8
その日、珍しく深夜まで寝付けずにいた蒼汰は、少し体を動かそうと訓練場まで来ていた。
日が沈むと共に降り出した雨は強さを増し、今では土砂降りとなり訓練場に大きな雨音を響かせている。そのため空には分厚い雨雲がかかり、星の煌めきはもちろん、月明かりすらない闇夜を作り出していた。
真っ暗な訓練場に魔法で明かりを灯すと、蒼汰は訓練用の剣を手に取り、雨のかからない場所で素振りを開始した。
時間は既に深夜。草木も眠る丑三つ時と呼ばれる時間に、蒼汰が振る剣の音と雨音だけが訓練場に響く。
普段無茶な訓練をしているからか、あまり寝付けないという事がなかった蒼汰だったが、今夜は何故か目が冴えて眠れないでいた。それ故に、何か言い知れない不安が脳裏によぎってしまう。
そしてそれを振り払うように、蒼汰は無心となり剣を振り続けた。
しばらく黙々と剣を振り続けていた蒼汰だったが、ふと足下が濡れていることに気付いた。
「風も出てきたな」
先程まで真っ直ぐに降っていた雨が、今は風に煽られ斜め降りそそいでいる。
「……嵐になるか」
さすがに部屋に戻った方がよさそうだと、蒼汰は使っていた訓練用の剣を元の場所に戻し、ベンチに掛けておいた外套を羽織ると自室に戻ため歩き出した。
◆◇◆
勇者たちの自室が並ぶ廊下まで戻ってきた蒼汰は、なんとも言えない違和感を感じ足を止めた。
等間隔で並べられたランプの灯りだけでは、廊下はとても薄暗く、何に違和感を感じたのか、すぐには分からなかった。
蒼汰はゆっくりと注意深く視線を動かし、やがてある場所で止まる。
天野勇人の部屋の扉だ。
「……開いてる?」
扉がわずかに開いた。正確にはしっかりと閉まっていないと表現すべきだろうが、確かに部屋の扉は開いていた。
(さっき通った時って、開いてたかな?)
思い出してみようとするが、そもそも注意深く見ないと分からない程度しか開いていない以上、開いていたとしても、おそらく気が付かなかったであろうと、早々に思い出すのを諦めた。
それよりも――と思案のベクトルを変える。
蒼汰はこの時、何か引っかかるものを感じ、同時に何故か背中に冷たいものが流れるのにも気付いた。それが何なのか、理由を探る。
そして引っかかっていたものの正体に気付く。何故天野の部屋の扉が閉まっていないのかと。
天野は何を成すにも完璧にこなす人間だ。それはどんなにリラックスしている時でも同じで、まったく隙がない。
そんな天野の部屋の扉が、閉め忘れている。それが引っかかるのだ。
もちろん寝ぼけてトイレにでも行ってきて、ちゃんと閉めずにそのまま寝てしまったという可能性もある。
だが、あのなんでも隙なくこなす天野が、そんなダラシない事をするだろうか?
一年近く共に生活をしてきた天野の姿からは、到底想像できるものではない。
何かあった――のか?
