然だ。しかし移動には公共機関くらい使えばいいと思った私は聞いてみた。
「馬鹿言うんじゃねーよ。駅なんて頭から爪先まで監視されているようなもんだぞ。そんなもん利用してみろ、それこそ捕まっちまうよ」
男の剣幕に私はそんなもんなのかとつまみのピーナッツをかじる。男が物欲しそうにしているので社交辞令ですすめてみると、遠慮なく残りのピーナッツを食われた。
「本当にシケてやがったよ。あれだけ歩いてこれかと、落胆も落胆、ガックリ来たね。それでもないよりマシだからよ、商売道具の棒を突っ込んで小銭を漁ってたんだよ」
焼酎をイッキ飲みし、男は一息ついた。
「上でバタバタと音がしたからよ、誰かが居やがったのかと思って胆をつぶしたよ。見回りはしっかりしたつもりなんだが、なんせ俺も歳が歳だからよ、とうとう焼きがまわっちまったのかと思ったよ。それがどうだい」
空のコップを惜しそうに振り、そろそろ帰るかなと呟く男に、私は仕方なく焼酎のおかわりを注文した。別に続きが気になったわけではない。一人で飲むよりも誰かと飲みたい日がある。私の場合は今日がその人恋しい日だった。こんな汚いオッサンでもいないよりもマシなのだ。
「悪いね」と男はいって話を続けた。「戸が閉まってなくて風でなっていただけだ。脅かしやがってと思わず蹴飛ばしそうになったが、そんなことをしてみろ、証拠がのこっちまう。でも、なんか中が気になってよ。金目のもがあったところで換金なんて出来ないから無駄なことだと分かっているんだがよ、ついつい隙間からのぞいまった。中は思っていたよりも広くてよ、それに何故か明るいんだ。時刻は深夜だぞ。電気でも消し忘れているのかと見回したが、どうやらそんなこともなさそうでよ、部屋全体が光を放っているようで、俺は目を疑ったよ。でさ、本殿への扉も開いていて、俺の居る拝殿とは少し距離があったんだ。で、その間には小さな鳥居が並んでいたのよ、賽銭箱に手をついて、丁度正面から見ると一続きの部屋のように見えたんだ。変わった造りだなと思った俺は、何故か本殿に行ってみたくなっちまったんだ。無駄なことはしないほうがいいとは分かっていたんだが、ついつい中に入っちまった。もちろん靴は脱いだぞ。土足なんて罰当たりなことはできないからな。それからが不思議だったんだ。拝殿をぬけて、鳥居をくぐり、本殿に行こうとするだろう? だけどいくら鳥居をくぐろうと本殿につかないんだ。目の前に本殿は見えるんだよ? それでもつかないんだ。そんなに鳥居が並べられるほどの間も無さそうなのに、でも鳥居はいくらでも湧いてきやがる。さらには行けば行くほど鳥居ががどんどん大きく高くなっていくんだよ。おっかなくなった俺は途中で引き返した。走って拝殿まで戻ると、俺は急いで神社を後にしたよ」
話はどうやらそれで終わりらしい。しかし私にはその話からどうやって理想郷と結びつくのか分からなかった。
「俺が小さかったころ爺さんから聞いたことがあるんだ。爺さんの故郷には天国だか楽園だかしらんが、とりあえず理想郷のようなもんに繋がっている神社があるんだとよ。そこには鳥居が並んでいて、それをぬけた先にあるんだ。あとで考えてみると、賽銭泥棒に入った神社は爺さんの生まれ故郷にある神社だったんだ」
それだったらそのまま潜ってしまえばよかったのに、と私は思った。行きつく先が理想郷なら万々歳ではないか。
「そうかもしれないが、俺には怖すぎてそんなことは出来なかったよ。なんていうか、行けば行くほど自分がちっぽけな存在に感じられてよ。あのまま行くと終いには俺自身が無くなっちまうような気がしちまったんだ。その恐怖には勝てなかったよ……」
真っ青な顔をした男は焼酎のコップを両手で握りしめて「いやー怖かった」と繰り返した。
正直なところ、私は似たような話を知っていた。もう少しでエンデの読みすぎだよと口から出かかったが、そんな無粋なことをしても仕方がない。男の話に最後までつきあってやろうと私は合成酒を煽った。
結局焼酎一杯分の暇つぶしにはなった。男との別れ際、ほんの出来心で神社の名前を聞いてみた。私の知らない町の知らない神社の名前を言われた。私は礼を言って立ち飲み屋をあとにした。
数か月後、仕事の都合で神奈川県まで足をのばしたときのことだった。途中で通りかかった町の名に見覚えがあるなと思った私は、会社の車を路肩に駐車して、数分ほど考え込む。あっ、と私は思い出した。賽銭泥棒だと言い張っていた男が言っていた町だ。ためしに神社の名前をカーナビに入れてみると、確かにあった。ここから案外近い。しかしだからといってどうだという話である。あんな与太話を真に受けるほど私はお目出たくない、と思いたいが、いざこうしてみると訪ねてみたい気持ちがむくむくと頭をもたげる。
