死興
ひんやりと心地よい風が頬をかすめた。突き抜けるような高い空。澄んだ空気。スズメがさえずり、静かで美しい朝を迎えた。小さな部屋の窓から見える、四角く切り取られた美しい世界は、まるで芸術作品のようだ。大きく深呼吸をし、脳がスッキリとするのを感じる。自然と口角が上がり、私は。…私は、死ぬことにした!
特に嫌なことがある訳では無い。いじめられてもいない、借金もない。至極真っ当に生きてきた。ストレスもあまりない。病気も特にない。でも、楽しいことがあるわけでもない。私には趣味もないし仲のいい友達もいない。友達がいない訳では無いが、腹心の友というわけでもない、ありふれた友達しかいない。嫌なこともなければいいことも無い。言うなれば完全な無、世間が言うのなら気の迷いというヤツなのだろうか。一時的なものならしばらくすれば何かが変わるだろう。だが、一時的なものだからこそ私は死ぬことにした。死ぬということを思いついた瞬間、久々にウキウキとした気持ちが湧き出てきたのだ。死ぬなら今が丁度いい。せっかく死ぬなら今死にたい。この気持ちを支えているのは好奇心、それ以外は何も無い。子供の頃から好奇心だけは人より強かった。今の私は昔のような無邪気な気持ちなのだ。
しかし、いざ死ぬとなると何から始めればいいのか。なにぶん慎重な性格なもので、行動に起こす前にちゃんと段取りを踏まないと気が済まない。死ぬ方法…の前にまずはしなきゃいけない事がある!…かもしれない。とりあえずインターネットで調べれば大半のことは分かる。それがこの世の中だ。検索欄に自殺、と入れてみる。予測変換は悩み相談などの自殺防止をうたうものばかりだ。しかし、そんな中で1つ、するべきことが見つかった。遺書だ。
分かったからには即行動。間髪入れず私は鉛筆と消しゴム、そしてレポート用紙を机代わりの段ボールに乗せ、興奮収まらぬまま書き出そう…!と、するほど無計画ではない。そんな性格だ。…さて、書き出しは…。拝啓、でいいのだろうか?遺書特有の書き方があるのかもしれない。遺書の見本を探してみよう。やはりここでも役に立つものはインターネットなのだ。…ふむ。
「先立つ無礼をお許しください」
「お父さんお母さんごめんなさい」
「自殺なんてものをして、ご迷惑をおかけします」
…なんだか、マイナスな言葉ばかりだ。確かに自殺することによって多くの人間に迷惑がかかるのかも知れない。しかし、これらを書いた人達、まぁ、これから私も死ぬのだから先輩と呼ぼうか。先輩達は皆、苦しみから逃れるために死んだのだろう。勝手に読んでおいて失礼かもしれないが、今の私にはなんの価値もない。やはり書き出しは拝啓なのだろうか?…ん?
その時、ある言葉が目にとまった。これは!!これはいい、この書き方は実にいい!!私はこの書き出しを使おう、少しキザな気もするが、人生最後の大舞台だ。この所全く無かった興奮が間髪入れず降り注ぐ。今ならなんでもできる気がする。少しぐらい格好つけても怒られまい。と、いう訳で私は書き出しにこの言葉を選んだ。
「この手紙を読んでいるということは、もう私はこの世界にはいないのでしょう」
…さて、次は内容だ。まずは私を育ててくれた両親へ、感謝の言葉でも綴ろう。そして、かつての恩師にも感謝を。あとは私と仲良くしてくれた友人達。それとお世話になった上司にも。…こうして書き出してみると、多くの人に支えられてきたのだなと感じる。私というひとりの人間がこの年まで生きてきた中にこれ程の人間が関わってきたのだ。実に興味深い。…さて、他に書くべきことはあったかな?…そうだ、あまり無いが遺産の相続人を指定しなければ。…まぁ、両親でいいだろう。
さて、それでは次は死ぬためのプランニングだ。わかりやすく言えば『いつ、どこで、どのように』というのが必要になってくる。美味しいものは先に食べるタチなので、最初に『どのように』死ぬかを考えることにしよう。シェイクスピアのロミオは愛を貫き、自ら毒を煽り死んだ。アンデルセンの人魚姫は泡となり死んだ。物語の死に方は実に美しく、当たり障りない私の人生とは無縁だと思っていた。しかし自分で選べるのであれば人は様々な死を思い浮かべるのであろう。シャーロックホームズよろしく、敵を道ずれに飛び降りるもよし、太宰治よろしく、川へ歩みゆくもよし。イエスキリストよろしく、十字架に架けられるもよし。武蔵坊弁慶よろしく、立ち往生もまた美しい死に方だ。考え方によっては、ファラリスの雄牛や鉄の処女のような拷問器具による死も、美しいに含まれるのかもしれない。しかし私は御免だ。私が望むのはどうやら、痛みの少なく、そして美しい死に方のようだ。ここでまたしてもインターネットの出番だ。辛くない、美しい、死に方を調べよう。
…調べれば調べるほどどの死に方がいいのか分からなくなってきた。簡単に言ってしまえば、どの死に方も長所と短所があるのだ。首吊りは道具の準備が楽な上に見た目も中々奇抜ではあるが吊ったあとの苦しむ時間は不明確でリスクが高い上に場所も選ばなければならない。飛び降りはどの死に方より派手であり、頭から落ちれば苦しむ感覚すら無いだろう。しかし落ちた後の肉体はお世辞にも美しいとは言えない。薬品の過剰服用はリスクも低く辛い思いもほぼしないが、美しいかと言われると微妙なところだ。完全に楽なものを選ぶなら薬品系だが、それらはパンチに欠ける。かと言って派手さを追求した発火系の死に方や溺死は想像するだけで腰が引けてしまう。わがままなのは分かっているが、どうしても私は人生の最後を華々しく飾りたい。
