前編
耳を澄ましても、蝉の鳴き声が聞こえない。
代わりに聞こえてくるのは、ファミレスの店内に流れる音楽と、周囲の人間の話し声ばかり。
エアコンの涼しい風にさらされながら、私――遠坂岬は蝉の鳴き声を探していた。窓や壁によって遮られ、話し声や音楽で薄まったような音を、大した理由も無く。
今は、もう夏のはずだった。
七月から八月に移りつつあり、夏も真っ盛りだというのに、私はまだ夏が始まったばかりだと感じている。
まるで、何かがズレているみたいに。
「――ごちそうさまでした」
そんな私の思考を断ち切るかのように、食後の挨拶をする声が聞こえてきた。
同席している友人――有森翼のものだ。
私は、ぼんやりと窓の外を眺めるのを止めて、真正面にいる翼へと視線を向ける。
育ちの良いお嬢様みたいに合掌している彼女は、いつ見ても悔しくなるくらいに綺麗で、なのに可愛らしくも見えるような外見だった。美少女と美女の中間とでも言うべきか。
顔立ちは整っているし、かけている眼鏡がそれをますます際立たせている。知的な眼鏡っ娘って感じだ。
首から下も良い。
ノースリーブなクリーム色の縦セーターに紺色のジーンズ、といった服装は、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるという体格にぴったりだった。
――ともかく、そんな美少女な有森翼が、私より少し遅れて食事を終えたわけである。
「そんなに見つめられても、大きくなりませんよ?」
そして、開口一番にこの有様であった。
「食後に喧嘩売る癖でもあるのかあんたは」
「だって、私が手を合わせてた時に、ジーッと見てたじゃありませんか。ねっとりと」
「ねっとりとか言うなや」
「手と手を合わせて、ちょっとだけ前のめりになったところで、二の腕に圧迫されて、ほら、セーター越しに谷間が」
「説明しなくて良いし、そもそも見つめてないっつーの」
翼との会話に少し疲れを感じながら、私はドリンクバーからとってきたジンジャーエールを一口啜った。
冷たくて、独特の突き刺さるようなショウガの風味が口の中を通り抜けていく。
ちょっとだけ落ち着くと同時に、いつもの私たちらしい会話になってきたと思う。
――有森翼は、高校に通っていた頃からの友人だ。
友人として付き合うようになってから、十年くらいは経ったと思う。一時期会えなかったこともあったが、私が地元に帰ってきてからは、こうして月に何回か会っている。
「それにしても、結構恥ずかしがるんですね。岬さんの職業的に平気だと思ってたんですが」
「公共の場で猥談は出来ないっての。匿名性のあるネット上はともかく、公言することでもないし」
「そんなにエッチなことではないと思うんですけどねぇ。胸の話ですよ? 岬さんの貧乳の話だとか」
「充分エッチだっての。それに、貧乳云々はもう良いから。ステータスだってことで割り切ったから」
翼とは対照的に、私の身体は割と貧しい感じである。
おっぱいはない。
皆無どころか虚無の極致である。エロコンテンツではお馴染みの胸で挟むタイプのプレイスタイルは夢のまた夢である。パイでズレない。ふぁっく。まな板にしようぜ。
ただまぁ、顔立ちは整ってる方だと思うし、尻も揉み応えがある――もちろん自分で揉んで確信した――くらいには大きいと思うので、割と需要はあると思う。
あとは、私のような貧乳ケツデカ変態眼鏡女好きの年下美少年がいてくれれば――。
「そういえば、ショタも、ある意味では貧乳ですね」
「それには同意だけど、なぜその発想に至ったのか」
翼と雑談する度に、私はいつも脱力しそうな気分を味わう。
昔は結構初心な性格だったはずなのに、いつの間にかこんなにも場所を選ばずに猥談が出来るようになったのやら。
――おそらくはきっと、あの彼氏のせいに違いない。