不安が大きくなる。
蒼汰は何事もなければいいと、天野の部屋の前に立ち軽くノックをした。
雨音だけがわずかに聞こえる薄暗い廊下に、木の扉を叩くノック音が小さく響いた。
返事は――ない。
もう一度、ノックする――だが、やはり返事はない。
生唾を飲み込み、蒼汰は意を決してノブに手をかけた。
ゆっくりと音もなく開いていく扉、それと同時に漂ってくる雨に濡れた鉄のような臭い。
窓には厚いカーテンが引かれているためか、部屋の中は真っ暗で何も見えない。廊下のランプの位置がもう少し部屋に近ければ、灯りが差し込むこともあったであろうが、今の位置からではそれも叶わない。
「……天野」
小さく深呼吸をして、天野の名を呼んだ。だがその声は闇に吸い込まれ、静寂のみが返ってくる。
「中に入るぞ」
天野に呼びかけるように声をかけ、部屋の中に足を踏み入れる。
一歩、二歩、三歩――とその時、何か重いものが足先に当たり、ゴロリと音を立て転がった。
足を止め周囲に目を配る。だが部屋の中は暗く様子がまったく分からない。
もうすぐ春とはいえ、季節はまだ冬と呼ばれる季節。なのに身体中から汗が吹き出だす。暑いわけではない――嫌な予感が高波のように襲ってくるからだ。
わずかな逡巡ののち、魔法を使い灯りをとることを決める。何が見えてもいいように覚悟をして――
魔法で創り出した光が室内を照らし出された瞬間、蒼汰は絶句した。
そこはまさに血に塗れた部屋だった。ベッドに置かれた枕を中心に、爆発したかのように周囲が真っ赤に染められていたのだ。
あまりの光景に吐き気が襲い、蒼汰は口を手で押さえて、壁にもたれかかった。
――何が起きている?
パニックになりそうな思考を無理矢理押さえつけ、状況を理解しようと頭を働かせベッドを観察する。
掛け布団の中には人が寝ているような膨らみがある。もしかするとこの惨状はイタズラで、あの布団の中に天野が丸くなって寝ているかもしれない。
そんな事はあり得ないと分かっていても、蒼汰はそう自分に言い聞かせ、それを確認するべく布団をめくることを決めた。
腹をくくり一歩踏み出す。だが出鼻を挫くように足先に重い何かが当たり、ゴロリと鈍く重い音を立てた。部屋に入った時に蹴ってしまった何かが、再び足に当たったのだ。
蒼汰は大きく深呼吸をすると、何を蹴ってしまったのか確認するため視線ゆっくりと下げた。
「――――ッ!!」
声にならない悲鳴を口に、蒼汰は飛び退くように後退して壁にぶつかると、そのまま崩れ落ちるように座り込んだ。
「あ、あ、ああ天野――!!」
そう、そこにあったもの、それは天野の生首。美しかった顔は無残にも切り刻まれその顔ははっきりと確認は出来ないが、あの特徴的な亜麻色の髪は間違いなく天野のもの。そんな天野の血塗れの頭部が無造作に転がっていたのだ
「な、な、何が……」
部屋の明かりをつけた時から分かっていた。いや部屋を開け、鉄のような臭いを嗅いだ時から、可能性の一つとして頭の中に浮かんでいた。
それだけに覚悟はできていると思っていた。だが現実を目の当たりにした瞬間、まるでブレーカーが落ちたかのように思考が働かなくなってしまった。
息は荒く、動悸は速くなり、汗が止めどなく溢れてくる。
何をどうすればいいのかまったく分からない。頭が真っ白になり、考えることを拒否する。
だが状況は、蒼汰の理解を待つことなく、坂を転げ落ちるように進み始める。
それは女性の悲鳴だった。どこか遠くから聞こえたその悲鳴は、とても小さなものだった。だが何故か、パニックに陥っていたはずの蒼汰の耳にしっかりと届いた。
一瞬で我にかえる。いや、体が反応したという方が正しいだろうか。蒼汰はその悲鳴を聞いた瞬間、転がり出るように天野の部屋を出て、女子部屋が並ぶエリアに向け猛然と駆け出した。
蒼汰は全速力で廊下を走りながら考える。
――現状、自分たち勇者を狙った襲撃者がいる。それは間違いない。
最初は、天野を狙った暗殺かと思ったが、先程の悲鳴から勇者に対する襲撃だと考えを改めた。
