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恋する少女の独白

ただ一つ、後悔することがあるとすれば、他人を許容しようと思ったこと。

他人を信じたこと。

他人を愛したことか・・・。

人を好きになった。

とにかく、心残りは、それだけだ。

それは、もう肌に刻まれたものと同じ。

そのわだかまりだけが、余熱のように残る。

決して消えることがない。

消えてほしくない

                     森 博嗣『月は幽咽のデバイス』



                         小さき天才の恋詩曲


「後悔?」

「そ、後悔」

白衣を纏った女が「うーん」と唸り始めると、目の前にいる同じく白衣を着た少女は、またか、と呆れた顔をした。少女の眼前の美女は、何事も複雑に難しく考える特性を持ち合わせており、一度考え始めると少なく見積もって1時間は回答を得られない事を、少女は経験的に知っていたからだ。

唸りながら悩む女に少女は苛々しながら、眼鏡の端を指で持ち上げる。

「したことあるの? それともない?」

「悪いけど、それは即答しかねる難しい質問だわ。後悔をどう定義するかで、その解は変わるし、それに一般論で云えば『後悔した事いない人はいない』ってことですものね、そうねぇ……」

ブツブツと念仏のように呟く女――上司でもあるカミーユ・フネールを見た少女は、「はぁ」と深々と溜息を吐く。そして頭を左右にゆっくり振って、呆れ口調で言う。

「貴女って、ほんと小難しく考えるのが好きね」

少女に呆れられたカミーユは、そうかしら、と頬に手を当てて涼やかな声音で生返事をする。

その女を眼鏡越しに見て、やっぱり美人はどんな性格をしていても絵になるわね、と少女は思った。確かに、少女の所感の通り白衣の女は、美女と呼ぶに相応しい容貌の持ち主であった。

女の肩を覆う長い髪は、青白い燐光を宿した眩いまでの銀。そして、抜けるような白い肌。長い睫毛に彩られた切れ長の双眸は、吸い込まれそうな碧色をたたえている。高く細い鼻梁、滑らかな曲線を描いて尖った顎へ続く頬のライン――なにより、いつでも謎めいた微笑をたたえる唇は薔薇の、あるいは鮮血の如き紅が印象に残る。そのどれもが完全な造形美と呼ぶに相応しいものであろ、まさに、美神の如き美貌の持ち主といえた。

再び、溜息を吐いた少女のそれは色々な意味が含まれていたが、カミーユはそれに頓着した風もなく少女に切り返す。

「それが私の性分って奴よ。いい加減その辺りを理解して欲しいわね、お嬢さん。それより、貴女はあるの?」

「あたし? そうね、あたしの場合は、こんな会社で研究員になったことを後悔してるわ」

「あら、ずいぶん云うわね、ウィザード研究員」

「冗談よ」

少女――カーテローゼ・ウィザードはクスリと笑いながら謝罪の言葉を口にする。そんなカーテローゼに、女は軽く肩を竦め、散乱している資料の一つを手にする。

「で、何かこの質問に意味はあるのかしら、可愛らしいお嬢さん?」

「ちょっとね」

それだけ云うと、二人は黙々と資料と睨めっこをする。時々、ペンを走らせる音だけが研究室に響くほど、周囲は静かだ。それもそのはずだった。この研究室はカーテローゼ個人にシャニアテック社が与えた施設であり、機材からスタッフまで彼女が自由に出来る個人空間プライベートスペースであったが、彼女は助手の一人も雇わずにいた。

天才の呼び名高いカーテローゼであったが、研究に没頭すると周りが見えなくなる生粋の研究者気質であり、必要なら雇うというスタンスであったが、これまでのところ雇った実績はなかった。とはいえ彼女が何でもできる万能人間という訳はなく、整理整頓などは彼女が苦手な分野としって筆頭に挙げるものであった。

企業に雇われた技術者の常として、定期的なレポートの提出は出資者への最低限の義務であり、それを行わなければ、どれほど天才的な頭脳を持っていようと干されてしまうシビアな世界なのだ。

