夏目漱石と私の解釈
初めて書いた小説になります。拙い文になってしまっているとは思います。誤字脱字もあるかも知れません。それでも、読んで頂けたなら幸いです。
冬が好きだ。頬を撫でる風は冷たく、私の体温を奪っていく。悴んだ手にはきかけた息は、白く揺らめいて消えていく。葉が落ちた木々は少しの寂しさを抱かせるが、そこに新しい芽吹きを見つけて、新たな生命に心が躍る。静寂の中、響く靴音は一つしかなく、この空間を私が支配しているかのような錯覚を抱かせる。ふと顔を上げて目に入るのは、雲に半分ほど隠れた月と、都会の明かりに負けず輝く星達だけだ。
夏目漱石がI love you を『月が綺麗ですね』と喩えたが、なるほど言い得て妙である。勿論、これについての解釈は千差万別であるが、私には最上級の愛の言葉である。ああ全く、私も毒されたものだと心中で吐き捨てた。そうだな、そこまでの経緯を御話しよう。それは随分と昔、私こと『田川みく』が、まだ十代後半の頃の物語である。
秋が終わり、冬が来た。その到来は私の心を躍らせ、お気に入りのジャケットを羽織り、幼い子供のように家を飛び出した。マフラーも手袋もしない。身体全体でその澄んだ冷気を浴びる瞬間が至福なのだ。誰に問われたわけでもないが、私はそうして言い訳をする。それも毎年のことだ。
私の散歩道は決まっている。人通りの多い道を避けて歩き続ければ、そこには廃れた小さな公園があるのだ。ブランコと滑り台。遊具が二つしかないこの公園には、滅多に人は現れない。私はその静かな空間で、一人ブランコを独占するのである。小さい子供が見れば、ただ独り占めしているようにしか見えない光景である。勿論、そんなつもりは毛頭ないのだけれど。ただこうして呆けたようにブランコに座り込む女子高校生は、随分と浮いた存在だろう。私が目撃したならば、怪訝そうに顔を歪める自身がある。なんとも間抜けな光景だ。
土を踏む音にふと我に返り、公園の中を見回す。見たこともない青年が視界に入って驚いた。まさか他の人がこんな時間にここに足を向けるとは予想していなかったのだ。ジャケットに押し込んだ携帯を引っ張り出して、時刻を確認する。『11:28』と表示されるそれに、予想外に居座っていたのだとわかる。小さく溜息をつくが、どうも腰を上げる気になれない。そっと携帯を仕舞い込んで、突然現れた青年の動向を探った。小さい公園ではその姿を見つけるのは一瞬である。青年は子供用の滑り台の上に座り込んで、読書をしていた。大きさから見て文庫本だとわかる。なるほど、それならばここでも浮かないだろう。気晴らしとして最高だ。私も次からはそうしようと密かに決心した。
青年はとても若く見える。私と同じ位の年齢だろうか。一度気になれば人間なかなか意識を逸らすことは難しい。盗み見るように何度かその姿を視界に入れる。気づかれでもしたらただの不審者である。そしてふと青年が読んでいる本が気になった。よく見ればそれは夢十夜と書かれている。夏目漱石の作品で有名なものだ。私の中で印象深い文はやはり冒頭だろうか。『百年待っていて下さい』とはよく言えたものだ。それほどまでに深い愛なのだろう。私はまだそこまでの愛を抱いたことはないが。彼の書き上げる文はとても美しく、読み始めればその情景が脳裏に浮かんでくるような錯覚を抱かされる。私は彼のそこにひどく惹かれるのだ。そういう面で、彼は天才だったのではないだろうかと、何度思ったことか。もう数えることは放棄してしまったけれど。
目を逸らさずにそれを見つめていれば、青年が顔を上げた。唐突なことに身体が跳ねる。連動するように微動だにしなかったブランコが揺れた。沈黙が流れて、気まずさに立ち上がろうとするも、一歩彼の方が早かった。滑り台から下り、こちらに向かってくる青年は背が高いらしい。近づく度に首の角度が上がっていく。そうして目の前に立った青年は、私のことをじっと見つめてくるものだから、どうも反応に困ってしまう。どうしたものだろうか、沈黙が痛い。時間はそれを笑うように、過ぎていった。
どれだけの時間が経っただろう。数秒かもしれないし、数分かもしれない。いい加減首が痛くなってきた。その痛みに自分の機嫌が下がっていく。全くもって、ただの八つ当たりだ。この状況に対して悪いのは勿論私であるのだから。しかしその時間は唐突に切れることになる。
「どうかしましたか」
先に言葉を発したのは青年の方だ。高くもなく低くもない、だがそれは聞きやすいトーンで私の鼓膜に響いた。私の予想は正しいのだろう。現金なもので、簡単に私の機嫌は浮上した。
