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唐突に、目が覚めた。
夢を見ていたような気がする。
思い出そうとすると、記憶がぼやけていて霞がかかったようなものになっていた。
ただ、綺麗だったことだけは覚えている。
未練みたいに。
――もう終わってしまった話だというのに。
「――終点×××前、×××前です」
車内アナウンスの声が聞こえてくる。
どうやら、僕は二時間ほど眠っていたようだ。到着まで数時間はかかると踏んでから、何もせずにぼんやりとしていたのが拙かったらしい。眠りの国で迷子になってしまった。
すぐに降りる準備をする。
ポケットを探り、スリとかに遭ってないことを確認。
財布は無事で、鞄にも異常は見当たらない。
まぁ、貴重品はほとんど持ってきていないし、仮に眠っていたとしても身体に触れられたらさすがに気付く。心配するのもほどほどが良さそうだ。
終着駅に着いた電車が止まり、自動ドアが開く。
開かれた扉の向こうから入り込んでくる涼しげな風が、眠気を拭い取りながら通り抜けていった。
僕は、数える程度しかいない他の乗客と一緒に駅へと降りる。必要最低限のものしかないシンプルな駅だ。寂れた場所にあるから仕方が無いと言えば仕方が無いのかもしれない。
駅員に切符を渡して駅を出ると、見覚えのあるバス停が見えた。目的のバスが来るまで、あと三十分くらいらしい。大幅にズレる可能性はあるかもしれないが。
コンビニで買ったおにぎりを食べつつ、バス停でバスを待つ。
ぷちぷちとした食感の明太子と、ねっとりとした舌触りの卵黄の醤油漬けを堪能しながら、先ほど見た夢のことをもう一度思い出す。
あの時焼き付いた景色は、今となっては手の届かないほど遠くへと消えてしまった。
運命なるもの。
あの時、僕は特別を見つけたと思った。
――なにせ、あの時見せてくれた彼女の笑顔は、暗闇の中でも眩しいくらいに綺麗だったのだから。
ゴミを片付けているうちに、バスが到着した。
念のため車両に設置された方向幕を確認する。間違いない。僕が待っていたのはこのバスだ。
二つの自動ドアが開いて、そのうちの一つである出口から乗客らしき老人が数人降りていく。
僕はそれを見届ける前に、入り口から車内へと足を踏み入れた。整理券を手に取る。
バスの中には、僕以外に乗客はいない。いくつかのバス停を通り過ぎた頃には、もう少しくらいは賑やかになるだろう。
僕は空いた座席に腰を下ろし、スマホで時間を確認する。午後一時近く。
このままバスに揺られて、あと四十分後には目的地に到着だ。今となっては懐かしい深い森への入り口が。
止まっていたバスが走り出す。
僕は、ぼんやりと窓の外を眺めながら、何気なかった日常の切れ端を思い出す。
視線の先には、雲一つ無い青い空が見える。
それを見ていると、なんだか泣いてしまいそうな気がした。
――彼女みたいに。
全てが輝いているような光景があった。
今はもう無い。とっくの昔に失われてしまった。いつどこにその光景があったのか覚えていない。忘れてしまったんだと思う。時間の流れは残酷だ。
けれども、どんな光景だったのかは覚えている。
――ある日の昼、深い深い森の中で。
そこには、僕と彼女がいた。
延々と生い茂る木々に囲まれて、けもの道を二人で歩き続ける。頭上を仰ぐと見える葉と枝の隙間から、青空の欠片が垣間見えた。
彼女と生きるようになってから、何度目かの青空が失われぬものとしてそこにある。
特別なものではなく、ありきたりな深い青色。
けれども、その日の青空は今でもハッキリと覚えている。瞼の裏に焼き付いたみたいに離れない。
なぜなら、僕はその日――見たからだ。
「――君を見つけた時にね、ボクは君と一緒に生きていこうって思ったんだ」
それは始まりのない会話だった。互いに思ったことを口にして、それに相づちを打ったり打たなかったり。言葉の応酬をするのではなく、声を返し合うコミュニケーション未満のもの。
離れないように手と手を繋いで、森の中を歩きながら、降り注ぐ木漏れ日に照らされて。
そんな中で、彼女は呟くように言ったのだ。
「生きる。生きていくんだって。それをずっと探していたんだ。ボクが生きる理由を。生きていこうって思える何かを」
彼女は微笑みを浮かべながら言う。
木漏れ日に照らされて、笑顔と言うには少しだけ遠い感じがしたけれども、それはとても嬉しそうに見えた。
思い出していたんだと思う。
僕を見つけたときのことを。
その時の彼女が胸に抱いていた感情を。
思い出し笑いみたいに。