かくして天才の中の天才カーテローゼ・ウィザードは企業から提示されたレポートを提出するべく、散乱した資料を纏め整理しているのであった。「凡人に分かるように説明するのは骨が折れるわ」とはカーテローゼの言だが、結局の所、研究に託けて報告書の作成を怠っていたしわ寄せで、提出期限を明日に控えて慌てて資料を整理していたのだった。

そして、それをたまたま遊びに来て、カーテローゼの多忙振りを不憫に思った美女――カミーユ・フネールが協力を申し出たのである。

もっとも、この研究施設の主任者=上司であるカミーユにとって、カーテローゼの報告書れポート提出されないと自分の失点に繋がるというのも、手伝いの理由の一つではあろうが。ちなみに、その容貌と同じくカミーユの研究室はいつも綺麗に整理してあり、カーテローゼなどは顔を出す度にしきりに感心していた。


「あたしね」

カーテローゼが小さく呟くが、カミーユは顔すら上げない。いつものことだ。カーテローゼに限らず、研究員スタッフの大半は独り言が多く、一つ一つに構っていてはキリがないのだ。

「後悔、したことあるわ。一回だけだけど」

「ふ〜ん、そうなんだ」

カミーユにしても研究報告レポート以外のカーテローゼの言葉には、それほど信を寄せていない。GR機関というシャニアテック社の将来の金字塔を設計開発した少女は、己の生み出した重力制御機関の研究にその身を捧げており、たまに会話してもよく分からない事を話す事が多い。

逆にカーテローゼにしても、カミーユは複雑怪奇な思考回路をした人間だと思っているのから、お互い様とも云えなくもない。

カーテローゼの独白に適当に相槌をうって済ますカミーユを気にする事もなく、カーテローゼは続ける。

「人を好きになったこと」

カミーユは反射的に顔を上げた。目の前にいる少女は、資料から目を離さず、頬に掛かる長い黒髪を邪魔そうに払っている。

「ウィザード先生、質問よろしいかしら?」

「質問を許可します。なんですか、フネール君?」

「どうして、人を好きになった事を後悔してるの?」

「後悔した、からかしら」

「それは解答としては不適切だわ」

カーテローゼはゆっくりと資料から目を離し、美女の碧の双眸を見つめる。

「そうね、アルノー・ド・ブレイユ本部長にこんな報告したら確かに大目玉ね」

「……引っ張るわね。私の場合はちゃんと理由があるわ」

「後学の為に聞かせて欲しいわね」

「宇宙開発室長とかいう、中年ハゲが色目を使ってきたから、私の美脚で教育的指導を延髄に叩き込んだだけよ」

「――貴女って凄く頭の冴える人だけど、バカよね」

「最高の褒め言葉だわ、|《天才ちゃん》(ザ・ジーニアス)」

先日、シャニアテック社重役であるアルノー・ド・ブレイユに、カミーユが本社に呼び出され説教された事を引き合いにだすも、年上の才媛はまるで堪える風もなく満面の笑みを浮かべ切り返した。カーテローゼとしては、彼女の脛を蹴ってやったつもりかもしれないが、サラリと矛先を逸らされ、うぬぅ〜と鼻白む。当年きって、27歳の才媛にさしもの天才も口では勝てぬらしい。

「で、なんで後悔したのかしら?」

「ん、そうね」

余裕たっぷりに質問を重ねるカミーユに、カーテローゼは手首にはめていた髪を縛る輪ゴムを取って、自分の髪の毛を一本に結び、一呼吸置く。カミーユはその様子を見ながら綺麗な髪だと思ったが、そのことを彼女に言っても、どうせ「それって嫌味?」とか言われるのがオチだとよく知っていたので、実際に言葉にはしなかった。実際、カーテローゼも十分可愛らしい容貌をしていると思うが、カミーユが持っている美貌とは異なる性質のモノであり、なんとなくだがカーテローゼが自分の容貌に憧れている事を知っているカミーユは、冗談でも容姿の事を引き合いに出さないようにしている。

それは彼女なりの優しさでもあり、処世術でもあった。

「仮に、あたしがある男を愛する、とする。そして、あたしはその男の為ならば、と一生懸命、何事にも頑張る。彼が何か失敗しても、許す。時には叱る。そして、愛してあげる……」

