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これは、いつかどこかのお話です。
少年と魔女の、いつかどこかにあった――ただのお話。
――僕は綺麗な人と一緒にいたかった。
遠い昔のことを思い出す度に、再確認するようにそう思う。何度繰り返したかもわからない。今となっては確認するだけして、それ以上のことは考えない。そういうものになってしまった。
ただそれでも、残滓のような感情は今も残っている。僕は綺麗な人を知っていて、その人と一緒にいることが望みだったのだ。とても大事な望みだったのだ。それこそ掛け替えの無いものだと断言できるくらいに。
そうだ。掛け替えの無いものだった。
思い出すたびに泣きたくなってしまうくらいに、僕にとっては大切な人だったのだ。本当の本当に。
本当に綺麗な人だったのだ、彼女は。
――魔女を自称していた、あの人は。
僕と彼女の出会いは、夜闇に覆われた暗い森の中だった。
どうして僕がそんな場所にいたのかは、実にありきたりすぎて特筆することはあんまり無い。
ようするに、逃げていた。
足がもげても逃げ切れるのなら構わないと。
本当に必死で逃げ続けていたのだ。走って走って、時々歩いたり、吐きそうになったりしながらも、逃げ切ってしまえばなんとかなると思っていたから。
――ふと、気が付けば森の中にいた。
森の中は、まるで暗闇に支配されているのかと思えるほど、一寸先が見通せなくて、もし何も考えずに足を進めたら、そのまま溶かされてしまいそうな場所だった。
本当はそこまで大げさに表現しなくても良い場所だったとは思う。何か特別な場所だったわけじゃない。森は森だ。数ある中の一つでしかない。
ただ当時の僕は怯えていたのだ。目に映るもの全てが敵に見えてもおかしくないくらいに。本当に何の力もない子供だったのだ。
――何の力も持たない子供が、生きていけるわけがない。
今にして思えば、生きていけたのではないかと思う。子供だろうと、ちょっとしたことで死んでしまうくらいに弱かったとしても、万が一くらいは。
だが、あの頃の僕は絶対に死んでしまうと思っていた。死ぬのが当たり前で、そうじゃなかったら間違いなんじゃないかと。僕は死ぬ。死なないとおかしいんだって。
そうだ。あの時の僕は本当におかしかったのだ。
だからだろうか。
――あの声を、最初は自分に都合の良い幻聴だと思ったのは。
「――やぁ、君。こんな夜更けにどうしたんだい?」
それは女性の声だった。
僕よりも少し年上な大人の女性――そんな風に聞こえる、若々しくも重みのある声質。
最初は、妄想か勘違いだと思っていた。
こんな深い森の中で僕以外に誰かがいるわけが無いと思っていたし、ひょっとしたら恐怖を緩和するために自分が生み出した架空の存在なのかもしれないと思ったから。
けれども、虚構だと思っていたその声は、鼓膜に染みこむような音となって再び発せられた。
「君だよ君。もう一度聞くけど、こんな夜更けにどうしたんだい? それも、こんな森の奥に」
その時、視界の中に女性の姿が入ってきた。
少しだけ思考が止まる。
僕が目にしているのは現実か幻か。
なにせ、その人は何もない闇の中から突然現れたのだから。
「ひょっとして迷子かい?」
彼女は、首を傾げて問いかける。
僕は、違うと首を横に振って答える。
ひょっとしたら、本当に僕は迷子だったのかもしれないけれど。その自覚がなかっただけで。
――迷子になんて、なりたくてなったわけじゃないのに。
「迷子でもないんなら、なんだろう……なんだっけ。なんかそれっぽい呼び方があったはずなんだけどなぁ……なんだったっけなぁ。うーん、なかなか出てこない」
彼女は、ますます首を傾げて考え込んでしまった。
喉元までせり上がってきた言葉を思い出そうとしているらしい。気になっていることがあると、深く考え込んでしまう性質のようだ。