ならば襲われた者が天野だけとは考え難くなる。先ほどの悲鳴がその証左とも言える。
となればやはり、翔子が心配になる。もちろん他の仲間のことも心配ではあったが、どうしても翔子を優先してしまうのは、蒼汰の心情的に仕方のない事だった。
「翔子、無事でいてくれ」
蒼汰の焦りがそのまま口をついて出た。
さらに、聞こえた悲鳴が翔子の声に似ていたことが、焦りに拍車を掛ける。
冷静に考えれば、向かう先に敵がいると分かっている以上、丸腰のまま突っ込むのは死にいくようなものだと分かるはず。だが――
蒼汰は今、防具はもちろん剣も持っていない。一応少し体を動かそうと訓練場に行ったため、動きやすい服装に着替えてはいたが、それも部屋着に毛が生えたようなものでしかない。
せめて訓練場の剣でも持ってきていれば、まだマシであっただろうが、こんな状況だと知らなかった以上それも不可能であろう。
それでも自室に一旦戻れば防具は無理でも剣くらいは準備できただろうが、焦りが募る蒼汰には、それすら頭に浮かばないでいた。
◆◇◆
廊下を抜けラウンジに続く扉を開けた。
暖かな温もりを感じる暖色系の灯りに照らされたラウンジ。そこはいつもと変わらぬ光景が広がっていた。しかし、感じる気配はまったくの別物。正確にはさらに奥、女子部屋エリアに続く扉の奥からから、その気配は漂って来ていた。
蒼汰は迷うことなくラウンジを駆け抜けて、扉を蹴り砕くと勢いそのままに女子部屋が並ぶ廊下へと躍り出た。
最初に目に入ったのは開け放たれた扉と、その正面の壁にもたれ掛かるように倒れている女性の姿。
彼女の白いワンピースは血に塗れていた。艶のある黒髪から覗く美しい横顔は青白く、薄紅色だった可愛らいい唇は、紫へと色を変えていた。
全身の血が一斉に引き、背筋が凍りつく。歯の根が合わずガタガタと鳴り、全身が粟立ち震えだす。
それは恐怖。最も大切なものを失うという恐怖。それが蒼汰を襲う。
「しょ、翔子……」
蒼汰は絞り出すように倒れている女――水野翔子の名を口にした。
その時、死んでいると思われた翔子が、自分の名を呼んだ声に反応するかのように、わずかに目を開けた。
「翔子!!」
生きている。すぐに治療すれば、今ならまだ助けられる。
蒼汰はすぐに翔子に駆け寄ろうとした。だが――
突如襲った背中への衝撃と共に、蒼汰は床に叩きつけられる。そしてそのまま、何者かによって万力のような力で無理矢理押さえ込まれてしまう。
「クッ、誰だ!? 離せ!!」
必死にもがきながら、自分を押さえ込んでいる者を睨みつける。
そこにいたのは、全身紫の毛に覆われた狼頭の――まるで犬鬼人のような魔人。だがそれは、犬鬼人とはまったくの別物。
そいつは犬鬼人というよりも、人間に近い引き締まった肉体を持ち、頭部には二本の山羊を思わせる鋭くそして反り返った黒い角を生やしていた。
体躯は狼らしく細身なのだが、三メートル近い巨躯でもある。まさに化け物という風体だが、金色に輝くその瞳には、何故か高い知性が感られた。
「なんだ、てめェ! 離せよ、クソが!!」
罵声を浴びせ力の限り暴れるが、無言で押さえ付けてくる狼頭の化け物の力は凄まじく、岩にのしかかられているようでまったく振り退けない。
このままでは翔子が死んでしまう。
状況をなんとか打開するべく、武甕雷を召喚しようとしたその時、その声は聞こえた。
「なんだ、騒がしいと思ったら蒼汰じゃねぇか」
それは聞き覚えのある声。いや、聞き慣れた声だった。
その男は、扉の開け放たれた部屋から武川だったものの髪を掴み、引き摺って出て来た。
そして身動きが取れない蒼汰を見て、口元が裂けたような怖気を感じる笑みを浮かべた。
その男とは――
「雅人オオオ! てめェ、どういうつもりだアアア!!」
【ドレインマスター】の勇技を待つ勇者。そして勇者の中で、蒼汰と最も付き合いの長い男――〝東城雅人〟だった。
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