白い犬の絵の話
それは、祖父の遺品を整理している時の話だ。
「なあ、兄貴」
声をかけると、箪笥の前で祖父の衣服をまとめていた兄が振り返る。押入れの前で胡坐を掻いて座る俺を見て、その眉間に皺が寄った。
「お前なあ、休んでないで片付けしろよ」
「してるよ。ちょっと休憩してるだけだって。それよりさ、これってじーちゃんのだよな?」
俺は膝の上に広げていたスケッチブックを掲げて見せた。
表紙が鉛筆の黒鉛で薄汚れ、年月で色褪せ、古びたスケッチブック。押入れの隅に重ねられたそれは、十冊以上はあるだろう。
こういう誰かが、特に見知った身内が描いたスケッチブックは、中身を見てみたくなるものだ。好奇心に駆られた俺は、兄が何か言う前にさっそく開いてみた。
描かれていたのは、白い犬の絵だった。
絵というより、デッサンに近い。鉛筆で素早く描かれたもので、色はなく白黒のページが続いている。
犬は、凛々しい顔立ちをしていた。ぴんと立った三角の耳に、吊り上がった目じり、とがった鼻先。大きな体躯に、長いふさふさのしっぽ。
シベリアンハスキーとか、狼とか、そんなかっこいい感じの犬だ。
「じーちゃんって、犬飼ってたっけ?ていうか、絵、上手かったんだなー」
白い犬は、ほとんどのページに描かれていた。
座っているところ、寝転がっているところ、歩いているところ、走っているところ。
水玉模様のボウルに顔を突っ込んで、たぶん牛乳を飲んでいるところ。
忙しなくしっぽを振っているところ。ちゃんと漫画みたいに動きを付けた線が付けられているからわかる。
雪に足跡をつけて跳ねるように歩く姿。頭だけ雪の塊に突っ込んだ姿。時折、デフォルメされた絵もあって、何だかだんだん可愛く見えてきた。
めくる手は止まらずに、開いた次のページには、白い犬と、十年ほど前に亡くなった祖母の姿があった。
丸顔で小柄で、眼鏡をかけていた祖母のことは、あまりよく覚えていない。祖母が亡くなった時に自分がまだ小さかったせいもあるが、母親があまり祖父母に会わせたがらなかったせいもある。
縁側で仲良く並んで座る一人と一匹に、ふと、ページをめくる手が遅くなる。
懐かしさと共に、少しの後ろめたさが湧き起こった。躊躇いながらも開いた次のページにも、祖母と犬の絵が描かれている。
歩く祖母の後ろ姿。その足元に寄り添う白い犬の後ろ姿。
祖母がしっぽを撫でて、白い犬が祖母の顔を嬉しそうに見上げる。
「……」
無言で絵を見つめる俺の傍らで空気が動き、兄がしゃがみこんだのがわかった。
スケッチブックをのぞき込み、「懐かしいな」と笑みを零す。
「……じーさんは、ばーさんのために絵を描いてたんだ」
「え?」
「ばーさんには『見えなかった』から」
だから、『見える』じーさんが描いたんだ。
そう言って兄は立ち上がると、また片付け作業に戻ってしまう。
――祖父から外見も中身も、その『見える』力も引き継いだ兄。兄は、その力のせいで母親から距離を置かれ、結果的に祖父母に預けられることになった。俺が祖父母にあまり会わなかったのもそれが原因だ。
兄の後姿を見ながら、俺は「でも」と言いかけて黙った。
だって、この犬、ばーちゃんのだろ。
見えてなかったら、そんなの――寂しいだろ。
めくるページに描かれる、犬と祖母の仲睦まじい姿に、胸の奥がぎゅっと引き絞られるように痛んだ。
ほのぼのとした優しい絵なのに、切ないような。
何だか苦しくなって、閉じようとしたスケッチブックの、最後のページがぱらりと開く。
最後のページには、今までと全然違うタッチの絵が描かれていた。いや、タッチではなく、描いた人物が違うのだ。
小学校低学年の子供が描いたような、下手くそな絵。
それには、祖母と、白い犬と、祖父が並んで描かれていた。
二人の間に、一匹。皆、にこにこマークみたいな、満面の笑顔を向けていて。
寂しくなんかなかった。楽しそうで、幸せそうだった。
思わず、兄の後ろ姿を見やる。
……こんな笑顔を向けられるのなら、兄貴も、寂しいだけじゃなかったのかもしれない。
じわりと胸に熱が広がるのを感じながら、溢れる感情をごまかすように、おどけた声を出す。
「兄貴、絵ぇ、下手だなー」
「は?」
振り返った兄は、俺の膝の上に開かれたページを見て、げっと顔を顰める。
「馬鹿っ、それは……」
「じーちゃんを見習えよ。せっかくの綺麗な絵の中に下手な絵があってさぁ」
「小学生だったんだから仕方ないだろ!じーさんだって、最初は絵が下手で怒られたらしいし……というか、お前、さっきから全然片付け進んでないだろうか。遊んでばっかりだと、居候させてやらないからな」
「げっ、ひでぇ!大学受かったら居候していいって言ったの兄貴だろ!」
「させてやってもいい、って言ったんだ。了承はしていない」
「つーか、この家はじーちゃんのだろ!」
「今は俺の家だ。文句あるなら出ていけ」
「横暴!兄貴の馬鹿!」
ぎゃんぎゃん言い合う俺と兄貴を、縁側に寝そべっていた小柄なキジトラ模様の猫が呆れたように眺めて、くあぁ、と暢気に欠伸したのだった。
当初は、白いしっぽと私の日常の後日談の一つとして考えていた話です。
プロット上で省いたため、短編で独立して読めるようにと、人の名称は入れずに書きました。
単独で読んでもらうも良し、繋がりを感じながら読んでもらうも良し、な作品になっていればよいです。