「ところで、今日の本題ってなんだったっけ。私に直接話したいことって。ひょっとして彼氏のメイドフェチに耐えられなくなったとか?」
「いえ、彼氏の方に関しては、水着とメイドの組み合わせもアリだよねって、ソシャゲのおかげで安泰ですが」
安泰なのかい。
「ちなみに、彼氏と一緒にガチャ回したら一発目で出ましたね」
「喧嘩売ってんのか」
苛立ちはするけど、それにしても。
なんというか、毎回話を聞く度に奇妙なバカップルだと思う。
有森翼には、同じ下の名前を持つ彼氏がいる。彼も翼だ。キャプテンなんて冗談は言わない。
男の方の翼は、有森翼を男にしたような外見だった。二人を並べて双子だと紹介されても、信じてしまいそうなくらいに違和感が無い。
有森曰く、魂の繋がりとか運命のようなものを予感させるような出会いだったらしいが、何にせよ上手くいってるようだ。
あと、魂の繋がり、というのは当たってると思う。
それはさておき。
「先日、岬さんがメールで送ってきたものがありましたよね。ほら、仕事の合間に書いてたって言う」
「あー、ひょっとしてあれ? 少年と魔女の話?」
「そう、それです。岬さんが、ハーレムもののシナリオを書いていた片手間に書いたという」
「おい、言い方」
でも、たしかに事実だった。
私――遠坂岬は、フリーのシナリオライターとして活動している。書くのは主にドスケベなシナリオだ。
俗に言うアダルトゲームのシナリオを手がけている。最初はサブライターとしての出発だったけど、少しずつ丸々一本書かせて貰えるようになってきた。
思い通りに書けないこともあって、苦しいけど楽しい仕事だ。
けれども、ドスケベなシーンを書いていると、たまにドスケベ以外に自分が書きたいものって何だろうと思えることがあるわけで。
――そうして書いたものが有森の言う、少年と魔女の話だ。
「たしか、タイトルは『僕と魔女の終わった話』でしたよね」
「うん、まぁ、そうだけどね。――読んでくれたの?」
「ええ。それなりに興味深い内容でしたよ。遠坂さんが以前に書いたという同人ゲームのシナリオみたいに、また禅問答かよとか、色々と曖昧にしすぎだって、思っちゃいましたけど」
「……痛いこと言うねぇ」
割と辛辣な意見であった。
けど、書いてしまったものは仕方がない。
そういう物語を書かずにはいられなかったのだから。
「それで、この物語はどうするんですか?」
「あー、うん、そうだねぇ……考えてなかったけど、同人ゲームとして出そうかなって思ってるよ」
「フリーゲームですか?」
「まぁ、そうなるかな。前にも何本か作った時に、誰かから感想を貰ったことが忘れられなくて、久々に作ろうかなって」
「エターならないでくださいよ。遠坂さんは、人並み以上に飽きっぽい性格してますからね」
「あー……うん、自覚はしてる。祈ってて」
なお、飽きっぽくない時でも、やる気が死ぬこともあるので要注意である。ぽっくりと秒殺しやすいのだ。
「まぁ、なんやかんやでシナリオを書き上げたは良いけど、ゲームとして組み立てるのが面倒くさくなって、結局このシナリオは小説投稿サイトにアップロードする、なんてこともあり得そうですけどね」
「おいやめろ」
未来予知みたいなことすんなや。
呪術的なアレで本当にそうなりそうだから。
と、とにかく、この話は一旦終わりである。
そこからは、お互いの近況へと会話が移行していった。
有森とその彼氏のこと。
どうやら彼女たちは同棲生活を始めたらしい。性欲をもてあます度に、色んなコスプレするリア充大爆発な生活を送っているようだ。羨ましい。
そんな風に茶化していたのが悪かったのか、今度は反撃とばかりに私の話に引火させてきた。
彼氏は出来たのかとか、処女はこじらせてないかとか。どんな心配の仕方だろうか。これは酷い。
とりあえず、イケメンメンタルで絶倫なショタとエロいことしたい旨だけは伝えておいた。なぜかどん引きされた。