僕は、改めて彼女の姿を見つめる。
――その人は、それこそ僕の妄想なんじゃないかって格好をしていた。
ファンタジーな絵本に出てくるような黒ずくめの装束――黒いとんがり帽子に、黒いローブと黒いマントに、黒い靴。
いかにもな『魔女』の具現化。
虚構が質量を持ったかのような印象を受けた。
時と場合によるだろうが、普通に生きていたらまずお目にかかれない姿だった。
彼女は、暗闇に溶けてしまいそうなほど黒に覆われていた。まるでそれ自体が彼女の本質であるかのように。
その時の僕は、なぜか彼女の姿を認識していた。暗闇の中で、同じく暗闇から生まれたかのような彼女を見ていたのだ。
――どうして、あの闇の中で僕がその姿を見ることが出来たのか、今でもわからない。
「ひょっとすると、迷子でも捨て子でもなくって、家出してきたのかな?」
彼女の姿形を捉えようとしていた僕の思考を断ち切るかのように、彼女が問いかけてきた。
家出。たしかにそうかもしれない。
僕は、ここまで逃げてきた。
今の今まで自分が家の中で積み重ねてきたものを、惜しんでしまうほどのものを――全部捨ててまで逃げてきたのだ。
――逃げたくなかったのに、逃げるしかなかったから。
「それで、やっぱり家出してきたのかい?」
彼女が問いかける。
僕は「そうかもしれません」と答える。
そこでようやく、家出したんだと実感した。
「かもしれない、ね。じゃあ大事なことを聞くよ。君はどうしたいんだい? 家に帰りたい? それとも、お姉さんと一緒について行くかい?」
次に投げかけられた問いかけは奇妙なものだった。
途方に暮れている子供に、一緒についてくるかどうか聞くなんてどうかしている。あんまり常識を知らなかった僕でも、誘拐犯の手口みたいだなと思うくらいに。
でも、今の僕にはそれでも良かった。
目の前に居るのが誘拐犯だとしても、何も始まらないよりは遙かにマシだと思ったから。
「帰りたくないんでしょ?」
それに、彼女の声は優しげで、何かに怯えている僕の背中を守ってくれるような気がしたから。
誘拐犯かもしれない人にそんな信用を抱くなんてどうかしている、と思いながらも、求めたくて仕方がない。
そうして、僕は「帰りたくない」と答えた。
「だったら、ボクの家に来るかい? 歓迎するよ」
そして、そんな僕に彼女は手を伸ばしながら言う。
まるで、途方に暮れて泣きじゃくる子供に救いの手をさしのべる大人のように。
僕は――その手を掴む。
そのまま離したくないとばかりに、柔らかくて細いそれを大事に握り締める。生きている人の体温が伝わってくる。
「冷たい手をしてるね」
そこで僕はようやく、今の今まで自分の指先が凍ってしまいそうなほど冷たかったことに気がついた。
このままでは彼女の手を凍えさせてしまうのでは、と一瞬だけ思う。思ったせいか、身体が手を離そうと動き出してしまう。
けれど、その前に彼女からぎゅっと手を握り返された。
捕まえられたまま離れない。
「でも、ボクは好きだよ」
彼女はそう言って優しく笑う。
釣られるようにして僕も笑った。
「さあ、行こうか。このまま手を繋いで。ボクと一緒に森の奥まで――二人で一緒。生きてくために!」
笑う。笑ってしまう。
何かが変わりそうな気がして、胸の奥で何かが高鳴っているのを止められない。絶対に止めたくないと思う。
彼女と一緒の人生を、僕は期待してしまっているのだから。
「あ、そうだ。自己紹介しなきゃ。大事なことだからね」
そして、彼女は言う。
僕の記憶に焼き付いてしまいそうな言葉を。
しっかりと胸を張って、僕を真正面から見つめながら。
とても綺麗に笑って。
「ボクは、×××××。―― 一応だけど、魔女ってヤツさ」
――永遠になれと記憶に焼き付けたはずのその名前を、今の僕は思い出せない。