5章 8
「本部長。帰らなくて大丈夫なのですか?」
「なぜ?」
田川主任は遠慮がちに答えた。
「いえ、お子さんが今大変だと聞きましたので」
本部長は持っていたコーヒーの缶を捨てた。田川主任は続けて話した。
「心配ではないのですか?」
本部長は新しくホットコーヒーを買った。ブラックコーヒーだ。
「心配ではあるが、それはプライベートの話だ。仕事には持ち込まないよ」
ブラックコーヒーを田川主任に手渡した。もう一本、今度は糖分の入ったホットコーヒーを買った。
「ありがとうございます」
本部長はコーヒーを啜った。
「俺達は出来ることをするだけだ。それこそ、この仕事は世界のためなんだろう?世界のためには子どもも犠牲にしなくては、な」
田川主任は居心地が悪そうに言った。
「そうですが…」
「まあ、そんなに気にするな。子どもは案外丈夫に出来ているもんだ」
「わかりました。余計なことを言って、すみませんでした」
「いいや。大丈夫だ」
本部長はコーヒーをもう一口啜った。もう熱が冷めてしまっていた。
朝が来たら学校に行かなきゃいけない。
お母さんは、今日は休んだら?と言った。宵月も、姉ちゃん、今日は休んだ方が良いよ、と言った。あたしは大丈夫と言って、家を出た。周りのみんなはワイヤレス・イヤホンと電子コンタクトで電波を送りあっている。
今日のあたしはそれに不快感を味わうほどの感覚がなかった。学校に向かう電車に乗り、緩やかに坂を上った。冬枯れした木がたくさんあった。学校に着くと、昇降口で後ろから声を掛けられた。
「おはよう。蓮」
那智だった。あたしは安堵の表情を浮かべた。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
首を振った。あたしと那智は教室へ向かった。
午前の授業は滞りなく進んだ。合間の休み時間も特に変わったことはなかった。嫌いな情報系の授業を受け、お昼休みはあっという間にやってきた。
「蓮、一緒にお昼食べよ」
「うん」
あたしは屋上に行くのはさすがに怖かったので、教室で食べるように提案した。
「どうしたの?蓮」
あたしはじっと固まってしまっていたようだ。
「あ、なんでもない」
「それにしても零君、休み長いね」
那智は心配しているようだ。
「そうだね。早く来てほしいね」
「蓮も寂しいんでしょ?」
「うん。ちょっとね」
何気ない会話が嬉しかった。那智は昨日のことを知らない。でもネットに姿を晒されたから、知ってるのかもしれない。でも那智は、触れてこなかった。昨日の打撲が痛むけど、その雑談はそれすらも忘れさせた。
那智がトイレに行きたいと言った。あたしも一緒にトイレに付き合った。トイレに入った瞬間、後ろから誰かに突き飛ばされた。
「昨日だけだと思ってたの? めでたいヤツー」
太った女生徒が言った。
「あなたたち、なんなの?」
那智が問いかけた。
「おお、怖いねー。でも逃がさないよ」
痩せた女生徒がきゃっきゃっと笑った。
「那智、逃げて」
「でも…」
「いいから逃げて」
あたしは、那智だけでも逃がそうと必死に掴み掛かった。那智は三人の間を潜り抜け、トイレの外へ逃げていった。
「先生呼んでくるから」
那智はそう言って、トイレから出ていった。
「あの女は別に興味ないからね」
つり目の女生徒は廊下に清掃中の看板を出したらしい。その作業を終えて、トイレの中に戻ってきた。
「それじゃ、大人しく殴られときな」
また昨日と同じだった。人目につかない場所で、ぱっと見じゃわからないような場所を殴り、蹴ってきた。あたしは必死に抵抗したけど、三人対一人の差じゃほとんど何もしてないのと変わらなかった。しばらくすると、意識が遠のいていった。
起きると、那智と先生がいた。三人組は逃げた後のようだった。那智は泣きながら謝っていた。
「ごめんね。助けてあげられなくて」
「大丈夫だよ。泣かないで那智」
先生は腹を立てているのか、興奮した様子で言っていた。
「全く、こんなことしたのはどこのクラスのやつだ」
あたしはその後、先生に連れられて保健室に行った。骨に異常はなく、全身に打撲があるらしい。あたしは先生の車で家に送ってもらった。
あたしはやっぱり弱いみたい。
もう今すぐにでも涙が溢れそうだ。