良いと思うんだけどなぁ、ショタおね。
いやまぁ、おねショタも好きと言えば好きなんだけれど、ショタおねほど欲望をそそられないというか、ムラムラしないというか。我ながらこれは酷い。こじらせてやがる。
――などと、雑談しているうちに、これから行く予定のカラオケの予約時間が迫ってきた。
私は、店を出る前に一杯とカプチーノを啜る。牛乳の泡が唇の付く感触が、少しだけくすぐったかった。
「――ねぇ、遠坂さん」
そんな時、私と同じように砂糖入りのエスプレッソを啜っていた有森が、呟くように声を上げた。
顔は俯いたままで、じっくりと何かを考えている。
「さっきの話なんですけど、少しずつ気になってることがありまして……」
「気になるって?」
「魔女の話」
有森は、『僕と魔女の終わった話』に何かを感じたようだった。上手く言えないようなものを。
――まるで、物語に閉じ込めた私の祈りに気付いたみたいに。
「あれが物語だってのはわかってるんですよ。物語なんだから、最初から最後まで曖昧で、夢のようなものでも良いと」
「まぁ、そりゃ……言い訳っぽいけど、物語だしね」
物語は、どんな形でも存在が許されるのだから。
「ただ、違和感があるんです」
有森が私の顔を真正面から見つめる。
私は、あの物語のことを忘れても良いよ、と言おうとした口を閉ざす。閉ざしてしまったから。
「ねぇ、遠坂さん」
隠していたものに気が付いてくれたと思ったから
「あの物語って、どっちだったんですか?
「どっちって、何が?」
「――真実」
真剣そうな響きのある声を聞きながら私は、自分の唇が三日月のように曲がっていくのを感じていた。
それはまるで、何かを許された時の安堵に似ていた。
「それはつまり、結局魔女はいたのか、いなかったってこと?」
「そうです」
有森はそう言って、首を縦に振った。
それはどこか、何か確信していることがあったから、確かめようとしているみたいだった。
「語られてなさすぎなんです。少年がいて、魔女がいた。そういう話なんだと思えば、それまでで。ちゃんと完結しているはずなんですけど、なんというか、こう……どこか」
自分自身に問いかけるみたいに、彼女は呟く。
「書きたくないものがあるみたいで――」
「――いたよ。あの物語の中には」
だから私は、濁りかけた言葉を断ち切るように言った。
指摘してほしかった、という気持ちを茶化すために。
「魔女は――本当にいた。そういう話だったんだ」
それを聞いた有森は、少しだけ困った顔をする。
本当にいた、とはどういう意味なのかを考えあぐねているように見えた。
私はその表情に触発されて、口を滑らせそうになる。語るつもりのなかったものを。
――でも、それは少しだけグロテスクな話だ。
ファミレスで話すような健全な話ではない上に、自分でも持て余してしまいそうな内容だ。
どうしよう。どうしようか。
私は少しだけ考える。
有森を見る。彼女は今も『本当にいた魔女』のことを考えているような顔をしている。
周囲を見渡してみる。いつの間にかファミレスには空席が目立つようになっていた。昼食という用事を済ませて、そさくさと帰路に就いたのか、仕事に戻ったのか。
いずれにせよ、私が何かを口走っても、赤の他人がそれを聞いて顔をしかめるということはなさそうだ。
――それなら、良いのかな。
私はもう一度考える。こうなった時の答えは決まっていた。
――良いよね、もう。
自分を許してしまえば、あとは転がり落ちるだけだった。勝手に唇が動き出す。口が滑る。喉が震える。
これで良かった、と開き直る自分を認識する。
本当は誰かに聞いてほしかった、なんて冗談みたいな言い訳を胸の中で呟きながら。
出だしは、よくある昔話のお約束から始まる。
「――昔々、捨てられた少女がいました」