「そして、君を見つけたんだ。生きようと思ったんだ。生きて、生き続けて、死んでなんかやるもんかって」
――彼女の始まりがどこにあったのか、僕は知らない。
僕のような人間と同じように両親から産まれたのか、それとも何もないところから勝手に産まれたものなのか。
何度か訊こうとしたことはあったけど、その度にはぐらかされてしまったし、あまり思い出したくなさそうな――辛そうな顔を浮かべるものだから、詮索することを止めてしまった。
だから、僕はあまり彼女のことを知らなかった。
魔女であることは知っている。
一緒に暮らしていて、実の両親より信頼できる人だってことを感覚的に知っている。
食事の時に美味しいものを口にすると、僕のような子供みたいに口元が緩むのを知っている。
埃の臭いのするベッドで一緒になって眠る度に感じる、甘い匂いと柔らかくて温かい彼女の感触を知っている。
彼女の名前を知っている。
知っていることは知っている。
けれども、それよりも知らないことが多すぎて。
「――なんだい、意外そうな顔をして?」
だからだろうか、僕は知っているつもりのことを知らなかったのだ。
――彼女が生きているという当たり前の事実を。
「お姉さんが生きていないと思っていた、と。酷いなぁ君は。うん、うん。酷い、酷いね。酷く悪い子だ。まさか、僕を死体だと思っていただなんて」
僕は彼女が死体じゃないと思っていたけれど、ひょっとすると生きてはいないんじゃないかって思ったことが何度もあった。
なにせ、今でも夢に思うのだ。
これまでのことは全て、僕が見ていた夢だったんじゃないかって。
「つまり君は僕が幻だと思っていたのか。心外だなぁ。たしかにボクは魔女という存在だ。生き物なのか、空想上の登場人物なのか曖昧な自覚はあるけども、幻だったつもりはないんだよねぇ。本当に、我ながら胡散臭いと思うけどね、魔女だなんて」
彼女は僕の言葉に呆れたような声で言う。
馬鹿なことをした子供を窘めるような態度だ。やれやれと自由な手で大げさなジャスチャーまでしている。
――もう片方の手が僕の手と繋ぎっぱなしなのが、少しだけ嬉しくておかしかった。
「――少なくとも、ボクは生きているつもりだよ。いつの日か死んでしまうことはあるだろうけど、今は生きている。魔女だって生き物なんだから」
人間じゃなくて生き物なのか魔女というのは。
彼女の言葉にますますおかしくなって、笑いながらツッコミを入れてしまう。僕は楽しくて笑っていた。
「笑うなんて酷いなぁ。第一人間だって生き物じゃないか。そんな生き物に、魔法が使えるって属性を足せば魔女の出来上がり。ほら、何もおかしいことはないだろう? 魔女も人間と同じ生き物なんだから」
じゃあ、彼女は魔女になる前は人間だったというんだろうか。魔法というものを手に入れたから、人間から魔女になったのだと。
「――さあ、どうだろうね」
そんな僕の疑問に、彼女は寂しそうに答える。
「正直言って覚えていないんだ。気がついたら僕は森の中にいて、自分が魔女だって確信だけを持っていたんだ。他に持っていたのは名前だけ。元々人間だったのかも覚えていないんだ」
こんな風に彼女が自分自身のことを詳しく話すのは、これが初めてだった。
彼女は魔女。
それは本当に言葉通りの意味だったのだ。人間の形に近い魔女。魔女という名前の属性以外には何もなかったのだと。
――なんだか、僕は泣きそうな気持ちになる。
「でも、良いんだ。そんなことは気にしないことにしたんだから」
けれども、彼女はそんな僕の不安を拭い去るような声で言った。それからすぐに、いったん僕の手を離したかと思うと背後に回り込んできて、ぎゅっと抱き締められる。
僕はその一瞬の出来事に反応できなくて、大人しく抱擁を受け入れるしかない。
彼女の両腕が、僕の身体を強く強く抱き締める。このまま一生離すつもりがないみたいに、とても強く。
少し痛いよ、と呟くように言うと、彼女は腕の力を少しだけ弱めてくれた。痛みが和らぎ、じんわりと体温が伝わってくる。彼女の温もりだ。
「――ボクは君の人生なんだ」
耳元で囁くように、彼女が言う。
それはまるで愛の告白みたいな真剣さで、そして、なんだか泣いてしまいそうな声だった。
「だから、君にはどうか、ボクの――」
そして、僕と彼女は約束を交わす。
彼女に抱き締められたまま、とても大事なことを。
「――ありがとう」
そして、その時――僕は見た。
感謝の言葉に思わず振り返った時に、緻密なガラス細工みたいにひび割れそうな顔をしながら笑ってみせる彼女を。
脆くて、崩れそうで、けれども幸せそうな笑顔を。
――僕は眩しすぎるほど綺麗だと、思ったんだ。




