3
ふと気がつけば、太陽が沈み始めている。
ずっと歩き続けていた。
目的地に近いバス停で下車してから、足が棒のようになってしまうほど歩いたような気がする。
頭の中がぼんやりとしていた。熱中症か何かだろうか。水分補給を欠かさずに、こまめに休憩を取ってきたつもりだったが、思った以上に身体に負担がかかっていたらしい。
熱中症に加えて、忘れていた疲れが押し寄せてきた。アドレナリンがどばどばと流れていたせいかもしれない。
疲れた、疲れた、疲れたなぁ。
リズム良く、疲れたと脳内で歌っていると、ますます疲労が増してきたような気がしてきた。精神的にも疲れている。
地面に倒れ込んで目を瞑れば、そのまま眠ってしまいそうだ。ひょっとすると死んでしまうかもしれない。
本当に死んでしまいそうだ。
僕は、近くの樹に背中を預けて腰を下ろした。動かないだけでも少し楽な気分になる。
なんだか足の裏も痛くなってきた。靴擦れかもしれない。痛くてたまらない。どうしてこんな痛みを忘れてたんだろう。
――全部アドレナリンのせいだ。
駅前で買ってきたゼリー飲料とスポーツドリンクを胃腸に流し込む。もう少しだけ楽になったような気がするが、ぼんやりとしていた頭の中は悪化しているような気がした。
――今、僕が見ているのは、夢なのか、現実なのかわからなくなってくる。
頭の中が、ぐちゃぐちゃに掻き回されてきた。
これまでずっと歩き続けてきて疲労困憊になったせいか。はたまた酸欠気味で脳が幻覚を見ようとしているからか。
ひょっとすると、ここに来るまでの間に彼女のことを延々と思い返していたからかも知れない。頭の中にあった記憶を使い潰すみたいに反芻していたのだ。
もう今と過去の区別が出来ていない。
気がつけば、僕は正気を失いつつあった。
身体が自分自身の制御を離れて勝手に動いている。蓄積してきた記憶と知識が混ざり合う。時間の境界線が曖昧になってくる。僕は僕がわからない。
――彼女のことも、わからなくなりそうで。
歩きながら、僕はもう一度思い出そうとする。
彼女のことを。
魔女のことを。
まるでそれしかないみたいに。
――ところで、彼女はなんて名前だったんだろう。
僕は、思い出そうとする。
でも、名前なんてものは出てこなかった。どれだけ探しても記憶の中から見つからない。
焼き印が見つからない。熱傷が見つからない。ケロイドが見つからない。
どこだ。どこなんだ。
僕が覚えたはずの、彼女の名前はどこに仕舞ったんだ。どこに消えてしまったんだ。どうして無くしてしまったんだ。
おかしいじゃないか。
なんで僕が彼女の名前を忘れてしまうんだ。あれは永遠だったはずだ。不変のものだったはずなんだ。失われないようにと頭の中に閉じ込めた宝物のようなものだったんだ。
僕はその宝物が失われないようにしていたはずだった。はずなんだ。どうしてだろう。どうしてどこにも見つからないんだろう。わからないんだろう。
わからないまま、僕の意識は眠りの国へと落ちていく。
「――ねえ、知ってた? 本当はボクに名前なんてなかったんだよ」
気がつけば、僕は夢を見ていた。
身体の感覚を失い、視点だけの存在にされて、再現映像のようなそれが目の前を通り過ぎているのを観客席で傍観している。
夜闇に包まれた森の中。
そこには月明かりに照らされた二人の男女がいて、迫り来る終わりに震えている。見ているだけで胸の奥が苦しくなってしまいそうな光景だ。苦しくなって当たり前だ。
ああ、そうだ。
たしかに、これは本当に夢だ。
かつての僕が通り過ぎた光景が、そこにある。
――終わりの景色が、そこにある。
「酷い話だと思わないかい? ボクはこれまでずっと誰にも名前を呼ばれることなく生き続けてきたんだ。ずっとずっと、君に出会ってからも、ずっと。本当に酷いや」
彼女は死にながら、そんなことを言う。
それはまるで愚痴が混じった冗談のようで、けれども冗談だけで終わってくれない遺言みたいだった。
「ありきたりな疑問だけどさ、死ぬってなんなんだろうね」
彼女が、ぽつりと寂しそうに呟く。
――終わりは、唐突だった。
僕と彼女はいつも通りの朝を始めて、いつも通りに楽しく家事をしたり遊んだりして話し合ったりして、眠る前にと夜の散歩に出かけた。
その最中だったと思う。
彼女の身体が、何の兆しも脈絡も無く――まるで伏線が回収されない物語みたいに、唐突に崩れ落ちてしまったのは。
死に始めたのは。
「死ぬ。もう少しでボクは死んじゃうんだ。なんだか嘘みたいだけど、本当に死んじゃうみたいだね。嫌だなぁ、うん。本当に嫌だなぁ」
彼女は、力を失ったかのように倒れていた。
まるで電池が切れた機械仕掛けのオモチャみたいだ。動こうとしても動けない。その証拠に、彼女は身体を起こそうとして何度も失敗している。もう立ち上がることが出来ないのだ。
僕は、地面に膝をついて、彼女の身体を抱き締めていた。徐々に冷たくなっていく彼女の身体から、少しでも温もりを与えて、止まってしまわないようにと。
そんなことをしたって、どうにもならないとわかっているのに。止めたくても止められないのだ。
「いつか死ぬってことを受け入れてたつもりだったけれど、やっぱり死ぬのってすごく気持ち悪いものなんだね。予想以上すぎて、お姉さんはびっくりだよ」