…ふと、あることに気がついた。地味に感じた死に方でもロミオは美しく散った。つまりは、死の美しさはその者の意思と生き様次第なのだ。…つまりは、私には無理ということだ。生きてきた中で何かを残したか?譲れない誇りは?…そういう事なのだ。ではどうしようか。そもそも、先に挙げた死は皆、各自の経歴と誇りがなしたものだ。では私は…。私は、多少の苦痛を承知ででも、その道を選ぶべきなのかもしれない。これといった物もない人生だ。私は男らしい死を求めることにした。
そこで私が選んだのは『切腹』だ。
要するにサムライの死を現代に呼び戻してやろうという事だ。人生の最後を飾るには実に男らしく、勇敢に見えるのではないだろうか。
そして次に『どこで』を決めることにしよう。無能な人間であるがゆえ、再びインターネットを開いた。『死ぬ 場所』で調べた結果、56000000件の『死ぬまでに行きたい名所』が出てきた。まぁ、現在の世の中の需要はそっちだろう。しかしこれも中々面白い。流石にモン・サン・ミッシェルやエアーズロックの前で死ぬことは難しいだろうが、樹海や滝、人気のない神社などもある。どこにヒントが隠れているかわからないものだなと感心した。更に様々な条件を付けて絞り込むこともできるようだ。あいにく私には太宰のように心中するような相手もいないので一人旅ということにしよう。移動手段は問わないが、どうせなら不必要なものは全て身につけず死にたいのでできれば徒歩距離、又は電車等がいいだろう。そして、選択肢を絶景にしておく。最後の晩餐は私にとっては二の次なので、グルメは外すべきだろう。そうして残った6000件弱の記事をのんびりと見ていくことにした。
海、山、川、森、滝、街道、寺、神社、タワー、博物館、孤島、トンネル、夕日、遊園地、ダム、資料館、オブジェ、星空、記念館…。
目移りしてしまうほど沢山の場所が見つかり、それら全てが美しく、心惹かれるものだった。死ぬ前に行くべき、という言葉の意味が実によくわかる。しかし、今の私に必要なのは死に場所だ。観光気分で行ってみたいと思う場所は今は求めていないのだ。死地とはここで死ぬ、という強い意志を感じる場所。運命の出会いはそうそうあるものではない。あっという間に全ての記事を読み終え新たな策を練っていると、あるレビューを見つけた。
「私の、思い出の場所です!」
…思い出の場所。そうか、私にとっての思い出の場所で死ぬ。ある意味人生を締めくくるような物だ。これはいい。実にいい。早速私の味気ない人生の中で数少ない思い出を探り出した。
親と喧嘩して家を飛び出した後、駆け込んだ河川敷の小さな小屋。水槽の奥の生命に圧倒された水族館。今はもう死去した、優しかった祖父母の家。友人とふざけ合ったキャンプの夜。毎日のように通っていた駄菓子屋。
…しかし、私の脳内に一番残っていたのは幼少期、あまりに大きく感じた夕焼け空のあの公園。高台にあり、滑り台と砂場しかなかった小さな公園だ。柵に囲まれたその公園から見たあの夕日が私の心に鮮明に焼き付いていた。
これで、『どこで』と一緒に『いつ』も決まった。丁度今日は晴れだ。もう1、2時間で夕焼けが見られるだろう。台所から大ぶりな包丁を取り出し、私は駆け出した。
こんなに走るのはいつぶりだろうか。
こんなに直感的な判断はいつぶりだろうか。
ここの道を通るのはいつぶりだろうか。
そして、こんなに清々しい気持ちは、いつぶりだろうか。
昔と違い、整備されている坂道を駆け抜け、自らの死のために進む。やり残した事はない。やることは全てやった。あとは死ぬだけだ。あの頃は大きく見えた通りを私は、子供の頃に戻ったように走る。あの時のような笑顔で、あの時のような気持ちで、あの時のあの場所へ。
たどり着いたその公園は、昔と何も変わらないちっぽけな遊具で私を出迎えた。あの時、私の背丈以上あったはずの柵は今では太ももにも満たない。
心臓が震えるのを感じた。血液が躍動している。呼吸が整ったのを確認した後、私は包丁を握り、その場に正座をし、眼前に広がる町並みとあの日と同じ大きな大きな夕日に包まれた。
私の生きてきた人生の、最後の大舞台。華々しく散るその瞬間を、今、私は、今!!
私の頬に、熱い物が一筋、通り抜けていった。その後を追うようにもう一筋、またもう一筋と瞳から熱い物が流れていく。
死を恐れた恐怖の涙ではない。絶景への感動の涙でもない。痛みの涙でも、悲しみの涙でもない。
なんの涙なのか、私には皆目見当もつかなかった。けれど、ひとつだけ分かったことがあった。
「死ぬのは、また今度にしよう。」
どうしてそう思ったのか、私にもわからない。けれど、これでいいんだと。それだけは確かにわかる。この気持ちに言葉なんてものは存在しないのかもしれない。それでも、なんだか心地よかった。
そうして、私の自殺計画は終わり、また平凡な人生が続くのであった。
〜fin〜