時計を見るとまだ三時にもなっていない。この時間なら少しくらいサボったってバレはしないだろうと私は神社に向けてハンドルを切った。
神社は男が言っていた通りの有様だった。拝殿もさることながら、境内には草は伸び、落葉が散らかっていた。それでも手水には水が流れていたので、定期的に参拝客はあるのだろう。あの男も半日もかけてよくもこんなところまできたもんだと関心する。
手を洗い口をすすぎ、とりあえず千円……は流石に多いので百円玉を賽銭箱に入れ、鈴を鳴らして二礼二拝一礼をする。
戸はぴたりと閉まっていた。ためしに引いてみるが、鍵がかかっていてびくともしない。格子から中をのぞいてみると、本殿への扉は締められ中は薄暗かった。そして別段広くもなく、まあこんなもんだと私は鼻で笑って後にしようとした。
後ろでガチャリという音がした。静かな境内なだけにその音はやけに私の耳に残った。やけにリアルな空耳かとも思ったが、空耳なのではなかった。その証拠に拝殿の戸を引くとすんなりと開いた。
拝殿の中は一変していた。妙に広い、そして男が言っていた通り何やらぼんやりと明るい。本殿への扉は開き、赤い鳥居が並んでいる。
音を立てないよう戸を閉め、いったん車まで引き返し、煙草に火をつける。大きく煙を吸いこみ、ニコチンの力を借りて頭を整理する。ここは思案のしどころだぞ、と私は私に言い聞かせた。そんな馬鹿なことがあるかと嘲笑っていた私だが、現に目の前に本殿までの道が開いている。私も中に入ってみるべきだろうか? しかし何かあったら……
結局私も男同様好奇心には勝てなかった。靴を脱ぐと、拝殿の中へ入っていった。確かに本殿まで鳥居が並んでいる。弁柄塗りのそれは鮮やかで、後ろに残してきたみすぼらしい境内とは対比をなしていた。角度の都合で鳥居の本数を確認することが出来ない。一見すると数本のように思えるが、見方によってはもっと数十本数百本並んでいてもおかしくないような気がする。しかし神社の規模からいえばそんなことはありえない。やっぱり数本のはずだ。
私は思い切って足を踏み入れた。玉砂利が心地よい音を立てる中、鳥居を一本潜り、二本潜り、本殿までの道を行く。そこはまさに清潔そのものだった。全てが理路整然としていて、ピタリと景色に調和していた。私がこうしてここに居ること自体が場違いなのだ。そしてこれまた男の言う通り、いくら鳥居をくぐっても本殿にたどり着くことはなかった。いけばいくほど鳥居は大きくなっていき、一本一本の距離がどんどん開いていく。それはまるで、歩けば歩くほど私の体が小さくなっていっていくようだ。これはなかなかどうして、怖いものである。ただでさえ訳の分からない状況にいるのに、さらには自身が変化していくように感じられる恐怖も追加されるのだ。
とうとう好奇心よりも恐怖心が勝った。私は踵を返すと一目散に拝殿へと舞い戻った。荒い息のなか本殿を眺める。たしかにそれは鳥居の向こうにあった。
こんなていたらくでも収獲はあった。今回分かったことは、戻れるという事だ。あの男と私、実例は二つ。
私はすっかり陽が落ちた中、車を運転しながら考える。季節が季節なだけに防寒対策は必要ない。寝袋一つで事足りる。そうなると必要となるのはやはり食べ物や飲み物だ。食べ物はカロリーが高くかさばらないものを中心に、極力水を持っていきたい。何はともあれ水分だ。何度も赤信号を無視しそうになりながら、私は上司の小言が待っている会社へとひた走った。
数日後、荷物の準備はできた。上司に嫌な顔をされながらも残っていた有給をまとめてとった。あとは神社へ向かうだけである。
そしてとうとうこの日が来た。相変わらず荒れ果てた境内の中に私はいる。肩にずっしりとかかるリュックの重みが心地よい。はたしてこれだけの装備で理想郷までたどり着けるかどうか、未知数である。が、最悪の場合でも引き返せばいいのだ。いくら杞憂したところで何も始まらない。私はすでに理想郷までに道のりを見つけてしまったのだ。あとは目の前の苦難には見て見ぬふりを決め込むだけだ。
賽銭をあげると、あの日と同じようにどこからともなくガチャリと音がした。格子の中はぼんやりと明るい。
大きく深呼吸をし、決意を固める。準備はすべて整ったのだ。私は引き戸を開けると、本殿へと、いや理想郷へと続く道へ足を踏み出す。