「あなたのそれが、気になりました。」
正直に言えば、彼は手に持ったままの本に視線を落とした。漸く離された視線に内心で安堵の息をはく。随分緊張していたらしい。しばらく彼の動向を窺えば、どこか納得したように小さく頷いた。
「読んだことがあるのですか。」
「はい。私はそれを気に入っています。」
「それは驚いた」
彼はその返答に、興味を抱いたように目を瞬かせた。確かに私は随分若いが、彼も同じ位の年齢だろう。不満げに彼を見返せば、それに返すように首を振った。
「あまり周りにいないので。夏目漱石は好きですか」
「はい。彼の文はとても美しい。」
「全くだ。」
どうも私と彼は、惹かれている部分が似ているようだ。これは喜ばしいことである。人の考えは十人十色だ。こうして共感し合えることも、そうあることではない。どうだろう、彼もどこか嬉しそうだ。今日は良き日である。そう宣言しよう。
彼はブランコの囲いに腰を下ろした。どうも気を使ってくれたらしい。彼は、私と会話をしようとしているようだ。私も大歓迎である。勿論言葉にすることはないけれど。そうして、どうだろうか。随分と居心地の良い空間が完成した。
携帯を開く。連絡先のフォルダには新しい名前が登録されていた。『松葉幸孝』という四文字が画面に表示されて、今日感じた喜びが蘇ってくるから不思議だ。彼はとても面白い人物であった。私の周りにはいない、随分と美しい言葉遣いの青年である。そして私の予想は当たり、彼は私と同じ年齢だった。全く、彼を見習ってもらいたいものだ。そう考えてすぐに改める。彼が珍しいのだろうと思い直したからだ。それにしても、あの時間はとても有意義だった。今までにないほど、彼とは好みが合うらしい。共感し合えるということは幸せなことである。そうして、私はまたしてもあの空間を思い浮かべるのだ。
どうも彼は最近越してきたらしい。大変喜ばしいことであると心中で声高々に叫んだのは記憶に新しい。神に感謝しなければなどど、常日頃思うことなどない言葉が浮かんだほどだ。とても貴重な存在を手に入れた私は舞い上がっていた。最近の若者とはどうも価値観が合わないことが多い中、運命的だと思わずにはいられない。それはまた、私の好きなこの冬に、あの場所で出会えたことが半数以上を占めていることは言うまでもない。次はいつ合えるだろうか。踊る心を抑えつけて、私は本棚に手を伸ばした。勿論、目的は『夢十夜』である。
どうも私は影響を受けやすいらしい。手に持つ袋を覗き込んで小さく溜息を吐いた。ブックカバーに隠れたその表紙には、一夜と書いてあるのだ。それは言わずもがな夏目漱石の作品なのだから、自分の単純さに少しの頭痛を覚える。全く、どうしたものか。人通りの多い駅前で立ち尽くすが、押されるようにして一歩を踏み出すことになった。これだから人が多い場所は苦手なのだ。理不尽に機嫌を悪くした私は、諦めて帰路につく為、重い足を動かした。それに比べて幾らか軽くなった財布が、どうも哀しかった。
読み始めてみれば、それからはもう引き込まれるだけであった。有名な著作人は、冒頭の文からして惹かれるのだから、その才能には恐れ入る。これだけの言葉を文にし、また、ここまで美しく仕上げてしまうものだから、これはもう一つの芸術だと読み終わったそれに指を這わせた。私の年代で、こうして文を噛み砕いて読む者はどれだけいるだろうか。私の知っている中では一人しかいないのだから、そう多くはないのだろう。全くもって、損をしている。一度に読んでしまったから、下げていた首が痛い。そっと撫でて、席を立った。
彼と初めて会ったあの日から、数日が過ぎた。その間お互い、連絡をしたことはない。とても淡白な関係である。勿論、話をしたいと思わないわけではないのだ。あの空間は居心地が良く、彼から紡がれる美しい言葉の羅列は聴いていて気持ちがいいのだ。それでも連絡をしないのは、ただ勇気が出ないという、なんとも情けない理由である。全くもって恥ずかしい。だからこうして、私は今も一人、静かな自室で微動だにしない己の携帯を睨みつけているのだ。他力本願とはまさにこの事だろう。そうして今日も、私は諦めて床につく。自信の不甲斐無さが恨めしい限りだ。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。いかがだったでしょうか?
どうもまだ慣れる事が出来ず、いつも頭を悩ませながら書いています。少しでも気に入って頂けたなら、幸いです。