「それは幸せな事だわ」

「かもね。……でも、問題はこれから。もし、その男が私を捨てて、他の女の元へ行ってしまったら。今まで、あたしがしてきたことが、全部無駄にならない?」

一纏めにした資料を机でトントンと綺麗に纏め、資料整理箱と書かれたダンボールにファイリングして入れる。それに倣うように、カミーユも纏めた資料をファイリングしながら、言葉を綴る。

「だったら、捨てられないように頑張ったら?」

「もっと頑張って、捨てられたら?」

「じゃあ、もっともっと頑張る」

「それでも捨てられたら?」

「あのねぇ、カーテローゼ・ウィザード君。人生は、もっと気楽に考えるべきよ」

カミーユはこめかみを抑えながら言う。

(やっぱり、この娘の考えることは分からない。どうして何回も同じ男に捨てられないといけないのだろうか、っていうか何? あれかな、この娘? キャリアウーマンがダメ男にゾッコンで人生転落しちゃうタイプ? 頭いいのに、要領サイアクって奴かしらね)

「気楽に考えたら、他の女に取られない?」

「だからねぇ、君も若いんだから、そんな悲観的に考えるべきじゃないわよ」

「ん、そうね」

あっさりとカーテローゼは頷いた。カミーユはそんな彼女を数秒見つめてから、はぁ、と大袈裟に溜息を吐いてみせる。

「カリン、貴女は後悔するのが嫌い?」

「勿論。後悔が好きな人はいないわ」

「じゃあね、お姉さんがイイ事を教えてあげるわ」

「性教育は間に合ってます」

「違うわよ、失礼ね。アンタ、私を何だと思ってるのよ」

ジト目で少女を見やる微笑の美女は、背後から僅かに殺気が立ち上る。しかし、それに動じる様子もない少女に、小さく溜息を吐き、ニヒルな笑みを浮かべてみせた。

「後悔しないほど、誰かを好きになればいいのよ、カーテローゼ・ウィザ−ドくん」

氷蒼アイスブルーの双眸が、少女の瞳を見つめる。年上の同僚の言葉に驚きとか、呆れとか、そんな感情が生まれる。ちょっとしたカルチャーショックだとカーテローゼは思った。

「ポジティブね、どうやったら、そんな風に考え――」

「普通に考えただけよ、お嬢さん。捨てられた時に、あぁいい恋愛だった、って割り切れればいいじゃない。そういう考えができない人も沢山いるけど、後悔したくなんでしょ?」

「………」

「これがたった一つの冴えたやり方、よ」

「ハン・ルー・ハンか……恋は冒険ってことかしら?」

「難しく考えない事よ」

「カミーユにそれを云われちゃうか」

一瞬ぽかんとカミーユの顔を浮かべたカーテローゼは、苦笑を浮かべ諦めたかのように両手を挙げる。

「カミーユの云うとおりかもね、ちょっと屁理屈だけど」

「素直じゃないなぁ、君は。恋愛はもっと気楽に考えた方がいいわよ」

「あたしは真剣に考えたいの。後悔したくないからね」

ニカっと笑う少女に、青春ねぇ、とカミーユも笑顔を浮かべる。

「話の続きだけど」

「ん、何?」

「後悔したくないんでしょ?」

「そうよ」

「私も後悔したくないわね、カリン」

「?」

「そういう場合はね、味方は一人でも多い方がいいのよ、恋する乙女。――そこで百戦錬磨、落とした男の数は星の数の、このカミーユ・フネールが君に協力をしようと言ってるのだがね」

どうする、とばかりに人の悪い笑みを浮かべ、小首を傾げてみせる。

「まずは、報告書を終らせるのが先決」

「ご立派、とりあえず本件の協力要請は本日中まで受け付けます」

「受付期間の延長は?」

「ありませんわ、可愛らしい人。私も忙しい身なのでね、早めに答えをくださる?」

「……意地ワル」

「何か云った?」

「な〜んにも云っていないわ」

火星にて烽火が上がるホンの少し前の話。

仮初の平和を享受できた、幸せな時間。

たったこれだけの事が幸せだった記憶。


カーテローゼ・G・ウィザードの夢の物語。




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