独り言みたいに、彼女は囁く。
それはどことなく遺言のように聞こえた。
僕は、その答えのような遺言を遮りたくて、彼女の名前を叫ぼうとする。やっぱり思い出せなかった。本当に彼女の名前は、僕の頭の中に実在していなかったのだ。
――だから、苦し紛れに、姉さんと言ってみせる。
「ああ、うん、そういえば最初に君と出会った時に、ボクはボクのことをお姉さんだなんて言ってたっけ。ははは。今でもハッキリと覚えてるよ。懐かしいと思うのに、なんだか昔のことじゃないみたいだ」
その呼び方が冗談みたいに聞こえたからだろう。
彼女は、力なく笑い声を上げた。弱々しくて今にも崩れそうな笑みだ。見ているだけで、僕の方が壊れたくなってくる。
だけど。なのに、僕は。
「――ねえ、君はボクのこと、好き?」
彼女は僕に問いかける。
とても大事なことを。
僕はそれに、頷くことで返事をする。
――本当のことだったから。
「そっか。なら、ボクの人生は幸せだったね」
そして、彼女は笑みを幸せの形へと釣り上げた。
まるで最後の力を振り絞ったみたいに、生きていると主張するような、力強くて――僕を包み込むような笑顔で。
魔女は、幸せそうに死んだのだ。
――それからのことは、あんまり覚えていない。
いつの間にか僕は保護されていた。
病院に入院していて、お見舞いに来た親戚に慰めの言葉をかけられていた。両親は来ていなかった。
最初は混乱したが落ち着いて詳しい話を聞くと、森の外のバス停近くに寝転がっていたところを発見されたらしい。
身体が無意識的に帰ることを選んでいたのか、はたまた死後に発動する彼女のささやかな魔法だったのか、今となってはわからない。
何にせよ、僕の家出は終わった。
他に特筆すべきことがあるとすれば、僕の家出を発端として問題が解決した結果、親戚に預けられることになったということくらいだろう。それはまた別の話だ。
不思議なことに、デジタル時計の日付は僕が家出してから一週間ほどしか経っていなかった。
僕と彼女が一緒に過ごしていたのは半年ほどだ。今にして思えば、あまり季節が変わっていなかったと思う。時間を操る魔法でも使っていたのかもしれない。
――本当はどうなのかわからないけど。
それから僕は、親戚の家に預けられて、かなり恵まれた生活を送るようになった。学校にも行って、友達と遊んだりもして、新しい家族と穏やかな日々を過ごした。
魔女のことは誰にも話さなかった。話したところで信じてもらえないと思ったし、何よりそれは僕にとって大切な記憶だったのだ。誰にも見せたくない宝物みたいに。
いや、本当は誰にも暴いて欲しくなかったのかも知れない。
僕は彼女の死を見届けたが、死体を確認したわけじゃないのだ。だから彼女の死を信じ切れて無かったのだと思う。
ひょっとしたら、あの後に魔法で生き返ったのかもしれない。死後に発動する条件付きの蘇生魔法とか、そんな都合の良いのがあったに違いないのだ。何せ彼女は魔女なのだから。
僕は、そう信じたがる子供だった。
――それからしばらくして、僕は大人になった。
正直に言えば、あんまり自覚はない。子供が年齢を重ねただけで、それ以上でもそれ以下でもないような気がする。
いつの間にか、僕は魔女との日々が夢だったんじゃないかと思うようになっていた。
たしかにそうかもしれない。
全ては僕の見た夢で、自分自身で作り上げたご都合主義の物語だったんじゃないかと。
家出するくらいに苦しんでいた僕が、誰かからの安らぎを求めて生み出した――そんなどうしようにもない夢物語。
自分を助けてくれるメアリー・スー。
都合の良い魔法使い。
――でも、本当は今もまだ少しだけ信じている。
彼女が実在していたかどうかはわからない。
生きていたのかもしれない。
死んでいたのかもしれない。
虚構の存在だった――のかもしれない。
けれど、僕が今も生きているのは彼女のおかげだったから。
そう思えるようになったから、僕は決めたのだ。
夢の顛末を見に行こう、と。
――ふと、気が付けば、僕は現実を歩いていた。
夢の世界から投げ出された気分だ。怪我こそしていないものの、筋肉痛で全身はパンクしそうで、蓄積しきれず無理矢理圧縮した疲労は自分自身を殺してしまいそうだ。
その痛みが、僕にあの時感じた痛みを擬似的に再現してくれる。あんな痛みを抱えるのは一度だけで充分だ。
目的地に到着する。
深い森の中。
気が付けば、太陽は沈み切っていて、全ては夜闇に黒く塗り潰されていた。
いつか見た時のように。
――僕は戻ってきたのだ。
そこは、僕と彼女にとって始まりと終わりの場所だった。出会って、別れた。印象に残っている特別な場所だ。
それなりに時間が流れたせいか、前に訪れた時よりもますます生い茂っている気がする。変化といえばそれくらいだ。景色を見ているだけで懐かしさが沸き上がってくる。
同時に、口の中に苦々しいものが迫り上がってきた。吐き気がする。泣いてしまいそうだ。
まだ早かったんじゃないか、と思う。
充分なくらいに遅すぎたんだ、とも思う。
僕は、目の前の現実を直視しながら彼女のことを考えた。
魔女と呼ばれる彼女のことを。
現実だったのか、夢だったのか。
――あの日々の正体を、あれからずっと考えている。